海外編 国内編
ヴェネチア ネパール紀行 2013年 北海道
南ドイツ・クリスマスの旅 香港…金融視察 パワースポット鞍馬・貴船
    清水寺に“反逆児”の碑
イタリア・フランスの旅
 ●ナポリ・ポンペイ

 ●ローマ、無料で楽しめるアート

 ●パリ、夜のモン・サン・ミシェル

 ●モン・サン・ミシェルを歩く

 ●ルーブル美術館と
           ベルサイユ宮殿

 ■フランスの鍼灸事情
 ▼フランスの医療・介護事情
イタリア・フランス春の風景
済州島(チェジュド) まほろばの倭(やまと)
広州・マカオ・香港 宮城・気仙沼医療ボランティア
韓国・ソウル 世界遺産の屋久島
台湾と台北鍼灸事情 北海道・東部地区一周
イスタンブール

2013年 夏の北海道
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日本中、猛暑日が続く2013年 北海道は日中30℃前後になるが、朝晩はほんまに涼しい。
千歳空港から
森林の中を走る「支笏湖通」(道道16号線スカイロード)を通って、
まずは支笏湖へ。湖水に浮かぶ恵庭岳。


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小樽運河周辺は、国内外からの観光客で賑わっていた。ガラス工芸は絶品。

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森林の中をホーストレッキング(小樽市銭函)。馬上から石狩湾を望める。

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冬もいいらしいが、夏の夜の旭山動物園(夏の特別期間開催)もいい。

大雪山・旭岳へ
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大雪山・旭岳2,291m。旭岳ロープウェイ(山麓駅1,100m~姿見駅1,600m)に乗って散策。

エゾオヤマノリンドウとミヤマアキノキリンソウ。
②エゾノツガザクラの蜜を吸うハチ。
③当麻町の開拓団碑。

①                ②         ③      
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バラの花を東京などへ出荷する当麻町。バラの風呂がいい。形が崩れない。(いちいの宿)

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じゃがいも畑?も麦畑もスケールがでかい! TPPで揺れる北海道。
「北海道は日本から、独立したほうがいいと思う。」
「農業も、漁業も、林業も自給率120%以上。観光も世界中から来てくれるし…。」
「充分やっていける。TPPでメチャクチャにされたらわからんけどね?!」
C:\Users\keijisatoan\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.Word\12日 (127).jpgC:\Users\keijisatoan\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.Word\13日 (124).jpgC:\Users\keijisatoan\AppData\Local\Microsoft\Windows\Temporary Internet Files\Content.Word\コピー ~ 14日 (48).jpg
ケンとメリーの木㊨㊥。ジェットコースターの道㊧。

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深山峠から十勝連峰を望む㊨。ペット専用ペンション「ひつじの詩」㊧。(上富良野町)
夜、あたりは真っ暗。ヘッドライトだけが頼りのなか、
上富良野町のフロンティア・フラヌイ温泉に行く。
中国人に占拠(女風呂)され、とても入れる状態ではなかった。

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トリックアート美術館㊧。この木、何の木、気になる木??㊨。
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親子の木

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美瑛・色彩の丘は中国人観光客などでいっぱい。
愛犬が珍しく、じ~っと見つめて追いかけてくるアルパカ。
生のままで食べれる甘~いトウキビは実に美味しい。

更新 2013年9月1日







ハーブ・薬草の秘境を訪ねて

(ネパールビジネス紀行)
2013年5月18


        ヒマラヤ山脈(カトマンドゥのハーブの生産・加工会社HPPCにあった絵画)

「ヒマラヤに抱かれた貧しい国」というイメージのネパールへ、バラのオイルとアーユルベーダの医薬品などを求めて、53日~8日の6日間、訪問した。

日本からの主なルートは、中国・昆明乗り継ぎ(27時間、中国南方航空)か、バンコク経由(15時間、タイ航空)などがあり、後者を利用した。バンコク国際空港での乗り継ぎ時間は6時間だが、いまやアジアのハブ空港としての発展があり、土産物店や飲食店など、行きも帰りも飽きることはなかった。

ヒマラヤはじめ山々に囲まれた国のイメージを抱いて着いたカトマンドゥ(KTM)国際空港は、日本のローカル空港と変わらず、雲と大気汚染で覆われ、期待したヒマラヤの山並みを望むことはできなかった。

 それよりも、空港でビザがいるというのがわかった。税関の前にはスピード写真の店があり、近くのみやげ物店で両替し、ネパールルピーに換えてから写真を撮り、ビザ申請書に貼って、出国カードといっしょに出さなければならない。税関で支払ったお金が日本円でもOKで、3人で2,000円だった。一人いくらなのか??

空港に迎えに来てくれたのは、カル(37)と末娘(4歳、バラトプル在住)のカビタ・従弟のラジュ(36歳、※民間医師、ポカラの西南部にあるバグルン在住)と友達のデヴィ、6日間運転してくれるヴッディ(デヴィ、ヴッディともカトマンドゥ在住)の5人。カルは日本で働く夫のサルマ(41)とともに大阪に住んでいて、たまたま家族づきあいをしている間柄である。カルは1年半ぶりに、サルマは7年ぶりに帰るが、仕事の都合で、サルマとは入れ違いになる。以下、敬称略。


歓迎の習慣でカタという黄色い布を首にかけてくれた。
 左がラジュ。右端がカル。









ネパールには、医師になるための統一された医師国家試験 の制度はなく、どこの国の医学部を卒業していても医師とし て登録できる。ラジュは、ナラヤンガートのメディカル専門 学校で2年、イギリスで2年間ほど、医学・医療を学び、バ グルーンで「プライベートクリニック」を開業。どこへでも 往診に行き、地元では人気の診療所らしい。

    https://sites.google.com/site/neparuyoitoko/_/rsrc/1335855205130/42-45-daudagiri/45-bagurun/Baglunge%20bazar.JPG
         ラジュとカルの故郷、バグルーン 

6人乗り
のヴッディの車で、インドに近い南の方へ150kmほど離れたカルの家があるバラトプルへ向けて出発。気温は30度前後。

 街に入ると土ほこり、ひどい排ガス、未舗装部分が随所に残る道路とドアのないバスや45人が乗るHONDAYAMAHAなどのバイクが行き交う。窓を開けると熱いし、空気がひどく悪い。

 マスクを持ってきて正解だった。カルの計らいでエアコンの効く車とドライバーを探してくれたので、助かった。
しかし、カトマンドゥ市内に限らず、どこへ行っても道端のビニール袋やペットボトルなどのゴミが散乱している。

乗り合いタクシー ビニール袋・ペットボトル…街中も、山の中の道路わきも、ごみだらけ


  外務省によれば、70年代のカトマンズの街は排気ガスもなく、まるでシャングリラのようにきれいだったが、90年代に入ってからインド製のテンプーという3輪車や中古の自動車が急増。排気ガスに覆われるようになった。

ミャンマーからインド北部の上空を飛んでネパールにはいるが、空から見ると、ジャングルのように見える緑の大地といく筋も大きく蛇行する川が見える。
 それほど高くはないが、険しい山並みを越えるとカトマンドゥ盆地に入る。


カトマンドゥ盆地を囲む丘陵・山並み

カトマンドゥから険しい山並みを越え、蛇行する川に沿って4時間余、大型トラックやバスなどとすれ違いながら、曲がりくねったガタガタ道に揺られて行くことになる。
センターラインはなく、対向車が飛び出してくる不安にかられながら、ヴッディはときに時速100kmを超えるスピードで飛ばす。クラクションは鳴りっぱなし。

カトマンドゥでも、田舎の道でも、牛と犬がいたるところで寝そべっている。牛が道路の真ん中にドッカと座っている時は、スピードを落とすか、避けて通る。ヒンドゥ教のお国柄である。

バラトプルから西に150kmほど離れたネパール第2の都市でヒマラヤトレッキングの拠点である国際的リゾート地=ポカラへの往復も入れると、ヴッディの乱暴な運転に3日間付き合うことになった。


   
 
未舗装の山越えの道、崖下へバスが転落する事故もある     チトワンの田舎道を走るヴッディの車

㊤渋滞する道路の真ん中に牛がたむろしている
㊦郊外ではのんびりと
バスにははしごがあり…

カルの家に着くとカビタの姉2人(9歳、13歳)と対面。他に、1歳半の子を抱えた元教師のシッタ(24歳)がいっしょに住み込み、子どもたちの面倒を見ている。さらに、とても気がきくアナンダ(16歳、男)もいる。

カルが日本にいる間、この6人で生活をしている。
2階建ての家で、1階は貸家にしている。
       

カルの家

日本から持ってきた子どもたちへのお土産が入ったトランクを空けて、「店開き」。

1歳半のシリシティが目の前でお漏らし。母のシッタと長女のラクスィミが雑巾みたいなものを持ってきて拭いてくれたが…。

突然、夜7時過ぎに停電になった。
あたりは真っ暗。

早速、携帯用電灯とローソクの灯のもとで晩ご飯のカレーを作ってくれた。

ネパールでは2階にベランダを設けるのが普通。携帯電灯を頼りに、ネパールの家庭料理であるダルバート(ダル=豆スープとバート=米飯)を食べた。

このカレーならぬダルバートを6日間、付き合うことになる。

私たちにはスプーンを出してくれたが、子どもたちは右手で上手にカレーを食べる。

カルのベランダ

ネパールの家庭料理、ダルバート

トイレとシャワーがいっしょになっていて、お湯が出ない。もちろん、トイレットペーパーなどはない。
左手がトイレットペーパーの代わりらしい。

日本から持って行く必需品の一つがトイレットペーパーである。10個ほど持ってきていて、大正解だった。

英語を少し話せるラジュとこちらで立てた明日からの計画について、打ち合わせ?のつもりだったが、カルの助けがなければ、やはりこちらのたどたどしい訳のわからない「英語」では通じない。

2日目午前、近くのチトワン国立公園へ2時間ほど行き、そのあとポカラへ行って泊まって、カトマンドゥ方面へ引き返して「バラの精油とバラ・プラント探し」を始めるということになった。

その前にラジュも、ヴッディも、カルも、ネパールの観光地を見せたいという思いがあるようだ。


一番鶏や小鳥のさえずりで目が覚める。
この日は土曜日だ。ネパールでは土曜日が学校も企業も休みになる。アナンダに家の裏庭を案内してもらった。トリ小屋があって牛舎もある。4~50年前の田舎(秋田)を思いだす。
乳搾りの真っ最中で、よく見ると水牛の親子だった。


        

チャイを飲んでから、カルたち7人と私たち親子3人、ラジュとヴッディの計12人が6人乗りの車に乗ってチトワン国立公園へ向かう。

そこで像に乗って、ジャングルを1時間ほどまわる。



      チトワン国立公園でゾウに乗ってジャングルを探検、途中オランダからの旅行者と遭遇

サイが水浴びをしていたが、そうそう見れるものではないという。早朝なら、タイガーなどとも遭遇するときもあるらしい。

 

ここの「HOTEL RAINFOREST」で軽食をとってから、ポカラへ向かう。
アナンダが明日、学校の試験があり、途中、カルの自宅で降ろしてから、11人でポカラに向かう。


ポカラへの道は、カトマンドゥへの道と違って、未舗装部分があっても快適に走れる「ハイ・ウェイ」だった。いまは、乾期でもうすぐ雨期になるが、濁流にも見える川の水は雨期になると2倍ぐらいの水量になるらしい。途中、中水力発電があったが、軍隊によって厳重に管理されている。


㊨㊥ネパール~インド~バングラディッシュへと流れる川、雨季になると増水する。 ㊧デヴィ・フォール(ポカラ)

5時間ほどかかって着いたポカラでは、自然の洞窟や滝(デヴィ・フォール)などを見せてくれたが、デヴィ・フォールのみやげ物店で会った日本語の上手なチベット人Mr. Pema Lhundupから、見事なアンモナイト化石を購入。河原で探し出してくる。ヒマラヤがかつて海底にあった証拠でもある。

Pemaさんは、大阪に2年ほど住んでいたこともあり、ネパールでも日本人相手の山岳ガイドをしていた。

いろいろ話しを伺うと、近くに中国との内戦で逃げてきた「チベット難民村」があり、チベット伝統医学やアーユルベーダの店があることを聞いた、土曜日で休み。明日も日曜日で休みという。記念写真と名刺交換をして別れた。

夜、ポカラのホテルで夕食。ここも温水シャワーが出ない。山の方で稲光が発生し、強風が吹き荒れ、夜中に雨も降ってきた。

3日目晴れたらダウラギリ、アンナプルナ、マナスルという標高8000メートル級のヒマラヤの山々の頂きが望めるというぺワ湖へは行かず、子どもたちをバラトプルへ帰してから、カトマンドゥ方面へ「バラ探し」に行くことにした。途中、なぜか、ヴッディの実家に立ち寄ることになった。

朝10時前。車が通るたびに土ほこりが舞い上がる砂利道をのんびりと学校へ通う風景は、50~60年前の日本の田舎の風景を思い出す。



㊧ダラウギリなどヒマラヤ山脈が見えるペワ湖。㊥朝9時頃、砂ぼこりが舞う砂利道を学校に通う田舎の風
㊨カトマンドゥのホテル前

カルの家に着いて、荷物をまとめて、カトマンドゥへ向かう。カルとカビタ、ラジュが同行して、グニャグニャ、ガタガタ、ビュンビュンの道を再び超えて、停電で暗い首都カトマンドゥへ着いたのは、夜7時過ぎだった。

ラジュの友達のホテル(ゲスト・ハウス)へ案内された。そこへ、ラジュたちが探してくれた「バラの商品」を持ってきたインド人と対面。うさんくさそうやし、品物も明らかにナチュラルではないとわかる。とりあえず、持ってきた「バラ製品」を2,000円分だけ買って、帰ってもらった。

ホテルは温水シャワーが出ない。ベッドもきれいとはいえない。カルが夕食のダルバートにチキンではなく、ヤギの肉を注文してくれた。ローソクの灯のもとで食べると、なんでもはっきり見えないのがいいのかどうか?とにかく、ビール(TUBORG)と相性がいい。

※ネパールには、「ネパールの麦とヒマラヤの地下水で丁寧に醸造されたエベレスト・ビール」(エベレストブルワリー社がフィリピンのサンミゲルビールの指導のもとで製造)があるそうだが、国内のどこへ行っても街中にはコカ・コーラかペプシ・コーラとともに、「TUBORG」(ツボ―、デンマークの酒造会社)の看板だらけ。

カルに明日は温水の出るホテルで泊まりたいと切にお願いして、服を着たまま就寝。

4日目の翌朝、ラジュたちはヴッディのホテルに集まって、私が英訳して持参した資料をもとに、数人で「バラ精油」やハーブ、アーユルベーダなどの伝統的薬草・医薬品などの情報を集めて、議論していた。

娘が1人、昼の飛行機で帰国するので、午前中は大きなマーケットへ連れて行ってくれた。

市街地ではどこへ行っても、黒いマスクが目立った。娘が「これは日本で売れる」というので、ヴッディがスーパー・マーケットならと言って連れて行ってくれたのだが、ばら売りで数もない。しかもメイド・イン・チャイナだ。
また、カルの家で使わしてくれた蚊除けの「かや(ジュール)」も日本で売れそうだと思い、探したが、バラトプルで見たものより値が高い。

空港で娘を見送ってから、HERBS PRODUCTION & PROCESSING COMPANY LTD.(HPPC)へ案内してくれた。

ネパールの貴重な森林で採れる薬効とアロマになる植物からハーブとエッセンシャル・オイルを生産・加工している会社で、国の公費事業として行っている。

ようやく、天然の精油やネパールの伝統的ハーブを発見。いろいろ交渉して、大量に購入。ネパール人がちゃんと案内・説明してくれたので、「売ってもいい」ということらしい。

「バラの精油」は以前に扱っていたらしいが、「ネパリ・ヤクザ??」の関与で取り扱いは止めたという。

ほかに、天然オイルでブレンドした「SANCHO」というネパールでは常備薬的な塗り薬、アーユルベーダ療法に使われる「SHILAJEET」、筋肉痛などに効果のある「HIMALAYAN MASSAGE OIL(&CREAM)」を各数個づつ購入。SANCHOヒマラヤン・マッサージ・オイルは、確かに筋肉痛・神経痛やかゆみなどに効果があり、治療所で活用している。軽く塗布すると、即座に鼻づまりが解消され、気分が楽になる。

説明書には、すべてネパール産のハーブが原料で、成分・効能・用途・注意事項・使用期限などが明記され、価格も安価である。



              ネパールの公営企業、HPPC。ここでアロマオイルや医薬品などを購入

企業活動などの交流団体である「在ネパール日本人会商工部会」がどうしても見つからない。

そこで、ラジュたちは「日本大使館」へ連れて行ってくれた。大使館員と翌日にアポをとって、ホテルに帰った。

夕方、何でも売っているというカトマンドゥの有名な市場=アサン・マーケットがホテルの近くにあり、そこへ連れて行ってもらった。

アーユルベーダの薬草やスパイス、岩塩なども売られていて、購入。
ひとが行き交う広場では野菜市もあり、大きなマイタケのようなキノコと細長いアスパラガスも買った。

ヴッディのホテルで料理してもらったキノコは、ネパール風に炒めたもので、おいしかった。アスパラガスは翌日に、炒めずにスープにしてくれた。カルは「炒めた方がうまいのに」といったが、その方がおいしい気がする。


 カトマンドゥの庶民の市場アサン・チョーク・バザール(混み具合はこんなものではない。バイクも走るし…)。㊥薬草店。㊧かや。

夜、温水の出るヴッディのゲストハウスへ移る。そこで、ヴッディの親戚で東京の大東文化大学大学院に「留学」している29歳の青年(パラズリ)に会い、ネパールの情報などを聞いた。彼は、翌日も同行してくれて、通訳をしてくれた。

5日目ネパールの仕事開始時間の10時までに時間があるからということで、カトマンドゥにある世界遺産のひとつ、チベット仏教寺院=スワヤンブナートへ連れて行ってくれた。

別名モンキー・テンプルといわれるように、寺院に入ると、あちこちにニホンザルより少し小さ目のサルがあちこちにいる。職員がエサをやる時間だったので、エサ場にどんどんサルが集まってくる。

ラジュがカビタのために、「わたがし」を買ってやったが、ウロウロしている間にあっという間にサルに取られてしまった。一口も口にしていないカビタは、大泣き。あとで、ラジュはもう一度「わたがし」を買ってあげたが、今度は一口、口にした後またもやどこからともなくあらわれたサルにまた取られてしまって、カビタはまたも大泣き。
「ラジュ、ミステイク!」。



 留学生のパラズリがいうには、この寺院はもともと島になっていて、水に覆われていたが、向こうの高い山からお釈迦様が飛んできて、水がなくなって、建てられたと説明してくれた。あとで、調べてみると、少し違うようだ。

 太古の昔、カトマンドゥは湖の底にあって、スワヤンブナートの丘は湖に浮かぶ島だった。そこにやってきた文殊菩薩(マンジュシュリー神)が、剣で山を切り開き、水が流れ出して盆地になったという。

確かに地質調査では、2万年前のカトマンドゥは湖の底だったという。どこの国でも、神による国造りの伝説と実際の年代が一致しないようだ。しかし、紀元前3世紀にはアショーカ王(前268?~前232?)がこの地を訪ねたという伝説があり、B.C.5世紀にはリッチャヴィ王朝を築いたマーナデーヴァ1世(在位464頃~505頃)がこの地に寺院を築くよう命じたという記録もあり、古くからの寺院に間違いがない。

ここからは、カトマンドゥの市街地が一望できる。
チベット仏教の聖地らしい威厳のある寺院だが、サルにエサをやる一方、少年を含む「物乞い」があちこちにいるのは合点がいかない。


ついにお目当ての「オール・オブ・メイド・イン・ネパール」のハーベル・メディスンとエッセンシャル・オイルを自宅で作っているところへ案内してくれた。

郊外の閑静な住宅街にあり、家の前には大きな精油機を置いてあった。2階の応接に案内されると、オイルや医薬品が陳列してあった。説明の途中、30歳前後の若い男性2人が入ってきて、医薬品を買いに来た。パラズリによると、糖尿病を患っているらしく、塗布剤などを購入していった。

そして、目当てのローズ・オイルがあった。

ネパールの森林に自生するバラから採取したという。非常に高価で、主にアメリカへ輸出しているという。驚くほどの値段がつく。在庫は、20mlほどのビン1本だけだったが、香りも塗布感覚も、素人でも本物とわかる貴重なローズ・オイルである。

骨折や靭帯損傷などに塗布すると効果のある天然成分の薬(商品名「Best Past」)と肌をきれいに保持するオレンジの樹皮で作ったクリーム、いまでは中国やチベットでは希少な「冬虫夏草」をブレンドしたクリーム(商品名「Cordyceps Cream」)などと合わせて、ローズ・オイルをなんとか譲ってもらった。




「やった!ラジュ、Good Job! タンキュウ(ありがとう)」といって、目的の120%は達成した旨、伝えると、満面の笑顔で応えてくれた。帰りの車でラジュはこれまでになく、おしゃべりになっていた。

帰国後、靭帯損傷に効く塗布剤は、自らも含め、臨床試験しているが、確かに驚くほど治りが早い。
HPPCで購入した医薬品も含めて、数千年も続く「アーユルベーダ医学」のすごさを実感している。

すべて「100%Pure Natural」というのがうたい文句で、信じて購入してきたが、一応、化学成分や添加物などが含まれていないか、オイルや医薬品の成分を日本の理化学研究所などで分析・検査してもらうことにした。

市内でデモがあったらしく、渋滞で、日本大使館には30分遅れでついた。大使館前には日本へのビザを求めて多くのネパール人が押し掛けていた。それを横目に、2重3重のセキュリティのある門から車ごと中に入り、女性大使館員に会い、ネパール訪問の目的などを話し、大使館員からは用意された資料に基づき、レクチャーを受け、情報交換をした。

2009年に約250年続いたゴルカ王朝の王制が廃止され、「ネパール連邦民主共和国」が成立したが、いまだ議会で憲法が制定されず、政情が安定していない。時々、カトマンドゥではデモが行われる。市内のあちこちに軍隊がおり、警察官は信号のないほこりと排ガスだらけの交通渋滞の整理に追われている。



ネパールは傭兵の国。警察官は別だが、ヒマラヤ・シェルパ族など屈強な兵隊を世界各国に送っている。黒マスクで交通警備にあたるのは警察官。

大使館員に、入手したばかりのローズ・オイルを塗ってあげると、「ネパールにこんなにポテンシャルの高いものがあるんですね。」とその品質のよさに驚いていた。政情不安のために、国造りの見通しが立たず、大手企業の投資を呼び込めず、企業活動のむずかしさなどの説明には、変に納得してしまった。

最後の夜娘が気に入った黒マスクと蚊帳(ジュール)などを買いに、アサン・チョーク・バザールへ行った。ここで、お土産も買う。とにかく、安い。ほとんどの日常品は、メイド・イン・チャイナかインディアであり、2つの経済大国に“食い物”にされているようだ。

ラジュは、カトマンドゥにいる姪と甥を連れてきて紹介してくれたが、この夜、夜行バスで300㎞ほど離れたバグルーンに帰る。たまにドアがなく、屋根の上にまで「乗車」するようなバスで、電気のない、暗い山道を走る危険さを想像するととても心配だ。

ラジュは、診療所を5日間も休んでくれた。彼のまじめさと優しさに、感謝する言葉がみつからないが、バラや薬草の最適地でもある彼の故郷、バグルーンでのローズ・オイルの生産の夢の実現とヒマラヤ・トレッキングの案内をしてもらう約束をして別れた。

夜9時頃、最後の夕食は相変わらずダルバートだが、ビールに加え、世界一に輝いたこともあるネパール産ラム酒で乾杯した。カルはお酒を飲まないが、カルのおかげで、ネパールでの貴重な経験をさせてもらったことに感謝しつつ、遅くまで付き合ってもらった。すべての清算と支払いを済ませ、トランクに入りきれないほどの荷物を整理し、外では雷と雨が激しく振っている中、眠りについた。

昨日、ネパールの熱狂的な国民的スポーツであるクリケットで、ウガンダに勝利したという。その優勝パレードで渋滞するなか、空港に向かった。



                   国民的スポーツであるクリケットの優勝パレード
ネパール
には、日本からのボランティア活動が実に多い。JICAの活動もよく取り組まれている。
ボランティア活動のひとつに、日本からの鍼灸・マッサージのボランティアがある。

ネパールに住んで20年になる畑美奈江さんらがつくっている「ティテパテイ よもぎの会」の活動は、テレビでも報道された(「ティテパテイ」とはよもぎの意で、1991年に発足)。

大使館員に聞くと、「畑さんにはほんと、頭があがらないほど、よくやってくれています」と返ってきた。

一昨年には、チトワンのヘルスキャンプで、日本から過去最高の17名が参加し、ネパール人スタッフ6人はじめ、総勢数百人にのぼるスタッフたちの協力のもと、合計3,578名の患者さんの治療を行った。昨年は仏陀発祥の地、ルンビニで行い、今年は、ビルガンジーで行うという。
こうした活動は、よもぎの会のホームページで詳細に報告されている。

 初日のチトワン・バラトプルで、鍼は初めてというので、カルの家でラジュや近所の人たち7人に施術してみた。ネパール語で「痛い」は「ドゥクヌ」というらしい。鍼をしたあと「ドゥクヌ?、ノー・ドゥクヌ?」と聞くと
「ノー・ドゥクヌ?」などと会話?しながら、次々に鍼治療をした。肩こりから胃腸病など、その効果に一同驚いていた。

ラジュが「ネパールで、鍼灸をしてくれたら、ひっきりなしに患者さんが来るね!」というほど、求められていることは、確かだ。ただし、鍼治療はほとんど浸透していないし、西洋医学でも医師が不足し、カトマンドゥに病院があるぐらいで、診療所などもほとんどない。その上、ネパールでは保険制度がない(※)。

 今回、探し当てたハーブを使った医薬品やオイルなどは、ネパールでどう使われているのか、わからない。しかし、ヒマラヤを背景に、豊かな自然を生かした伝統医学の根付く環境は失われていない。インドや中国に経済的に影響を受け、翻弄されながらも、アーユルベーダ医学やチベット医学などを大事にしたネパールらしい国造りに、いくらかでも貢献できたらと、三浦雄一郎さんのエベレスト最高齢登頂の報道を聞きながら、思いを巡らせている。

※ 医療施設はカトマンズ中央病院を中心に11地区に地区病院、64県に県病院、ヘルスポストヘル スセンターが配置され、これとは別に伝統医学としてのアユルヴェーダ病院が2つ、アユルヴェ ーダクリニックが140ほど配置されている。

  病院やクリニックは清潔とはいえない。病院で清掃にあたるのは下位カーストの人たちが多く 識字率も低く、衛生観念が低いのも一つの原因といえる。

  医療保険は存在せず、完全な前払いシステムがとられ、診察料(10~30ルピー)を払ってから でなければ診察を受けられず、診察後もX線撮影や血液検査の料金を支払ってからはじめていろ いろな検査が行われる。
「『海外医療』 1998 MARCH No.21、在ネパール日本国大使館 医務官 合川 卓郎」より抜粋)

カトマンドゥで6割を占めるネワ族の祭りの山車 魚が逆立ちして尾ひれに見立てられているマチャプチャリ

カトマンドゥ市内で歩道があり、ごみもなく、ひときわきれいな舗装道路があった。
日本のODAによるもので、「日本道路」とヴッディがうれしそうに教えてくれた。
藤庵









二上山・当麻寺
ウォーク

2012年107日 さと山会

近鉄柏原駅 近鉄道明寺線車内からニ上山 当麻寺への道
当麻寺 梵鐘や本堂、2つの塔など国宝がづらり。「三重の塔が2つそろって奈良時代からそのまま残っているのは、ここだけ。」と、
元建具屋で60歳からはじめた陶芸家のおじいさん(84歳)が自慢げに言っていた。当麻寺の古い街並み保存への愛情はすごい。
境内のあちこちに、それぞれのお気に入りの構図をとって絵描きたちがたくさんいた。今年の暑さは、彼岸花の開花を遅らせていたようだ。
 
本堂の傘になったおみくじを引いたら、3人とも「末吉」だった。少し不安を残しながら、二上山へ向かう。
飲料水と書いてあった沢水はうまい。途中、「岩屋」へ立ち寄り、遠くに見える奈良盆地を眺めなら、雌岳の頂上をめざす。
きつい登りが続く。雌岳(474m)の頂上の広場には、子どもやワンチャン連れ、山ガールズや中高年の一行でいっぱい。昼食タイム。
ここから「馬の背」を経て「雄岳」(517m)に向かう。雄岳山頂の小さな神社と大津皇子の墓に手を合わせ、太子町方面へ下山。
馬の背から下りるとすぐ展望台あり、聖徳太子の消防士が「山火事注意」をうながす。関空ゲートタワービルや淡路島、六甲が見える。
道は奇岩群のある屯鶴峯(どんづるぼう)方面と別れ、岩だらけのきつい下り道を竹の内街道へ向かう。大きな岩の上で愛?を叫ぶ。
 
舗装された竹ノ内街道から、太子温泉めざし歩く。5kmほど歩いてきたところで、ニ上山にお別れ。温泉から、送迎バスで上ノ太子駅へ。
次の駒ヶ谷駅前で秋祭りをやっていたので、立ち寄ってみると「竹の内街道祭り」をやっていた。飛鳥ワインなどお土産を買い込んで帰路へ。
あんた! 行くよ ここがええねん!
二上山登山口近くの池







パワースポット 鞍馬・貴船
 ■鞍馬・貴船で自然パワー
 ■平家の文武両道の「武家政権」
 ■中世の「対立と憎悪あおる政治手法」の現代版?
 ■雪の貴船でパワースポットに出会う
2012年02月26日 (日)

鞍馬・貴船で自然パワーもらう

関西(大阪)に40年も住んでいて、一度も鞍馬や貴船に行ったことがなかった。

結婚32年を記念して2月11日、貴船の「右源太」に宿をとった。

お昼に、「くらま」で湯葉入りのそばを食べてから、鞍馬寺の仁王門をくぐった。

本殿金堂までは、ケーブルを使うことにした。

雪見を期待していったのだが、

日本海側の豪雪とは裏腹にケーブルから眺める山の斜面には雪がない。

聞くと、「昨年は多かったのだが、今年はほとんど降っていない」という。

本殿金堂に向かう林道を歩いていると、谷の方から、

「修行者たちなんやろか?」

ほら貝の吹く音と「〇〇△△、懺悔!」という声がこだまする。

標高410mに建つ本殿金堂~鞍馬山霊宝殿、「義経公息次ぎの水」を過ぎる頃、

妻がえらい汗をかいてきて、

「あかん、風邪ひくわ」ということで、妻だけ本殿金堂の方へ引き返すことにした。


義経が修行に励んだ根っこの山道

一人で、急いで、それこそ、「義経の修行」よろしく、

木の根道~大杉権現社~義経堂~木の根道から奥の院魔王殿まで、

駆け足で行った。

この辺りは2億6000万年前に海底から隆起した石灰岩が露出しているという。

大杉権現社のご神水は厚い氷に覆われていた。

奥の院魔王殿には、650万年前に金星から来た護法魔王尊がまつられているというが…。

貴船の「鞍馬寺西門」まで400m、20分ほどだが、引き返した。

さすが帰りの上り坂では、何度か、息が上がりそうになったが、

意外と調子よく、心地よい汗をかいた体に、冷たい風が心地よい。

鞍馬山(513m)から下りにかかるあたりで、

妻が歩いてきたのが見えた。

二人で「空気がおいしい。」といっぱい深呼吸しながら、

鞍馬山の自然のパワーにひたった。


平家は文武両道の「武家政権」だった!?

霊宝殿の周辺には、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があり、東京から移築したという「冬柏亭」がある。

以前の管長が鉄幹・晶子夫妻の門下生だったことから、昭和51年に移築されたそうだ。

歌碑に刻まれた歌は知らないが、

晶子の有名な「君死にたもうなかれ」と反戦の言葉を口ずさんで、

平和を祈念した。

義経というと、鞍馬山で修業し、弁慶ととともに平家を滅ぼすのに一役買った源氏のヒーローだ。

が、人気のあまり、逆に兄の頼朝に追われて、

東北は平泉へと追いやられ、不遇の死を遂げたことなどを思い浮かべる。

しかし、歴史はいろいろな見方があるものだ。

絶えず血なまぐさい内部抗争にあった鎌倉幕府。

しかし、頼朝によって倒された平家は、実はすぐに暴力に訴えず、

「文武両道の武家政権」だったと、

NHKで放送されている大河ドラマ「平清盛」のドラマの時代考証を担当している

歴史学者の高橋昌明氏(神戸大学名誉教授)の説がある。

高橋先生によれば、

頼朝と鎌倉幕府が善として描かれてきたわけは、徳川家康の頼朝好きにあったという。

徳川家康が頼朝のことを熱心に学び、頼朝によって倒された平家という武家政権は目に入らず、

それが江戸時代に清盛を悪に仕立て上げられたことで、

日本の歴史の描き方が変わってきたのではないか、と。


中世の「対立と憎悪あおる政治手法」
の現代版?


「東アジアでは武人は軽蔑される存在でしかなく、

日本のように武人が政権を握り、それをよしとする国は異様な社会なんだ」とも。

「戦国時代は人間の実力がものをいう世界」
などと肯定的に言われる。

そういう風潮が近年、企業で能力主義・実績主義に利用され、

いまの低い給料に、そして非正規社員。

過度の競争主義による行き詰まった社会を生み出してきたのではないか?

「社会全体が行き詰まってくると、どこの国でも野蛮な時代に逆戻りしようとする」

と、高橋先生は分析する。

うまく時流に乗り、作り出し、

「対立と憎悪をあおりたてる政治手法は、中世社会を再現するようなものではないか。」

卓越した警告ではないか。
(「大阪民主新報」2月26日付より)


雪の貴船でパワースポットに出会う

夜、貴船では、シンシンと雪が降ってきた。

地元産のボタン鍋が体の芯から暖めてくれた。

翌朝、一面銀世界になっていた。



夏、川床でにぎわう貴船川の清流は、冷たそうだった。

早朝、人の少ない貴船神社(奥宮)まで行ってみた。

一つの根っこから2本の杉が天に向かって伸びる「相性杉」

杉と楓が抱き合い大きく成長している「連理の杉」

本宮のご神木(桂)とともに、いまやパワースポットとして、人気を呼んでいる。

 ②  
「相生杉」(あいおいすぎ):ひとつの根っこから、兄弟のように天に向かって伸びる樹齢、約1000年の杉。(①) 
「連理の杉」杉とカエデがピタッとくっついて一つになっている連理の杉。夫婦、男女の仲睦まじさを象徴。(②)
奥の院の門前の杉(③)   幹の中が空洞になった杉(貴船川沿い)(④)


本宮にある神水におみくじを浸してみると、

「末吉」の文字が浮かび上がってきた。

妻は「半吉」だった。

朝早くから、若い女性が一人で、あるいはカップルが、若者たちや家族なども訪れていた。

藤庵

世界遺産・清水寺に朝廷への“反逆児”の碑
2012年02月15日 (水)
 結婚32周年を迎えた2月、貴船に泊まった。
 翌日、世界遺産の清水寺へ、17年ぶりに行ってみた。

 雪が舞う貴船から京都市内に来ると、寒さも少し緩み、二年坂・三年坂は多くの観光客でにぎわっていた。

 音羽の滝から、本堂舞台の真下を通って帰る道すがら、新しく建立された慰霊碑を発見。
 「阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)之碑」と書いてあって、驚いた。

 「え!なんで、ここに阿弖流為が?」と不思議に思ったが、清水寺を創建したという坂上田村麻呂にとらえられた 「北天の雄」(碑)だったので、納得。
 碑は、平安遷都1200年を記念して、1994年11月に建立されている。

 アテルイとモレが無名に近いのは、「朝廷に反逆した賊徒」であって、明治以降の天皇を中心とする日本の歴史からは排除される存在だったからであろう。

 『アテルイの反乱』(林太郎著、光陽出版社)が出版されたのは、20年ほど前である。
 そのころから、歴史の見直しもあり、東北地方の「抵抗の英雄」にも光が当たった。

 この碑を建立したのは、岩手県奥州市を中心とする有志らしいが、「朝廷に反逆した賊徒」の碑が世界遺産・清水寺に建立されているのがうれしい。
 田村麻呂は「東北の英雄」に敬意を表し、朝廷に処刑しないよう懇願したが、受け入れられなかったという話も残っている。
藤庵
冬の清水寺






原発と共存できない…“我らは山に生かされてきた”






 乗継タイムの
イスタンブール

ブルーモスク(イスタンブール歴史地区、2012811)

 乗り継ぎを利用したイスタンブール観光

「海の都 ヴェネチア」行きは、イスタンブール(アタチュル国際空港)での乗り継ぎが必要だっ
た。乗り継ぎの待ち時間は11時間。

8月のお盆期間中、もう、これしか航空券がなかった。

関空出発810日の夜1030分。13時間のフライト後、イスタンブール着は現地時間で
早朝5時35分の予定。ヴェネチア行きへは午後4時50分発。余裕をもって、発着手続の時間を
差し引いても、6~7時間をどう過ごすかが問題だ。

11時間か! もしかして、イスタンブール観光できるかも!?」

ネットで調べてみると、いろんな情報が出てきた。

そのひとつがトルコ航空企画の乗り継ぎ時間を利用した無料サービス観光である。イスタンブール
空港内にあるトルコ航空のホテルデスクで受け付けている。バスで送迎してもらえるがガイドは
すべて英語。ま、いいか。

空港ではいったん「出国」になる。空港での再手続は? 荷物は?
添乗員も、ガイドもない初めての海外旅行である。

いろんな不安要素を押し隠しながら…、妻と娘に「イスタンブールで観光できるぞ」と伝えた。
地理的に不得意でも、トルコ・イスタンブールという響きに、魅力的な期待がふくらむ。

 搭乗手続きのチケットがない!

「またやってしまった!」
6月、勘違い、思い込みでANA秋田行きに間に合わず、羽田乗り継ぎで何とかしのいだばかりで、
何度も念を押されていた。


夜、早めに関空に着いたのはよかったが、搭乗手続き用の「eチケット」が見当たらない!
「車で家に取りに行こうか」「アカン、アカン」「よう探してみ!」

しかし、バッグをすべて探しても見当たらない。焦った!

「あ!そうか。HISに電話してみる。」「いけた!」

HISの窓口を探して「eチケット」のコピーをもらい、搭乗手続きができた。

しかも、ビジネスクラスが安く手に入った。

 窓口で、トルコ航空のホテルデスクの場所も、荷物もそのままで、手荷物だけ

で観光ができることを教えてもらった。これでよし。


トルコ航空のホテルデスク
 

 朝日がさすアタチュル国際空港で手荷物をコインロッカーに預け、ホテルデスク前で待つ。

日本人がいるのかな?と思いきや、現れたのはイスラム系、韓国人など4人だった。

 イスタンブール歴史地域のスルタンアフメット駅周辺で、「無料観光」の利用者の“自己紹介”から始まった。 

 国際色豊かな7人の束の間の観光 

陽気でおしゃべりのキルギスタン(中央アジア)出身のマリア25歳)

フランス語圏のアルジェリアからきたイスラム系の母子(?歳と母63歳)

ニューヨーク留学中のコレアンガール20歳代)

ここに3人の日本人親子が加わり、わけのわからない英語で、愉快な珍道中が始

まったのは、空港から小型バスで30分ほどのレストランのモーニングサービス

(無料)からだった。
 

気温は30℃を超えている。レストラン(TAMARA)はあけっぴろげで冷房はない。

ガイドが手配してくれたモーニングセットが運ばれてきても、それぞれほとんど

会話がない。

アルジェリアン母子は、ちょうど「ラマダン」(断食)で水も飲まない。
 

▼イスラム教ではラマダンの月の間、日の出から日没まで断食が行われる。

 断食中は 食べること、飲むこと、喫煙、性交が禁止される。

 ラマダンはイスラム暦の月の1つ。断食は
 イスラム教の信仰で最も重要な活動の1つ。
旧市街の歴史地域に着くと、トラム(ちんちん電車)のスルタンアフメット駅周辺で運転手もガイドも、帰りの時間と場所を英語で指定し、アヤソフィア・ブルーモスクへのフリーパス・チケットを配り、地下宮殿だけ案内して、どこかへ行ってしまった。
一連の説明のほとんどを理解ができなかったが、ここで、自然にそれぞれ自己紹介風になって、みんなで行動をともにするような雰囲気にな

 

地下宮殿(Yerebatan Sarayi
6世紀に建立され、ベオグラードの森から引水され、
宮殿への給水のために利用されていた。
1001本の円柱のある貯水槽。
ジェームズ・ボンド
「ロシアより愛をこめて」で数ショット撮影された。
  
イスラムガールが娘を見て、東洋のタレント?と思ったのか。
記念写真を撮らせてほしいと。そのお返しに??

 

ブルーモスク入館の大勢の列に並ぶ。肌の露出などは禁止のため腰巻をわたされる。靴も脱ぐ。

 

最も美しいモスク“TO UNDERSTAND ISLAM

広々とした噴水のある広場を挟んで、ブルーモスクとアヤソフィアは互いに向き合っている。
アヤソフィアには、入場チケット購入のために大勢の人が並んでいた。
そのまま、みんなで噴水前で写真を撮ったりしながら観光客いっぱいのブルーモスクの方へ行く。入館の列に並ぶ。


ブルーモスクに入るには、小さなくぐり戸から入り、靴を脱ぎ、肌を露出している人には腰巻みたいな大きなショールを渡され、肌を隠して入館しなければならない。

 
 
 
 正方形の本堂モスク内は大勢の観光客でいっぱいだった。

ステンドグラスに飾られた窓から光が射し、花に飾られたタイルや赤い絨毯に映え、青が主体となった天井の色彩
豊かな装飾は見事だった。

▼ローマ帝国のコンスタンチヌス1世はAD330年、ここを首都としてビザンチン帝国(東ローマ帝国)を築き、城壁や
教会、宮殿を建てた。1204年にキリスト教の第4次十字軍がギリシア正教のビザンチン皇帝からラテン帝国を建設。
一時、ビザンチン帝国が復興されるが1453年、トルコ軍に敗れ、オスマン帝国が建設された。
イスタンブールはオスマン帝国の都として、教会をモスクに改修し、トプカプ宮殿やトルコ風浴場、泉等がつくられていった。

本堂の出口方向に、祈りの部屋(ミナレット)があり、毎日5回は欠かさないというアルジェリアン
の母が祈りをするという。膝が悪く、座ったり、立ったりするのがつらく、ほぼ座ったままで、
祈っていた。タブレットをカメラ代わりに使っているアルジェリアンは、娘に
「あなたの宗教は?」「お祈りとかは?」など身振り手振り交えながら、聞いていた。

▼イスラム教はコーランに集約され、預言者ムハンマド(マホメット)によって告知された教義を日々実行している。
現在、世界中で信者は15億人。コーランにはムハンマドに天啓を与えたガブリエルと地上の神のお告げを降下させた
ミカエルの2人の天使の名前が記載されている。ムハンマド以前にアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、そしてイエス
5人の預言者を認知しているが、洗礼等の儀式は認めていない。

5つの戒律があり、1の戒律は信仰の告白。アッラーの神は唯一で、ムハンマドはその預言者だと確信すること。
2の戒律は礼拝15回祈りを捧げること。3の戒律は喜捨。年収の2.5%を現金か品物に変えて寄付すること。
4の戒律は断食。子供、病人、旅行者以外はイスラム歴の9月にあたるラマザン(ラマダン)月に断食(日中の飲食、
性行為の禁止)を行うこと。5の戒律は巡礼。生涯に一度は聖地メッカへ巡礼すること。

▼モスクは個人の祈祷の場、政治的会合の場、家のない信者の住まいとして使用される。ドームのあるモスクはオスマン
民族によって改革され、スルタン・スレイマン2世の支配下(16世紀)に頂点に達した。ブルーモスクはスレイマン1世が
アヤソフィアに対抗してつくったという。いずれも、建築家スィナンもしくはその弟子による功績である。

               (トゥルハン・ジャン著「イスタンブール『オリエントの扉』」より)

アヤソフィアAyasofya)はビザンチン帝国のユスチニアヌス帝によって537年にドーム付の教会堂として建てられた。その後、ドーム

が崩壊、何度となく改築、修復される。1934年、
オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領のアタチュルクによって博物館
として機能をえられ、保存されてきた。

上の写真は「湿った支柱」(別名「マリアの手形」)から撮った内部。「湿った支柱」には指が入るほどの穴があり、入れると頭痛や二日
酔いを治す、子宝に恵まれるといわれている。写真右の壺はベルガモン遺跡の神殿跡にあった大理石で造ったもの
下は「聖母が幼少の
キリストを抱えたモザイク」で9世紀頃造られた。

 
  それぞれ、次の目的地に向かう
 


 ㊧アヤソフィアの内ナルテクスの扉の上には、金箔のモザイクで造られた
「キリスト
に跪く皇帝」(9世紀)のモザイク。㊨ナルテクスの左側には手洗い用の甕?
「ナルテクス」とは、キリスト教聖堂の正面入り口前の広間=玄関の意。

 アヤソフィア前の焼き栗と焼き
 トーモロコシの屋台


バザールを探しにウロウロしたが、どこかわからず

商店街風のなかにあるお店で買い物をした。お金を使ったのは、空港とここだけだった。

バスが迎えに来てくれたのは30分後。それから、朝食をとったレストランで昼食サービスがあった。

レストランで食事をしていると、どこかのスピーカーから祈りの声が流れてきた。モスクの尖塔(ミナレット)にスピーカーをとりつけているらしい。
毎日5回のお祈りに合わせて流れるのだろうか?街中にひびきわたり、お寺の鐘と違って、エキゾチックだ。

アルジェリアンの母はこのとき別にお祈りしていなかったが、やはり食事も水も口にしていなかった。


アルジェリアン親子はエジプトへ。マリアは妹のいるイランへ。コレアンガールは韓国へ。
それぞれ夕方の飛行機で飛び立ってゆく。空港でハグをして、健康を祈り別れていった。

空港内のTVでちょうどロンドンオリンピック、女子バレーの3位決定戦が放映されていた。
韓国に勝ち28年ぶりの銅メダル。“やった”と歓声を上げたが、まわりの人たちは無関心だった。


                              城壁跡とボスフォラス海峡

 ルジェリアは、「アラブの春」に触発され、カダフィ政権が内戦の末に倒されたリビア
に、サハラ砂漠で接する国である。アフリカ大陸では領土的には最大。西はモロッコと接するが、
国境は封鎖されているという。

アルジェリアは1962年にフランスから独立、非同盟中立、アラブ連帯を基本にする国である。
1991
年にイスラム主義政党の圧勝に対し、政教分離を掲げた軍部がクーデターを起こし、
2011
年まで国家非常事態宣言が発令されていた。

 (ウィキペディアより)

 スラムを冒瀆するアメリカの映像にイスラム圏では、米大使館襲撃など抗議のデモが湧き起こり、あちこちで死傷者を出している。

「イスラム教の預言者ムハンマドは神ではなく普通の人間だが、人々は彼のように生きることを理想とし、冒瀆されると自分が攻撃されたように感じる。」
                 (飯塚正人・東京外語大教授談、923日付「朝日」)。

 オスマン帝国のエルトゥールル号が和歌山沖で沈没、69人を救助。

■トルコの話題

イスタンブールに住む男女が92日、ツイッター上で結婚式を挙げた。トルコでは初の“ツイッター婚”を挙行したのは、新郎のチンギスハン・セリクさんと新婦のカンダン・カニクさん。

トルコの結婚式は、政府の管理下で行われており、事前に役所に申請を出した上で、公務員の立ち会いの下、婚姻を誓う書面に署名するという手続きが必要だという。

今回はイスタンブール市のウスキュダル区のムスタファ・カラ区長が立会人となり、ツイッター上で婚姻の意思を確認。2人の「evet(はい)」という返信に区長が適法に婚姻が成立したことを宣言。区長のアカウントを登録しているフォロワー11,500人にリツィート(転載)した。

親族や友人は区内のレストランに集まり、液晶画面に映るツイッターでの結婚式を見守ったという。

(「しんぶん赤旗」96日付、『世界こぼれ話』中村圭吾通信員)







ヴェネチア
   2012年8月
 
 

“水()の都” 1千年続いたヴェネチア共和国

ヴェネチアといえば、ゴンドラとサンタ・ルチア

 
 
「世界遺産 ヴェネツィア展――魅惑の芸術・千年の都――」(京都文化博物館にて。729日。写真はリアルト橋) 
■「アドリア海の女王」「水の都」などと呼ばれ、ルネッサンスで芸術が花開き、観光都市として、世界中の人々を魅了し続けている。

●アドリア海の一番奥にある湿地帯ラグーン()に建設されてきたヴェネチア。

ナポレオンに侵略(1797)され、崩壊するまで1000年におよぶ共和国として栄えてきた海上都市である。ラグーンの広さは550k㎡、有明海の3分の1、大阪湾の3分の1強。

▼昨年、ジョニー・デップアンジェリーナ・ジョリーが演じる映画『ツーリスト』を見た。スリルがあって最後までひきつけられたが、ロケ地のヴェネチアのすてきな街や運河が映し出されている。この時点でヴェネチア行きは全く想定していなかった。

▼6月、ヴェネチア行きを3人で決めてから、「世界遺産…ヴェネツィア展」が京都文化博物館で開催(728日~)しているのを知り、見に行った。 

「豊かな色彩と雅やかな詩情を重視するヴェネツィア派の絵画、華麗な貴族の暮らし、ゴンドラ、ガレー船にイメージされるヴェネツィア共和国の海上貿易の様子を伝える品々約140件」の展示は、イメージを膨らませてくれた。

さらに、シェークスピア原作の映画化『ベニスの商人(主演:アル・パチーノ、2004年制作)キャサリンヘップバーン主演の『旅情(1955)も、4日間の滞在予定に期待を膨らませてくれた

 
ロザルバ・カッリエーラ()
1720
年頃

 
水上バスヴェネチア本島

イスタンブール・アタチュル国際空港、トルコ航空1869便は午後4時50分出発


日本人旅行者は見当たらない。ロビーで待っていると、イタリア人らしき旅行者たちがいなくなった。掲示板を見に行くと、搭乗口がなんと変更になっていたのだ。あわてて、変更先の搭乗口へ向かうが、端から端まで歩くことになる。空港内を横断して辿り着くと、外のバス乗り場から、駐機場へ向かうことになった。

予定時刻より45分遅れの出発だった。

アドリア海の最奥にあるヴェネチア湾は空から見ると、天橋立を何倍も大きくしたような長~い島(リド島など)で海とラグーン(潟)を隔てている。空港近くは湿地帯で、ヴェネチアの本土の工業地帯へ大きな水路が切り開かれている。


サンマルコ国際空港には1915に着いた。

  
空港から歩いて56分。アリナグーナ(ALILAGUNA)社の水上ボート乗り場 DARSENA (Motoscafi e Traghetto)
マルコ・ポーロ国際空港から水上バス(ヴォパレット)でヴェネチアへ向かう。船長がかっこいい。
 「水の都は湾から入れ」

 機内でバスかタクシーの陸路か、船で渡る海上ルートか、いろいろ調べてみた。
電車でも行けるが、駅までの移動や荷物の持ち運びが大変なような気がした。

陸路は料金が高い。ホテルはサンタルチア駅に近いところにあるが、水上ボートで行くのが荷物の持ち運びで一番近い。

妻は「大丈夫? 空港でいろいろ聞いてみるとか…」

腹は決まっていた。

インターネットでは、

「もっともロマンチックなヴェネチアへの入り方が船での到着でしょう。“水の都は湾から入れ”と多くの人が言うように、美しい景色が広がります。そして、夕方にヴェネチア本島に着くときはその美しさに一目ぼれする。」とあった。

うまくいけば、夕方には着くはずだ。

しかし、実際はすんなりとは行かない。

空港内で、水上ボートのチケット15€×3人を買い、乗り場を聞く。

「出口を出て、左の方向」と説明してくれたようだが、玄関を出ていろいろ通行人に聞いてもわからない。
1940発に間に合うのか、あせった。次は21:40発だ。

ようやく、陸上バスのスタッフらしき人に聞いて、その方向へ行く。

「乗り場まであと〇〇m」とか「〇〇分」とか書いてある標識があった。徒歩で5~6分だったように記憶している。

19:40発に間に合った。


ボンジョルノ(ブオナセーラ) 美しきヴェネチ 
空港から1時間、ヴェネチア本島が見えてきた。Madonna Dell'Ortowoを経て、
目的地Guglie(グリエ)に着いたとき、夕日は沈みかけていた。    
811()


カンナレージオ運河にある橋が見える

運河沿いのカラフルな家


船から見るヴェネチアはどこを見ても新鮮で魅力的だ。

ブオナセーラ ヴェネチア

           ※ブオナセーラ=こんばんは(午後3時以降に使うが、ボンジョルノでもいいらしい)

陽が沈んでるのにまだ明るいグリエ橋
 
車も自転車もない街。移動手段は船か徒歩のみ。黒人になぜか?笑われて…。    ホテルに案内してくれた食堂の店員

ヴァポレットの乗り場「グリエ」で下船。重い荷物を持ち、スーツケースを引きずり
ながら、グリエ橋を渡って、地図片手にhテルに向かう。

レストランでテラスで楽しそうに食事をとったり、仮面や民芸品などを売っている
店が立ち並び、行き交う観光局などで賑わう。

途中、広場に出る手前のBARから出てきたおじさんが突然、日本語で「こんにちわといってきた。

「こんにちわ Im going to theプリンチぺ・ホテル」というと、

おじさんは若いスタッフを呼び寄せ、ホテルへ案内するよう指示してくれた。

 

「父がプリンチぺで働いていた」と言っていたそのスタッフにチップを渡して、
「グラッチェ」と礼を言う。やっと着いた。チェックインは21時ころだった。

  
     ヴェネチアの夜 

ホテル・プリンチぺPrincipeで一休
みしてから、さきほどのBARで食事する
ことにした。


BARの名前は

TRATTORIA VITTORIA DA ALDO
で、9時半過ぎだった。店の前のテラス
の席はいっぱいだったので中に入る。


店のショーウィンドーの氷の上にはアン
コウやらエビ、タコなど新鮮な魚介類が
並んでいる。


先ほどのおじさんは主人らしく、ほかに
おじいさんやら数人が店の中を行ったり
来たりしている。一族で切り盛りしてい
るようにも見える。

さきほどの青年に“Japanese Menu?
”というと、持ってきてくれた。



 まずは特性ビールと白ワインで乾杯。

    

何も注文していないのに前菜にホタテ
の味噌煮風とイワシのマリネが出た

パンは必ず着いてくる。

陳列している魚介を指さして、ムール
貝・手長エビ・イカを頼み、鉄板焼き
にしてもらった。

デザートも入れて、41€。実に美味しかった。


食事中に激しい雨が降っていたが、帰
るころにはあがって、初日としては最
高の夜になった。
 





初日、ホテルに帰ったのは夜10時半過ぎ。3人が順にバスタブで疲れをとって、
就寝したのは12時前だった。


   ヴァネチアの夜明け

ヴェネチアの朝日(サンタルチア駅前のスカルツィ橋より。2012812日)

 

812()の朝、目が覚めたのは、5時過ぎ。やはり興奮しているのだろうか?
5
45分には起きて、妻と娘を起こさないように、周辺の散歩に出かけた。   

サンタルチア駅前と教会、その前に架かるスカルツィ橋から見る朝日はカナル・グ
ランデや美しいヴェネチアの街並みをまるで油絵のように浮かび上がらせる。

 

㊧駅から続くホテル前の通りは、かつてスペイン大使館があったことからスパーニャ通り(Rip terá Lista di Spagna)という。通りに店が並んだ前夜のゴミに、カモメが群っていた。
㊨カナル・グランデには3つの橋しかなく、17世紀に造られた白い大理石製のスカルツィは2番目に古い橋という。スカルツィ橋の欄干にカモメが羽休み。



4つ星のホテル・プリンチぺ (1997年創業、2010年改築)

㊧カナル・グランデに面しピンクベージュとイエローカラーのホテル。丸いドームSt.Geremia。昨夜のBARはこの教会の広場を挟んで向いにある。㊨スパーニャ通りに面するホテルの入り口

駅から近いだけでなく、水上バスの船着場が近く、どこへ行くにも便利だった。
ホテル入口は小さくわかりにくいが、ロビーが広く、運河に面したバルコニーの
レストランもいい。ホテル内や部屋はアンチークなインテリアでエレガントに
まとめている。


部屋は狭いが、天井は高く、何よりもバスタブがあるのがよかった。
ここに3泊する。


 
    

気温は、4日間とも、いい天気に恵まれ、日中は256℃、最低気温が178℃で快適だった。
部屋の中はクーラーでは涼しすぎるため、窓を開けて寝たが、蚊が入り、3匹ほどやっつけるまで手間取ってしまった。就寝時間も起床時間も自由なのがいい。

宿泊客には日本の団体ツアーあり、中国や欧州ありなど入れ替わり立ち代わりだったようだ特にサンマルコ周辺には群れをなした中国人ツアーで溢れ返っていた

34日のスケジュールはすべて自由時間だ。

ひとつだけOPとして「ゴンドラセレナーデ(ディナー付)」を予約していた。

2
日目(12)の夕方5(サン・マルコ広場集合)だったので、この日は9時に朝食

をとって、サン・マルコ広場まで行くことにした。

コースは前日の夜、地図で確認しておいたが、行き当たりばったりである。

  朝食は1階レストラン。テラスはカナル・グランデ沿いにある。

朝食は3日間、ホットミール(ゆで卵、スクランブルエッグ、ウインナー、ベーコン)、ハム、デニッシュ、トースト、ヨーグルト、フレッシュジュースで、電動マシーンでエスプレッソやカプチーノなどがある。

 

 朝日に輝くホテルのテラス。3日目の夜、ピアノを悲歌ながら“アデル”の曲を歌っていた。覘いただけだが、歌いっぷりに
 拍手を送った。

 

アンチークなソファや民芸品、絵などがあり、エレガントなホテルの廊下。     さぁ ヴェネチア散策へ レッツ・ゴー

 
 水上バスから見るホテルプリンチぺは美しく、運河沿いの建物はみな印象深い造りにしているようだ。

カナル・グランデのシンボル的存在であるリアルト橋をくぐる。中世から金融と商業の中心地で、今でも小さな店が並び、レストランやバーカロもたくさんあり、庶民の台所でもある。今日はここには寄らない。

 

 

上はホテル・プリンチぺ。   下はリアルト橋。日曜日の午前中は人が少ないようだ。普段は朝から夜まで鈴なりの人で
いっぱいになる。映画『ベニスの商人』では冬にロケが行われ、橋から飛び込んだりするシーンがある。




アカデミア橋からサンマルコ広場

ヴェネチア本島をS字形に2分する大運河=カナル・グランデ(CANAL GRANDE)には3つの橋しか架かっていない。スカルツィ橋、リアルト橋、そしてアカデミア橋である。ここで下船して、地図を見ながら、サンマルコ広場へ向かう。


「アカデミア橋は19世紀のオーストリア支配下、イギリスの建築家ネヴィルの設計で鉄製の橋として造られたが、第2次世界大戦の時に破壊されたため1934年に木製の橋が架けられた。1985年に新しく架けなおす計画があり国際コンペがあったが、元の木製の橋と同じデザインで架けなおされた。」(『地球の歩き方・ヴェネツィア』より)。

停留所の前はヴェネチア派のジョルジョーネ(「テンペスタ」1508年頃)、ベッリーニ、ティツィアーノ、ティントレットなど、巨匠の名画があるアカデミア美術館がある。残念ながら、日曜は休館だった。

 ※ アカデミア美術館が一般公開されたのは1817年。メンデルスゾーンなど音楽家が足しげく通ったという。
 『テンペスタ』は大塚美術館にあった。

その前に陣取っている土産店で妻と娘は物色、カレンダーを買った。

 
お土産のカレンダー

テンペスタ

カヴァッリ・フランケッティ館

アカデミア橋からは「右岸にサルーテ教会と海の税関のシンボル、黄金の球が光り、左にはカヴァッリ・フランケッティ(右下写真)、バルバーロ(㊧写真左側)など16世紀~18世紀の豪華な館群が並び、典型的なヴェネチア風景が展開する」(『地球の歩き方』)




 続く(編集中)







南ドイツ・クリスマスの旅
2011年12月21日~26日
【目次】
1.格安のビジネスクラス」ゲット

2.フランクフルト直行便で12時間

3.ドイツ人のイメージ

4.ライン川とマイン川の合流点

5.マインツ・マルクト広場で迷子?

6.フランクフルト「レーマー広場と大聖堂」

7.フランクフルト市庁舎と
          パウロ教会前の彫像

 日本では“核武装論”?!

8.「マインハッタン」と欧州危機

9.若い中国人女性

10.電線がない国、
      自然エネルギーに向かう国


11.大阪に母を持つ“Mr.ビーン?”

12.2つの建築様式が融合した市庁舎

13.ヒトラーとワーグナー

14.ニュルンベルク・コード

15.日本語のうまいスーパーの女子店員

16.「子どもと犬のしつけはドイツ人に聞け!」

17.道路から見えるドイツ

18.雪原の中のヴィース教会

19.親日家オーナーが経営するホテル

20.湖と雪原(緑)の美しい村、ノイシュヴァン城

21.三重県の高校生たちが修学旅行

22.ジャパニーズ・メニュープリーズ

23.歩行者天国のノイハウザー通り

24.ビッグ フクシマ

25.豊かな日本を大切に守り伝えるために

26.ドイツ余話


 (1)3・11日本で被災したドイツ人一家

 (2)EUの経済危機と消費税増税

 (3)鍼灸をしていない病院はない


  「格安ビジネスクラス」ゲット

ローテンブルク

「もう、着いた?」
「うん。着いてるで。これから、シャワー浴びよう思ってんねん。」
シンガポールから早朝、関空に着いたばかりの次女が携帯で応えた。

「エッ!関空にシャワーあんの? 知らんかった。
集合時間に間に合うか?」
「うん。大丈夫やで。」

車の中で、

「もう、セレブなみやな。」と長女がいう。
「自分でバイトしたカネやし、いいんとちゃう?」

と妻がさとす。

「医学部も4年・5年になったら、あまり旅行もできなくなるやろから、いまのうちかな。」
などと応えながら、車は関空連絡橋を走る。

空港島から、ときたま飛行機の離着陸も目に入った。
よく晴れ渡っていて、青く澄んだ海も遠くまできれいに見える。
年の瀬のクリスマス前というのに、寒くはない。
朝8時30分頃、関空に着いて、ペットホテルのある駐車場3階に向かう。


「ドイツ行きですか? いっしょですね。」

ペットホテルでは、シルバー夫婦がチワワを預けるところだった。
60歳代の夫婦は愛想よく語りかけて来てくれた。

妻と長女がリッツ(ミニチュアダックスフント13歳♀)とル・シェル(トイプードル3歳♂)をホテルに預けてから、
次女と合流し、集合場所に向かう。

さきほどの夫婦が、すでに搭乗手続きを終えていて、集合場所にいた私たちのところに駆け寄ってきた。

「ビジネスクラスのキャンペーン中で、4万5千円なんですって」
「えッ! 安い! 空きありますか?」
「まだ、大丈夫だと思いますよ」

といって、ビジネスクラスのチケットを販売しているカウンターBを教えてくれた。
集合場所のカウンターFからBまで、長女と2人で必死に走った。
席はちょうどあと4席だった。

「間に合った。」

カードで支払いを済ませ、ほっとしたところで、朝食を軽くとることにした。

「しばらく日本食を食べられないから、うどんかソバにしよう。」
娘2人が口をそろえていった。

ルフトハンザ(LH)741便は、ドイツからの離陸が1時間ほど遅れたらしく、日本発と同じ機種なのか。
予定の11時発が1時間近く遅れて関空を飛び立った。


フランクフルト直行便で12時間

「ワインはいかがですか?」

離陸前にCAのサービスがあった。離陸前に、である。ノンアルコールも選べる。

「これがビジネスクラスなんや。」

妻と顔を見合わせた。

ゆっくり飲もうと思い、半分ほど残したワインを、離陸態勢に入る前にCAがさっさと引き上げてしまった。
「全部飲んでおけばよかった」と妻に悔しがって言った。

機内食は、スイスホテル南海大阪のスターシェフがつくる和・洋食のディナーとランチ。
足をのびのびと伸ばせるリクライニングとゆったりさはなんといっても一番だ。
12時間のフライト時間など気にならない。

機内の飛行地図が映し出されているスクリーンと照らし合わせながら、窓の外を見ると、
ロシアのハバロフスク近くの上空を飛んでいるようだ。
遠くに樺太(サハリン)が見え、雪に覆われたシベリア上空を縦断する。

次女はさすが旅の疲れか、すぐに寝入ってしまった。

妻は、TVの映画に釘付けだ。

長女は「いま、ジェット機が飛んで行ったで。」などとデジカメを離さないかと思えば、寝入ってしまっている。

シベリア上空からの冬景色に見とれている私は、カメラを離さず、見慣れぬ風景にシャッターを切っていた。

12時間ある。

旅行先の情報をメモしたり、機内の新聞・雑誌や持ってきた本に目を通して過ごした。
読んだ本は、宮崎駿VS養老孟司『虫眼とアニ眼』、宮崎駿『本へのとびら』。
それに『週刊 絵巻で楽しむ 源氏物語 五十四帖』(朝日新聞出版)の二~三帖。

太陽を追いかけて飛ぶ飛行機は雲の間から、バルト海に浮かぶ島が見える。
「ゴート族の地」を意味するゴットランド島(スウェーデン領)である。
島にある中世都市は世界遺産に登録されている。
その向こうにスカンジナビア半島が夕日に映えている。

「ほら、スウェーデンが見えるよ。」
後部座席の長女の方を向いて教えた。

「・・・」

シベリア上空


バルト海上空


ドイツ人のイメージ

8月に娘2人が「北欧3カ国」の旅をしたばかりだった。
4人で申し込んでいたのだが、義母の様態が微妙だったので、父母2人はキャンセルしていたのだった。

義母は9月5日未明、84歳でこの世を去った。

LH機がドイツ上空へさしかかる頃は、厚い雲で覆われていた。
雲で遮られた夕方のフランクフルトの街並みは薄暗かった。

フランクフルト国際空港は関空などと比べようがないほど、ばかデカイ。
世界の便が発着するドイツ最大の空港である。
ターミナルは2つ。離着陸の飛行機がひっきりなしに飛び交っている。

いくつもある税関には観光客やビジネス客が殺到している。ものすごい人の群れだ。
キリスト教圏では、4月の復活祭(イースター)と12月の生誕祭(クリスマス)に大移動があるのだろうか。日本の盆・暮れの帰省時期を思わせる。

現地の案内人が別の税関まで連れて行ってくれたが、移動距離が長く、荷物もなかなか出てこない。添乗員は現地のガイドと心配そうに、初日のスケジュールへの影響を心配していた。

こんな小話がある。

車が通っていないのを確認したフランス人が赤信号で渡ってきた。

「赤信号ですよ。」というと、そのフランス人は、
「ドイツ人ではないから」と応えたという。

ドイツ人のイメージは、正確無比、合理的、厳格、勤勉…。どこか日本人に似ている。
そんなドイツでも、天候や民族大移動などの諸事情には勝てない。
始めてのドイツでスケジュールが時間通りにいかなかった。

ようやく、荷物を待っている間、妻に言った。
「日本時間なら、もうすぐ日付が変わる頃やな。」
「日本時間はええやんか。ややこしい。」と一蹴されてしまった。


ライン川とマイン川の合流点

ドイツを流れる有名な河はライン川である。

そこに流れ込む支流のマイン川に、フランクフルトがある。
正確に言うと、「フランクフルト・アム・マイン(FfM)」である。

飛行機から見たフランクフルトはマイン川沿いに都市や工場などが見える。
郊外は公園や林・農地などがあって、ところどころに雪が降り積もっていた。
日本のように住宅が密集していない。

「ヨーロッパ金融の中心地」という割には、人口67万という。
日本なら、東京1,000万人、大阪800万人。日本での感覚、常識は通じない。

旅の初日は、ライン川とマイン川の合流地点にある「マインツのクリスマスマーケット」から始まる。マインツは、ライン川クルーズの南の基点である。

フランクフルトの空港から32㎞のマインツに着くころは、すっかり夜になっていた。
2~3℃ほどか、ダウンジャケットにマフラーがちょうどいい。

レストランなどが立ち並ぶ小奇麗なゆったりとした通りを抜けると、その先に大聖堂とマルクト広場がある。
ガラス越しにみえるレストランの窓べりに、おめかしした老夫婦が楽しく食事をしていた。

そこへ近づいて行った娘が「は~い!」と会釈すると、にこにこしながら、手を振ってこたえてくれた。

向こうも、こちらもクリスマスの夜を楽しんでるような共感を感じる。


マインツ・マルクト広場で迷子?

すぐに、「高さ12mのクリスマスピラミッド」(案内パンフ)が目に入った。

イルミネーションに飾られたメリーゴーランドがある。そこを抜けると、大聖堂までマーケットが立ち並ぶ。
店に並ぶクリスマス用飾りはみな可愛らしい。

中をくりぬいた丸いフランスパンにジャガイモスープが入っているのを注文し、4人で交互に一口づつ食べてみた。3.50ユーロ。パンが溶け込んだスープはうまい。

“3人娘”は、そのパンスープを私に預け、店の中に入って行ってしまった。
“パンスープ”をもったまま、お店に入れないので、残りを食べながら外で待っていた。
全部食べきれずに、もったいないが、残りをゴミ箱に捨てて、店の中へ捜しに行った。
見当たらない。

店の外で捜しながら、ウロウロしていると、ドイツ人らしい婦人が英語で
「Your wife? …looking for you…」とかなんとか声をかけて来てくれた。
どうも、「3人娘たち」が向こうの方へいったらしい。

「Thank You!」といって、
行き交う人ごみの中を探しに行ったが見当たらない。

マインツ・マルクト広場の大聖堂

さきほどのドイツ人らしい家族連れの一行にまた出会った。
首をふって“見つけられない”とジェスチャーで伝えて、また捜す。

航空機の到着が遅れたために、ここでの観光は45分間だった。あと15分ほどしかない。

「おった。おった。」と娘たちが見つけてくれた。
「あのドイツ人の人たちが教えてくれたんや。“Your husband are looking for you!”とか笑いながら、
繰り返し言うとったで。」

有料のトイレ(50セント)へ行ってから、集合場所へ行く。
バスは歩いて10分ぐらいのマイン川沿いのところで待機していた。


フランクフルト「レーマー広場と大聖堂」

レーマー広場・旧市庁舎前のイルミネーション

フランクフルトのクリスマスマーケットに着いたのは7時過ぎだった。

街のシンボル的存在である「レーマー広場」の近くで降ろしてくれた。
ここでの観光時間は1時間ほど。

600年以上の歴史があるというレーマー広場(※ローマ人の丘)。ものすごい人でごった返していた。ドイツ経済・商業の中心地だけのことはある。

3つの切妻屋根が並ぶレーマーと呼ばれる旧市庁舎※にみとれ、そこを通り抜けると、
広場にはイルミネーションで飾られた屋台、その向こうにきれいな建物などに見とれてしまったが、
すぐにごった返す屋台の中に入った。

まずはワインを燗(かん)にしたグリュ―ワイン※とマッシュルームスープをたのんだ。
これにはパンがついてくる。

欧州では冬、このグリュ―ワインを飲み、立ち席でワイワイガヤガヤしゃべりまくる。
酔っぱらって甲高い婦人の笑い声が耳につくなか、テーブルを確保できた。

「これはおいしいな。あったまるわ」と妻がいった。
普段ワインなど飲む習慣がない2人の娘も口をそろえていった。
日本の立ち飲み屋みたいな雰囲気もあわさって、パンとスープ、グリュ―ワインは実においしかった。

飲み終わった後、クリスマスマーケットなどの絵が描かれたマグカップを返しに行くと、
おばさんがドイツ語でなにやらまくしたてている。

とにかく「Thank you!」といって、マグカップを返した。
すると、カップ1個に1ユーロ、計4ユーロくれた。

なるほど、グリュ―ワイン1杯2.50ユーロだったが、
ワインは実質1. 50ユーロ、日本円で約150円ほどということなんや。
お金がいらないなら、マグカップは持って帰れる。


あたりをぐるっとまわってゆくと、薄い木でつくった飾り物が電球に浮かび上がっていたのにひかれて、
衝動買いしてしまった。
24ユーロだったが、次女も欲しいというので、結局、別のデザインのものをもうひとつ買ってしまった。

帰国してから気がついたのだが、電球につながれている差し込みが違うので、使えない。
結局、ホームセンターで似たようなコード付きの電球セットを買うことになった。

しばらく人ごみを避けて歩いてゆくと、不気味にライトアップされた古~い教会らしきものが見えた。

「あ!これ、爆撃から免れた大聖堂や!」

幻想的に浮かび上がった景観に興奮して言った。事前に調べていたので、すぐにわかった。
第2次大戦中、フランクフルトも連合軍の空襲を受け、街は壊滅状況になったが、
破壊から免れた中世の頃からの建物も残っている。

この教会は神聖ローマ帝国ゆかりの地であり、ここに立つ大聖堂(カイザードーム)は1562年以降皇帝の戴冠式が行われていたという。

「うわー!、ここみたい。」と娘たちがいった。

集合場所の近くのしゃれたお店のショーウィンドーが娘たちを引きつけた。
言ってみると、中は明るいが鍵がかかっている。

「やっぱり添乗員さんがいうように、ドイツは8時になるときっかり閉めるんやね。」
あきらめて、バスが待つ市庁舎へ行く。

3つの切妻屋根が並ぶレーマーと呼ばれる旧市庁舎


レーマー広場


15世紀に建てられた旧市庁舎の2階にはかつて神聖ローマ皇帝戴冠式の祝賀会が催された「皇帝の間」があり、ドイツ出身の皇帝52人の肖像画が並ぶ。

グリューワインは、ワインと香辛料などを温めて作るホット・カクテルの一種。一般的には赤ワインで作られる。イギリスではモルドワイン(Mulled wine)。フランスではヴァン・ショー(vin chaud=熱いワイン)。ヨーロッパのクリスマスにはかかせない飲み物。温めたアルコールはグロッグとも呼ばれ、北欧諸国ではこのグリューワインそのものがグロッグと呼ぶ。
グリューワイン用のマグカップとビール (Wikipediaより)
■レーマーは現在もドイツにとって特別な市庁舎で、ワールドカップ2002で準優勝した男子代表選手たちや、女子ワールドカップ2007で優勝した女子代表選手たちがこのバルコニーで祝福されている。
(よしかわかつこ。大阪出身。フランクフルトの郊外Oberurselに住む主婦兼フリーの観光ガイドや団体旅行のアシスタントのホームページより)


フランクフルト市庁舎とパウロ教会前の彫像


 フランクフルト市庁舎となり・パウロ教会前の彫像


市庁舎の横の方で、バスを待つ間、奇妙な像が目に入った。

両手がしばられ、頭の上にあげ、訴えるような表情をした彫刻である。

彫刻の下には「AUCHWITZ、BERGEN‐BELSEN…」と単語が並べてあった。

冒頭の「アウシュビッツ」から推測して、戦時中のユダヤ人強制収容所に関連している。

帰国してから調べてみると、アウシュビッツはもちろん、ベルゲン・ベルセンやダッハウなど、みなナチスによる人体実験などが行われた強制収容所であった。27か所ほど記してある。

ファシズムによる大変な犠牲を強いた過去の歴史にしっかりと向き合っている。

後日調べてみると、銅像は市庁舎となりにあるパウロ教会の前だった。

ここで、戦後初の国民会議が開かれ、現ドイツ憲法の草案が提案・協議された教会であり、ドイツ民主主義のシンボル的存在だといわれている。

日本で言うなら、加害者側として、南京虐殺事件や旧満州での人体実験をした731部隊、従軍慰安婦などの戦争犯罪を繰り返さないために、市役所前などに記念碑を建てることと同じようなことかもしれない。
日本では「核武装」論も

大阪市役所前やその近辺には、こういう記念碑はない。
ご当地、八尾市役所前には、「平和の碑」があっても、抽象的な彫刻で意味がわからない。

現大阪市長は前橋下大阪府知事である。
石原慎太郎都知事と同じ「核武装」論者である橋下氏は昨年(2011年10月20日)、大阪護国神社に正式参拝している。

この神社は戦犯合祀の靖国神社と連携していて、靖国神社公式参拝推進の日本会議大阪事務局の
『日本の息吹』大阪版11年12月号が「知事本人が参拝するのは40数年ぶり」と伝えた。

改憲・戦争賛美の「靖国」派の中心に橋下氏が位置しているのだから、大阪市役所前に戦跡など、まして日本の侵略行為を象徴する碑など立つはずもあるまい。

2月10日、「船中八策」を唱えた記者会見で橋下氏は「日本が独立した軍事力を持たない限りは、日米同盟(日米豪ライン)を基軸にする」と述べた。

行き詰まった民衆の一時の支持を得て、「船中八策」などと気を引きながら、「都構想」どころか、戦争賛美・憲法改正を叫び、“核武装”も辞さない「独立した軍隊」をもつ国に変える危険な道へ踏み出し、再び悲惨な歴史を繰り返すようなことだけは避けたい。

ソウル・日本大使館前の少女像

もうひとつ、像をめぐる話題がある。

韓国の日本大使館前に、「慰安婦」被害女性ハルモニたちが名誉と人権回復をもとめた水曜デモが1000回目を迎えた11月9日、平和の碑として少女像が建てられた。

その1カ月後の12月18日、日韓首脳会談が行われた。

席上、李明博大統領はこの問題を念頭に「優先的解決する勇気を」と呼びかけたが、野田首相は1965年の日韓基本条約で「決着」・「解決済み」として、逆に少女像の早期撤去を要請するという不誠実な対応に終始した。

条約締結時、「慰安婦」問題の事実は知られていなかったことから、韓国の憲法裁判所は韓国政府に日本政府と外交交渉すべきだとしていた。

日本軍「慰安婦」問題は、少なくとも韓国側にとって未解決なのだ。

少女像にはいま、寒くないようにと帽子やマフラー、ひざかけがかけられている。


「マインハッタン」と欧州債務危機

ドイツの初のツアーでホテルに着いたのは9時頃だった。関空を飛び立って、18時間。
JTB基準でAグレードクラス。
24階建のモダンな「ホリディ・イン・ホテル」で、18階のツイン2部屋が割り当てられた。

窓から見る夜景がきれいで、おそらくマイン・タワーだと思われるビルがライトアップされて浮かび上がっている。
地上200mの高層ビルの屋上に展望台があり、「街一番のビュースポット」と紹介されている。

部屋でガイドブックと地図を見ながら、レーマー広場とマインタワーの中間地点に、時間があれば、行ってみたいと思っていた「ゲーテの生家=ゲーテハウス」がある。

『ファースト』は心に残るゲーテの代表作だが、その原稿を書いた「詩人の部屋」など、ぜひみてみたいが、「ホテルから歩いて行っても、30~40分ぐらいかな? 行ってみたいな」などと考えていた。

妻には絶対反対されると思うけど…。

マイン川のほとりには高層ビルが立ち並び、ニューヨークの「マンハッタン」を文字って、「マインハッタン」と呼んでいるらしい。

ときあたかも、EUの「政府債務危機」が世界の金融市場を揺るがしている。深刻な景気後退に入っている。10年前のユーロ誕生当時、1ユーロ=120円ほどだったと思うが、旅行中、105円ほどになり、帰国後の年明けには100円を割る場面もあった。

「ギリシアに行きたいけど、やばいよな」と娘も言うほど、ギリシア危機にはじまり、イタリア、スペイン…、金融市場にふりまわされている。

「資本主義の代わりに真の民主主義を!」
「銀行と政府を取り囲め!」

これは、EUの優等生、最大の経済牽引車であるドイツのベルリンとフランクフルトで
「大銀行と、その救済のために動く政府に抗議するデモ」が行われた時のスローガンだ。
(「しんぶん赤旗」11月15日付)

ニューヨーク・ウォール街ではじまったオキュパイ(占拠)運動は、欧州各国で抗議行動が継続的に続いている。

欧州債務危機に加え、移民流入の急増に反移民感情が高まり、ナチスなどの右翼勢力も台頭してきている。

部屋に入るなり、すぐバスにお湯を入れていたが、妻が先に入っている間、そんな記事を切り抜いたスクラップブックに目を通していた。

さすが旅の疲れが出ている。すぐに入浴・就寝の態勢に入ったが、何やら、天井越しにボリュームいっぱいのベース音が響いて寝られない。
娘も訴えに来た。

フロントにつながらないので、添乗員の部屋まで行き、「音が響いて寝られないので、フロントに連絡してほしい」旨、お願いした。

しばらくすると、電話がかかってきて、
「20階でクリスマスパーティをやっていて、12時までらしい。」
とのことだった。11時である。

「ま、しょうがないか。」とベッドに横になると、そのまま寝入ってしまった。





レーマー広場、奥に見える塔が大聖堂=カイザードーム (ホテルの部屋に飾ってあった写真)


若い中国人女性

6時30分のモーニングコールの1時間前に目が覚めてしまった。
レストランは6時30分から始まっている。娘たちに電話して、先に行く。

早かったので、席は空いていたが、中国人らしい一行が次々と入ってきて、席がほぼ埋まってしまった。

さすがドイツである。バイキングには、いろんなハムやソーセージがいっぱい並べてある。
野菜といえば、一口サイズのキューリとオリーブなどの酢漬けが並べてある。
これはいける。

4人テーブルに2人で座って食事をしていたら、20代の女性が座りかけてきた。
娘たちが来るまで終わるならと思い、座ってもらった。

長女が先に来て3人になった。

中国から来たという彼女は、リンゴの皮を歯で剥いて、皿の上に吐きだしたり、クチャ咬みするのを見た長女は少し驚いた様子だった。

そのうち次女が来たので、イスを追加してもらったが、彼女は急いで食べ終わって立ち去って行った。


電線がない国、自然エネルギーへ向かう国


「雨降ってるやん」
「これぐらいやったら、大丈夫やろ。そんなに寒くないし…」

ホテルの前に止めてあったバスに急いで向かう。
出発は8時だが、まだあたりは雲と雨のせいもあって薄暗い。

バスの運転手はヴォルフガングというドイツ人だが、3日間、バス規制のある市内中心地まで運転してくれたり、いろいろサービスをしてくれたようだ。

小雨が降るなか、183㎞先にあるローテンブルグに向かう。

高速道路から、トイレ休憩でSAに立ち寄り、そこで、自販機でエスプレッソコーヒーを買い、ガス入りとノンガスの水も買う。結構、雨が本降りになってきた。



ローテンブルク

道中の高速道路などから見えるのは、広い牧草地や農地、そして風力発電である。

さすが、原発ゼロ※へ歩むドイツだ。風力発電の下や道路脇などに太陽光発電もあり、
農家や工場、一般住宅の屋根にも太陽光発電がところどころに見える。

不思議に思ったのは、街や村に電線が見えないことだった。
日本なら、“あ!いい景色だ”と思い、カメラを構えると、たいがい電柱や電線がフレーム内に入ってしまう。

帰国後、調べると、ドイツはじめヨーロッパでは大きな町や観光地などには、
ほとんどの国で電線を地下に埋め込んでいるということがわかった。

ちなみに、ドイツ人は2階の窓から布団を干しただけでしかめっ面をするそうだ。

ドイツに限らず、ヨーロッパでは景観を大事にしているので、電柱や電線、ベランダなどでの干しものなどほとんど目にすることはない。

「ロマンチック街道屈指の珠玉の街」ローテンブルクに着いたのは10時40分頃だった。

中世の建造物がそのままの城壁をくぐり抜けると、車や装飾品はモダンで、家々の壁面もパステルカラーできれいに塗られていても、あたりの景観を見ると、中世の時代にスリップしたようだ。

雨は小ぶりで用意していた傘を持ってバスを出た。心は小躍りしている。
傘は一本足りなかったが…。

25年前にチェルノブイリ原発事故による放射線汚染を経験し、今回の福島原発事故で、ドイツは2022年までに原発ゼロにすることを決めた。

ドイツやデンマークでは、住民が主体になってとりくむなかで風力発電が発展、いまでは8~9割が住民所有という。再生可能エネルギー電力の買い取り制度をつくらせたのも住民が主体となってとりくんだ結果だ。風力発電機メーカーは農業機械の会社だったが、住民たちに依頼されたことがきっかけで、世界最大の風力発電メーカーに発展した。過疎化と高齢化がすすんでいる北部ドイツの埋立地の農村では、風力発電にとりくんだ結果、豊かなになり、若い後継者が生まれ、雇用も増えている。
(“日本環境学会会長・和田武に聞く”「新婦人しんぶん」2012.1.26)


大阪に母がいる“Mr.ビーン?”

ローテンブルクの街の中心はマルクト広場で、そこが集合場所となる。

マーケットはまだシートがかぶっている店もあり、開きかけている店もあった。
午後1時45分まで昼食タイムはさんで、3時間の自由時間だ。

広場の市庁舎横にある建物は仕掛け時計になっている。

「大酒飲みで、街を救った老市長」のストーリーを再現した人形が繰り出す仕掛け時計だと添乗員が説明する。

「1618年に起こった30年戦争の際に、街を占領した将軍が、市の議員たちの首をはねようとした。

フランケンワインをすすめられて気分を良くした将軍は

“ジョッキに入ったワインを一気飲みできたら斬首を許してやる”といい、

老市長が見事に飲みほし、議員たちは助かった。」という話である。

11時、市議会員宴会館の壁の仕掛け時計が鳴り始めた。
扉が開き、出てきたのは確かにジョッキを飲み干している人形だった。

市庁舎横の市議会員宴会館の仕掛け時計

「レストランは11時に開店や、っていってたし、あとでいろいろ観光しよう。」と妻がいう。が、1本足りない傘が欲しい。

まず先に、お土産屋へ入った。
ローテンブルクをあしらった可愛い傘を買ったら、「可愛い」といって、妻の持つ黒い傘と取り換えられてしまった。そのほうが絵になる。

事前にチェックしていたレストランを捜しながら、歩いていると、シャッターを切るのに忙しい。

「この辺やと思うけどなぁ。」と探しまわって、ようやく見つけたと思ったら、陳列されたワインにBAR風な感じだったので、娘たちに却下されてしまった。

「そこはいや」とか、「あれ食べたい」とか好き勝手にいいながら見つけたのが、「日本語メニューあり」のレストラン(Zum Schwan)だった。

「いらっしゃいませ。毎度、おおきに!」

突然、ドイツ?のおじさんが変な日本語で迎えてくれた。

「日本からでっか?」
「え!。おもろ~。イエス。」と娘たち。
「なんで、英語で答えなあかんねん?」。

むちゃくちゃやと思いながら、みんな笑いながら、妙に安心感があった。うれしい。
他に客は、ドイツ人らしき1組だけである。

「誰かに似てる? そうや。ミスター・ビーンや」
「うん!似てる、似てる」

Mr.ビーンが日本語のメニューをもって来て、適当に「〇〇子?」とか名前を呼んだり、変な大阪弁をやたらと連発する。

聞くと、母親は日本人で大阪出身、父親はミラノ出身だという。アラウンド・フィフティかな?

飲み物や料理をもってくるたびに、3人の名前を覚えられてしまい、「これ、〇〇子!」などといって差し出すが、私だけは「おッ父さん」だった。

お店のおすすめのビールはうまい。
スープも、ハム・サラダも、ソーセージも、魚(マス)料理もうまかった。
途中、ツアーでいっしょの2組8人が入ってきて、ビールなどを注文していた。

“ヘル(Hell)”という種類のビールで、「フェストボック(Festboch)」というラベルが貼られていて、「特別な機会に飲まれるビール」だと、
Mr.ビーンがいっていた。

黒っぽい色でコクのある力強いモルトの味わいのあるビールである。
「19世紀のミュンヘンで生まれたホップの香りと苦みを抑えたビール」とガイドブックに載っている。
度数は高く、7%。

店のもう一人のおじさんに「写真、OK?」というと、娘たちをカウンターの中まで連れて行ってくれた。
Mr.ビーンも交えて、みんなでいい記念写真が撮れたが、ぶれてしまった。

45ユーロを払って、レストランを出た。


2つの建築様式が融合した市庁舎

ドイツでのはじめてのレストランで、お腹も心も、満腹。雨も上がったようだ。
マルクト広場へ行くと、マーケットに人も集まりだし、にぎわいをみせつつあった。

広場に面している教会らしき入口が目に入ってきた。

「入れるのかな?」といいながら、足を踏み入れると、らせん状の石の階段があった。
2階の部屋に絵が飾ってあり、3階の部屋はガラ~ンと何もない。

さらにらせん階段を登る。途中の窓から、おとぎの国のようなメルヘンチックな街並みが見える。

若い女性が一人旅らしく、先にウロウロしながら登って行く。
韓国からの留学生で、クリスマス休暇だと、流ちょうな英語で教えてくれた。

4階の部屋の奥へ行くと、木造の急な階段が見え、だんだん高くなっていく狭~い木のらせん階段を
「ハァー、ハァー」息きって上り詰めると、小さな部屋があった。
人ひとり入れるぐらいの狭い部屋には、丸々肥えたやさしそうなおじさんがお腹を突き出してすわっていた。

展望台への受付になっていて、隣のはしごから塔の真下の展望台に出るようになっている。
1人2ユーロ、4人分を払って登ってみた。

塔の上に展望台がある


「うわ~!すご~い!」

街が一望できる。冷たい風が心地いい。
ドイツ人らしき高校生ぐらいの恋人のほかに、誰もいない。
城壁の中の家々が美しくたたずみ、時折、煙突から煙が上がっている。
城壁外には森や畑が広がる。展望台からの眺めは、まるでおとぎの国のようだ。

「高いところ、いやや!」といいながら、妻も恐る恐るはしごから顔を出していた。
「見た?」
「見た、見た。いい眺めやった。」妻は満足そうに言った。

45人ほどのツアーの一行で登ったのは、おそらく私ら4人だけだろう。
何か得したような気がした。

ここは2つの建築様式が融合した街のシンボル、市庁舎だった。

ここを出て、奥に入り込むと狭い広場にもマーケットがある。
15世紀に完成したゴシック様式の聖ヤコブ教会がそびえ立つ。
人通りも少ない石畳の道路などをうろつく。

有料トイレへ寄ってから、集合場所へ行く。
そこから、城壁の外で待機してたバスに乗り込み、ニュルンベルクに向かう。


何階か忘れたが、途中の階に、聖血の祭壇に施されたリーメンシュナイダー作「最後の晩餐」がある。リーメンシュナイダーは15世紀に活躍した彫刻家。
1250~1400年ころにかけて建造されたゴシック様式の市庁舎だが、16世紀に火災で、前方部がルネッサンス様式で再建された。街を一望できる高さ約60mの鐘塔は切り妻の上に置かれただけの特殊な造りになっていた。


ヒトラーとワーグナー

ローテンブルクからニュルンべルクへはロマンチック街道をそれて、南ドイツを東西に結ぶ古城街道(全長1,000㎞)を東の方へ112km。

牧草地が広がり、ところどころにモダンな「農村?」風景が広がり、やはり太陽光発電を据え付けた家々がある。送電線はあったが、家々を結ぶ電柱・電線はない。美しい。



ナチス・ヒトラーが旗揚げ(結党大会)したというニュルンベルクだ。

もともとここは1050年、ハインリヒ3世が築城し、神聖ローマ帝国の居城として500年続いたという、中世から栄えてきた街である。

いまは人口50万を超え、フランクフルトに次ぐバイエルン州第2の都市(ドイツでは14番目)であり、フランケン地方の経済的・文化的中心地となっている。

「リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場する歴史と文化の街」
と紹介されている。

ワーグナーといえば、『ワルキューレの騎行』の前半部分の曲が頭に浮かび、口から出てくるほど印象深い。ベトナム戦争で村を攻撃するシーンに流れる曲だからだ。

フランシスコ・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』である。
なぜ、この曲を取り上げたのかはわからないが…。

映画の解説にはこう書いている。

「朝焼けをついて、数千発のナパーム弾を搭載したヘリの部隊がベトコン村で繰り広げる地獄絵図のような殺戮シーンに使用された」と。

「ドイツでもっともドイツらしい町」としてお気に入りだったヒトラーは、ニュルンベルクで毎年ナチスの党大会を開催(1933~38年)した。
ただし、選挙ではナチス党は勝てず、自由主義のDDPが有力な政党であったという。DDPとは、ドイツ民主党(Deutsche Demokratische Partei)。創立期に名を連ねたマックス・ウェーバーなどに代表されるように「教授の党」とか、「ユダヤ人の党」などと呼ばれていたが、激しい攻撃を受け、1930年には青年ドイツ騎士団と合併してドイツ国家党を設立。しかし、1933年にナチ政権によってドイツ国家党は禁止され、解散。


ワーグナーのオペラは、ヒトラーが「第3帝国」の創始を記念する特別演奏会(1933)でとりあげ、自分の演説の前にはこの『マイスタージンガー』前奏曲を演奏していたという。


ニュルンベルク・コード

ユダヤ人へのホロコースト(大虐殺)などナチスの戦犯は戦後、ニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判で裁かれた。

そこでは、ナチス・ドイツの医師たちによる数々の醜悪な人体実験も裁かれた。

その基準は、「ニュルンベルク・コード」として医学実験に関する最初の国際的なガイドラインになり、「世界人権宣言」や世界医師会の「ジュネーブ宣言」(1948)、「ヘルシンキ宣言」(1964)へと影響を与えた。

中世都市ニュルンベルクは空爆で町の90%が破壊されたが、ナチスの戦犯を裁いた裁判所は奇跡的に焼け残った。

時間があれば、見たいと思って、場所と電車などの時間を入念に調べていたこともあって、ニュルンベルクへの街へ入ると胸に高鳴るものがあった。

見学は時間的に無理なようで、相談しようものなら、妻に「また、変なこと考えてるやろ!やめてや」といわれそうだ。

でも、いつか、もう一度ドイツに来て、ベルリンも含めて、あの戦争にどう向き合ってきたのか、
戦跡などやドイツの歴史・文化、自然エネルギーを活かして原発ゼロに向かう自然・環境意識などなど、触れてみたいという、思いは共有できそうだ。

バスは、ニュルンベルク駅やオペラハウスなどがある繁華街を通り過ぎ、城壁に沿って走った。

カイザーブルク城に近いところで下車し、城壁からお城に向かう。

城の高台からは旧市街が見渡せる。ローレンツ教会の2つの尖塔が曇り空に映えていた。

高台から、町を眺めながら、下ってゆくと、博物館や教会が並ぶ石畳の道を観光客を乗せた馬車が通ったり、中世っぽい景観に感激。

「世界一有名なクリスマスマーケット」のあるハウプトマルクト広場へ向かうと、聖母教会をバックにしたマーケットは大勢の人で賑わっていた。


カイザーブルク城を出て市街地へ向かう



日本語のうまいスーパーの女子店員


観光馬車が行き交うニュルンベルク旧市内


聖母教会前のハウプトマルクト広場

特製マグカップ付きのグリューワインが全員にサービスされた。

片手にグリューワインを持ちながら、
長女がサーモンを挟んだパン、
次女が30㎝ほどの焼きソーセージを挟んだパンを買って、みんなでかぶりついた。
1個2.50~3.60ユーロ。

マーケットはどこへ行ってもほぼ同じようなものだったが、
一通りぐるっと回ってみると、それなりに目を引く民芸品・工芸品がある。
アイデアが素晴らしい。

近くにスーパーがあり、どんなものを売っているのか、好奇心で入った。

「けっこう、いろんな野菜があるな」
「あ、瓶詰めされた酢漬けや」

品揃いはいい。肉やハム・ソーセージ、チーズの種類も豊富だ。
「ホテルで飲むお酒を買う」といって、2本小瓶のワインとビール、
酢漬けの野菜とオリーブオイル漬けのニンニクなどを買い物かごに入れて、レジへ行くと、

「いらっしゃい。〇〇ユーロです。」

若い女性が上手な日本語で対応してくれた。

「え~!。上手やね」というと、
「日本語、勉強しています。ありがとうございます。さよなら。」

大学生のバイトらしい。びっくりするやら、うれしいやら、ドイツ人は日本びいきなんやと思った。

混雑するマーケットを離れ、旧市街を流れるペグニッツ川を越えて、イルミネーションなどで飾られたおしゃれな店が並ぶ通りへ行き、ファッション・ショップや民芸品の店を見てまわった。

2連泊するミュンヘンのホテル「AZIMUT CITY OST」に着いたのは、夜8時30分頃だった。
中心地から、20分ほどの町はずれのようだ。

ホテルの前には少し雪が残っていた。




“子どもと犬のしつけはドイツ人に聞け”

やはり、モーニングコール前に目が覚めてしまう。

部屋の窓から外を眺めると、木立に囲まれた駅があるらしく、電車がときたま止まったり、走って行ったりしている。

手前の広場では小雨の中、犬を走らせている様子をぼんやり見ていた。

「犬と子どものしつけはドイツ人に聞け」といわれるぐらい、犬や猫など動物愛護が徹底している。

日本では毎年、9万頭の犬が殺処分されていて、動物愛護団体はじめ社会問題になっている。
それに比べ、ドイツは犬の殺処分ゼロの国だ。

犬を飼うには、年間1000ユーロほどの税金を払わなければならないという。
そういえば、どこのマーケットでも犬を連れている人をみかけた。
人ごみでも、飛びついたりせず、ノーリードでも飼い主にしっかりとついて歩いてる。
ツアーの一行でみんなの気を引いた親子がいる。
小学校前の年長さんの男の子と面倒見のいい父親との2人旅だ。
どこへ行っても、素直に、少しはにかみながら、父親のカメラの被写体になっている。ほほえましい。

3日目の朝7時30分頃、レストランで

「おはよう!眠くない?」

と声をかけた。すると、男の子はコクっとうなずく。可愛いい。

この日は、40数人の一行は「自由行動」組と「世界遺産ヴィース教会とノイシュバンシュタイン城」見学のOP組に分かれる。だいたい半々か。

9時ホテルを出発してしばらくすると、降り積もった雪に覆われるようになった。

オーストリア国境近くへ向かう。

カイザーブルク城内


道路から見えるドイツ

ミュンヘンからロマンチック街道を経て、世界遺産の「ヴィース教会」へ向かう。

「秋田の田舎、思いだすなァ」
「そうやね、秋田は雪で一面真っ白になるし…」
「農家も、住宅も、なんかみんなきれいにみえるなぁ」

「ドイツは土壌があまり肥沃ではなく、ジャガイモが適しているんですね」
と添乗員がいっていた。確かに料理にジャガイモが多いようだ。
また、バイエルン州はビールのホップが広く栽培されている。
ドイツ料理といえばソーセージだが、豚肉ベースの美味しい料理がたくさんある。

森林は国土の3分の1におよぶ。
広がる農地はなんなのかはわからないし、干し草もみえるところから酪農もやられているし、北海道に似ている。

※農業は非常に生産的で、食料自給率は90%とヨーロッパの中でも非常に高い。生産高もヨーロッパの中ではフランス・イタリアに次ぐ第3位であり、世界4大農産物輸出国のひとつ。主要な農産物はジャガイモ、小麦、大麦、テンサイ、果物、キャベツなど。 (Wikipediaなどより)
※藤原辰史著『ナチス・ドイツの有機農業―「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』(柏書房)

道標には「Romantische Straβe」(ロマンチック街道)とか、
「Deutsche Alpenstraβe」(ドイツアルプス街道)、
「Salzburg」(ザルツブルグ、オーストリア)などと書かれている。

ときたま、山あいの道路を進む。
並行して自転車専用道路がある。

添乗員曰く「ドイツはサイクリングツアーが盛んで、専用道路がつくられている」という。

どこからどこがアウトバーンなのかわからないが、少なくとも広々として、
スピードもそれなりに出ているところかな。

ドイツのアウトバーンは、よく「無料、速度制限がない」といわれる。
しかし、ドライバーは燃料税や自動車税などの形で負担しており、
大型トラックは1995年から有料化されている。
2005年には、世界初のGPSを活用した走行距離課金方式が取り入れられたという。
乗用車への有料化も検討されているようだ。


※「トラックも乗用車も、道路の整備・維持に必要な以上の費用を税金や通行料金として提供している」。とくに、乗用車の場合、6割弱しか道路には投資されておらず、4割は公共交通を含むその他の各種の支出にあてられている。
問題は渋滞、交通事故と環境汚染という外部費用で「現在のドライバーの負担は少なすぎる」ということになっているようだ。
(福島大学人間発達文化学類住居学研究室」―ドイツまちづくり情報―ホームページより)


雪原の中のヴィース教会(世界遺産)

雪原のなかに「ヴィース教会」(Wieskirche)が現れた。

駐車場に雪かきで集められた雪山の向こうにそびえたつヴィース教会。

淡いクリーム色の壁に黒い屋根が、曇り空に映えるが、「これが世界遺産?」と思うほど、大きくもなく、こじんまりとしている。

「教会内部はロココ様式の最高傑作」とガイドブックにはある。

確かに中に入ると、「世界遺産」の意味が伝わる。まず目に入るのが、大天井画である。

キリストの復活、最後の晩餐などはヴァチカン・システィーナ礼拝堂の小型版のようだ。

主祭壇には1730年に作られた「鞭打たれるキリスト像」があり、
いまの教会が建設された1745~1754年までには、いろいろなエピソードがあるようだ。

「3人娘」はそれぞれ「懺悔の祈り」をささげて、教会を出た。


フュッセンのホテル「ヒルシュ」で“昼取”

ホテル「ヒルシュ」のレストランの窓の外は雪景色

この日の昼食は、フュッセンのホテル「ヒルシュ(Hirsch)」。

親日家のオーナーが経営するホテルで、古い民家の民具などが置かれ、古いが高級感のある落ち着いた居室のようなところで、食事をとった。

白ビールと黒ビール、ジュースをそれぞれ注文した。
昼食は、ロールキャベツとジャガイモにパンである。

ホテルの前には、馬ほどの大きさのシカの像があり、記念写真を撮る。

フュッセンは、ロマンチック街道の最南端で、川や湖に囲まれたのどかな街のようだ。
オーストリアの国境に近く、スイス・オーストリアからドイツへの玄関口であり、ノイシュヴァンシュタイン城への拠点にもなる。


湖と雪原(緑)の美しい村とノイシュヴァン城


ホーエンシュヴァンガウ城

ドイツアルプス

フュッセンから10分ほどして、ノイシュヴァンシュタイン城のあるホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)に着いた。

「白鳥のいる湖と森の緑が美しい小さな村」とある。

最初に目に入ったのは、小高い丘の上に立つ山吹色のホーエンシュヴァンガウ城と道路を闊歩する馬車だった。

村の行き当たりにある「免税店=GALERIA」で下車。
駐車場の前には「SHOPPING」と書かれた看板に日本語で「シュヴァンガウ」と書いてあった。
その向こうには湖面に浮かぶ森やドイツアルプスが見える「アルプ湖」があるはずだが、見えない。

1時から4時までの観光になるが、ノイシュヴァンシュタイン城は山の中腹にあり、馬車で行くか、歩いてゆくか、選ぶことになっている。

「馬車で行く」と妻と娘たち3人がいう。

「お父さんは歩いて行く」
「まぁ、無理しちゃって」

馬車は上り1人5ユーロで、下りは2.50ユーロ。
ノイシュヴァン城は入場者も、時間も決められており、あらかじめ予約がいる。
一行の予約は1時45分で、ほぼ1時間ある。

歩いてゆくと40分ほどかかるというが、馬車待ちの3人を置いて、私だけ先に歩いて行った。

ところどころ道路に馬糞が散らばったりしているが、
木々に囲まれ、滝の流れ、雪に埋もれた山や村などを眺めながら、1000mの崖の上に立つノイシュヴァンン城へ向かう。

何か信念があるのだろう、杖をついて、ゆっくり上っていくお年寄りを見かける。

途中、「Danger Ahead!」の下に「危険 通行禁止」と、一番上のドイツ語とともに、3ヵ国語で書かれた看板があった。

「日本の観光客が多いのだろうな」と思った。



三重県の高校の修学旅行先


ホーエンシュバンガウ城からノイシュバンシュタイン城を望む

ノイシュバンシュタイン城
城の手前にある展望台で、馬車組を待つ。
城をバックにしたり、遠くの湖水をバックにしたり、いろんな国の観光客が記念写真を撮っている。
みんなが揃ったところで、記念写真をとった。

城門をはいった集合場所へ向かい、そこで、チケットをもらい、予約時間まで待機。

昨日、ローテンブルクで見かけた日本から来た高校生たちが先に並んでいる。
聞くと、三重県の私学でドイツ・フランスが修学旅行先だという。

若くして王位についたルートヴィヒ2世がベルサイユ宮殿と中世の騎士にあこがれて「夢の城」を築こうとしたノイシュヴァンシュタイン城。

城の建設に膨大な資金と資材が使用されたために借金と負債は膨れ上がり、王は罷免され、建築作業も中止にされた。王は41歳で謎の水死を遂げた。

1890年に元の図面に沿って建築されたが、当初の思い描いた城とは異なるものになったとはいえ、崖の上に造られた豪華絢爛の贅を尽くした城は当時の貴族の権勢が目に浮かぶ。
その裏では、どれだけの民衆が苦しんだのだろうか?

城の中にある土産店で記念のストラップを買ったが、店のおじさんは日本語がペラペラ。
ここにも日本の観光客が多いのを感じる。

帰りは私と長女が歩き、妻と次女は馬車で下った。

「3人娘」がふもとの土産店で買いものをしている間、一人私はホーエンシュヴァンガウ城などを探索した。

赤い実はグミだろうか、白い実をつけた木もある。シュヴァンガウ城の山吹色の壁に映える。
中国人の写真家がいろんな角度から写真撮影をしていた。

ルートヴィヒ2世が幼少期を過ごした城で、このあたりの地名をシュヴァンガウ=白鳥の里という。
ここからルートヴィヒ2世はノイシュヴァン城が出来上がるのを眺めていたという。

妻と娘たちが買い物をするという店を探し回ったが、
結局、バス乗り場の「免税店=GALERIA」でいろいろ買っていた。
    
ホーエンシュバンガウ城                   ホーエンシュバンガウ城から街並みを望む

追記
フランスのジュリアン・デュビビエ監督のモノクロ映画「わが青春のマリアンヌ」(仏独合作、1956年に日本で公開、DVDは出ていない)を見て、ジ・アルフィーの高見沢俊彦と高橋研が作詞、高見沢が作曲した「メリーアン」(1983年)として、初ヒット曲にした。
メリーアンは英語読み。
映画「わが青春のマリアンヌ」のロケ地となったホーエンシュバンガウ城がライトアップされ、日暮れ時の空に浮かび上がった。
「朝日be」(2012.10.13)より
ホーエンシュバンガウ城(左)とノイシュバンシュタイン城(右)を背景にしたアルプ湖。かつてバイエルンお受けの人々が水遊びに興じていた。

ジャパニーズ・メニュープリーズ


ホーエンシュヴァンガウを出たのは4時30分頃だった。

「ミュンヘンのクリスマスマーケットへ行って、最後の夜を楽しみたい!」

こんな願いに、添乗員とヴォルフガングさんは、ホテル経由で、なんとか7時過ぎに、ミュンヘンのクリスマスマーケットのあるマリエン広場の近くまで連れて行ってくれた。 

ここからは、それぞれホテルまで自由行動をとった。
マーケットとショッピングとディナーを楽しむ計画で、ウロウロし始めたが、どこへ行っても人が多い。

「なんでも揃う大型デパート、Galeria Kaufhot」や
「ドイツ製の機能的な文具が勢ぞろい?のKaut Bullinger」などを見て回ったが、思うようなお土産はなかった。

とりあえず、ディナーをということで、事前に調べていたパウラナー・イム・タール(Paulaner Im Tal)を探し当てた。入口には、人が2~3人乗れる豚の置物があり、中に入ると、ビアホール的なレストランだった。

「Japanese Menue Please!」というと、すぐ持ってきてくれた。

ビールなどの飲み物を先に注文して、メニューを見ると、「ベジタリアン」とか、「有機の豚肉」、「市場の新鮮野菜」とか、すこしこだわりがあるようだ。

オーダーは、
「七面鳥の細切り、カレークリームソースかけ、パリパリ野菜とジャーマンポテト添え」
「パスタ」…味はいい。

ミュンヘン新市庁舎


レストラン「パウラナー・イム・タール」

※アドルフ・ヒトラーは、ワーグナーの影響を受けて、ベジタリアンになった。
また、動物愛護家でもあり、これらにユダヤ人などへの差別的要素があったという。
詳しくは、鶴田静著『ベジタリアンの文化誌』(中公文庫)


歩行者天国のノイハウザー通り

ミュンヘン・カールス門

この日の夜8時で、ドイツのクリスマスマーケットは店じまいとなるということだったが、
その通りで、レストランを出てみると、マーケットは案の定、ほとんどの店が閉まっていた。

高級ブティックなどが並ぶノイハウザー通りをブラブラ歩いた。
カールス門をくぐって、カールス広場に出た。

まだ、ビアガーデンや夜店はにぎわっていた。
ナイターのスケートリンクもあった。

ノイハウザー通りは、大型デパートや話題のファッションブランド店、レストランやカフェ、お菓子屋さんなどが立ち並ぶミュンヘンの目抜き通りである。残念ながら、8時を回っていたので、ほとんどの店は閉まっていた。

日中は、買い物客でごった返しになり、ストリートミュージックや大道芸などでにぎわう。

ノイハウザー通り


ュンヘン市庁舎

■ドイツは「大型店を都市計画的に規制している」ことで有名で、同時に商店街活性化への努力も行っている、と福島大の住居学研はいう。
(福島大学人間発達文化学類住居学研究室」―ドイツまちづくり情報―ホームページより)

日本と違って、大型店を規制しているには、それなりの理由がある。
「一つは、人々が居住地の近くの店舗で買物をできるように保障すること。自由に車を乗り回す人はともかく、免許や車を持たない人や小中学生等の交通弱者のために、徒歩・自転車、あるいは公共交通で行けるところに十分な店舗があることが、望ましい都市の姿」だという。
「郊外店を規制するもうひとつの理由は、都心の活気を維持することにある。歴史的に形成された都心は多くの複合した機能を果たしていて、郊外ではできない」。
「郊外に立地する大規模店舗は買物機能だけは代わって果たすことはできるが、都心機能の全てを代替することは無理で、都心性商業は都心の重要な機能のひとつとして、活気ある都心のために欠かすことができない」と述べている。
(同上、03.05.12更新)

■歩行者空間はミュンヘンからドイツ全体に広がっている。
ミュンヘンで「オリンピックをめざして地下鉄の工事が進められ、それまで路面電車が走っていたカールス門から市役所までが歩行者空間に改造された」のがきっかけだという。
ミュンヘンの場合は、まちづくりの知識を有した人たちがボランティア的に活動していることで有名な「ミュンヘン・フォーラム」があり、住民運動が盛んだという。これが車社会への一定の歯止めとなっている。」
(同上、02.12.09最終更新)


“ビッグ フクシマ?”

カールス広場を過ぎたところで、タクシーを拾った。

夜の空にそびえたつ高い塔が見えたので、

「What’s that?」と聞くと、運転手は目の前にあるⅰphonみたいなものを操作し出した。

しばらくして、それを指さして“見てくれ!”とジェスチャーする。

見ると、日本語で「平和の天使」と書いてあった。

「え!すごい!日本語や。」などと、びっくりうれしで叫ぶと、みんなが感心しながら、大笑い。

ⅰphonみたいなものを指して、「Japanese?」というと、
「Yes!Japanese Good!」といってくれた。
そして、となりにあるナビを指して、「China」といい、頭をかしげたのが印象的だった。

次女は、後ろで私と運転手の英語なのか、日本語なのかちんぷんかんぷんな会話に、

「お父さんわかってんの?」とかいいながら、
「〇〇っていってるんやで」などとしっかりと翻訳してくれたが…。

そのうち、「ビッグ フクシマ?」などと聞いてきた。
やはり、東電福島第1原発事故は大きな関心を呼んでいるようだ。

残念なことに、大震災の復旧・復興や原発事故へのかつてない“脱原発”の動きなどの盛り上がり、
東電や政府の対応のまずさなど、どう伝えていいのかわからず、
会話が途切れてしまったことが残念だった。

平和の天使(muenchen202[1].jpgより)









豊かな日本を大切に守り伝えるために

ミュンヘン新市庁前の
ミカエルの像(4面のひとつ)



ホテルに着いたのは、10時頃だろうか?

部屋に入ると、「水がない!」と妻が言う。フロントへ行くと、レストランの方へ行けということだった。レストランの奥の方で、大音響の中、若者たちがクリスマスパーティをしていた。

カウンターで「Water Please. Mit(炭酸入り) & Ohne(普通の水)」

うまく通じたみたいで、2本のボトルをくれた。
いくらかは忘れたが、お金を払い、水を持って部屋へ戻った。

夜中の2時ころだったと思うが、ノックする音が聞こえるので、娘が何か用があるのかと思い、ドアを開けると、若いドイツ人の女性がドアの向こうで酔っ払った様子で立っていた。

私の顔を見ると、「間違った!」みたいな顔して、
「Iam Sorry」といったのか、「Entschuldigung」(すみません)といったのか覚えていないが、
おそらくクリスマスパーティの帰りだったろうか、
あわてて帰って行った。

そんなことがあって、少し寝不足だったが、ゆっくりと朝食をとり、部屋で少し休憩してから、9時集合のロビーに行った。

ミュンヘン空港でお土産を買った。
そこから、フランクフルト経由、関空行きのルフトハンザ機に乗って帰国した。
往路がビジネスクラスだっただけに、エコノミークラスはつらかった。

それにしても、日本は森林があり、広大なダムの機能を持つ田んぼ、水量豊富な河川と湖、生きもたちの楽園・里山や海辺、何よりも外国では味わえない、日本料理…、やはり日本は素晴らしい。

海外旅行は日本の良さを知ることになるが、逆に自然と共生の道をすすめるドイツとは逆向きの日本の危機的状況も知ることになる。

大切にしたい日本の豊かさを失わないように、また3・11後の日本の在り方を問いながら、何かできないか、あらためて考えていきたい。

ドイツ余話

(1)3・11東日本大震災で被災したドイツ人一家


ドイツ人に親日家が多いという印象を裏付けるニュースがある。

3・11大震災で日本に来ていたドイツ人一家がパスポートも失くし、避難所で途方に暮れていたところを1人の日本人から始まった連携で、ドイツに帰れるようになった。

ドイツでは、このニュースを12月11日、TVで放送された。
救助されたドイツ人にサプライズがあった。
その日本人が家族に内緒で招待されていたのだ。

スタジオに現れた日本人に、会場にいた観客が総立ちのスタンディングオベーション。
家族と日本人はハグを交わした。
何人かのドイツ人はこの放送を見ていたことは間違いない。
(2)EUの経済危機

ミュンヘンおもちゃ博物館前の像

国外の投資家に買われ、経済破たんしたギリシアに象徴されるECの経済危機、金融危機は、
1ユーロ100円ほどのユーロ安で、多少はお安く欧州旅行を楽しむことができたように気がした。
EUの中でも優等生のドイツでは、経済危機は感じられなかったが、
ギリシアへの公的援助への不満は大きい。

よく「日本はものすごい借金があり、ギリシャのように破たんしてしまう。
だから消費税増税や」などと、引き合いに出されるようだが、国外のサラ金に借金返済を迫られているようなギリシアと違って、日本の借金は国内で買われている国債が90%以上で、お父さんがお母さんに借金をしているようなものだ。

海外から見たら日本は借金なしである。

消費税増税は震災や原発事故で苦しんでいる被災者たちに二重の苦しみとなって覆いかぶさる。
国や地方の無駄遣いにこそ本当にメスを入れ、国内での景気回復策を行うなら、増税は必要ない。

(3)
ドイツ--「鍼灸をしていない病院はない時代」


ドイツの鍼灸医療は、日本以上に国民の中での鍼灸受診率が高い。
以下、鍼灸雑誌から抜粋した。

1.ドイツでの鍼治療は、 医師及びハイルプラクティカーによって行われており、 医師の間では鍼治療は一般的な治療として地位を確立している。
 2000年~2006年にかけては、 鍼治療を公的保険での適応疾患にすべきか判断するため、 鍼治療の効果を科学的に検証することを目的に40,000人を対象にGerman - Studiesが実施されるなど、 臨床と研究、 いずれの分野においても活発な活動が行われている。
 また、 西洋医学領域とは別にハイルプラクティカーとよばれる資格がドイツには存在し、 鍼灸、 ホメオパシーなどの自然療法が、 古くから行われていることより、 ドイツでは鍼治療が広く国民の間に普及している。
(略)

II.ドイツの鍼灸資格制度

ドイツにて合法的に鍼灸治療を行うことができるのは「医師」または「ハイルプラクティカー(Heilpraktiker、以下、HP)」のみであり、例外的に、助産師による妊婦への鍼治療が認められている。
 
鍼治療に従事している医師は02年時点で2~3 万人、もしくは4~5万人と推測され、
ドイツにて、鍼治療を行う医師が所属する最大の団体であるDAGfA(ドイツ鍼医師協会)には08 年時点で、約10,000 名が所属している。
 DAGfAによればドイツでは20,000~30,000 人の医師が鍼治療に従事していると予想し、
他の団体の推計では40,000~50,000 人との報告もある。

ちなみにドイツの医師数は30万6435人(05年の時点で;歯科医などは除いた数)。
HPはドイツ特有の資格制度であり、独立開業権が認められ、鍼灸治療だけではなく、ホメオパシー、神経セラピー、オゾン・酸素療法など各種自然療法を行うことが法律上許可されている。

患者の症状に対し、実施可能な治療オプションの中より、各々で治療法を選択するという治療が行われ、鍼治療はその内の選択肢の一つであり、全てのHPが鍼治療を実施しているわけではない。

HPは05 年現在20,000 人の登録があり、登録ベースで男性:6,000 人、女性:14,000 人であるが、HPのみを業としているのは6,000 人だけとの報告もあり、HP のみで生計を立てていくことが難しいことが推測される。
  
                         (ドイツ鍼灸事情2008、『全日本鍼灸学会雑誌』Vol. 59 (2009) , No. 1)

2.「鍼灸(など)の発祥地は中国であったかもしれないが、東洋医学の将来は(さらなる発展は)恐らく西洋にある。」     
 (2011年5月~6月、“TCM Kongress”主催AGTCM主催での最高責任者の発言)
 (「ドイツRothenburugで行われたTCM Kongress」、『全日本鍼灸学会雑誌』Vol. 61 (2011) , No. 4)
3.「現在ドイツでは鍼治療をしていない病院はない時代になってきました。」(トーマス・ベルニッケ)
 (「特別座談会―日本・米国・欧州で考える小児鍼の可能性」、『鍼灸ジャーナル』vol.23)

折りしも、2011年は独日友好150周年にあたり、ドイツ国内では記念イベントなどが催されていたという。

3・11東日本大震災の際、ドイツの一般市民・市民団体、企業、自治体、連邦政府、各地の独日協会など、これまで長年培われてきた両国の絆を礎に、さまざまな被災地支援が行われた。

日独の友好関係の歴史は、1861年1月24日に結ばれた修好・通商・航海条約にさかのぼる。

この頃は、シーボルトや森鴎外に代表されるように、個々のドイツ人と日本人が、未知なる分野への好奇心から互いの理念や精神を理解しようとした市民社会レベル・非政府レベルの交流が古くから多く存在し、今日まで続く日独交流の根幹を成している。(「ドイツ大使館 東京」より)

2012年2月20日 藤庵(4月29日加筆)

(12月21日~25日、JTB「旅物語」『ドイツ5つのクリスマスマーケット5日間』の旅)

旅行代金は1人16万円。往路のビジネス代金1人4万5千円で、計20万円を越えた。
ペットホテルは2匹で5日間5万5千円(駐車代は半額の4,500円、計約6万円)。















まほろばの倭(やまと)で薬草料理
2011年11月23日 (水)
伊勢街道の要所として栄えた大宇陀に行ってきた。

大願時の薬草料理が目的だった。

この秋、一番寒くなったという。紅葉は真っ盛り。


大願寺の薬草料理の前菜

アマチャヅル・ドクダミ・ハト麦・クコなどの薬草茶を
2杯3杯と飲んでいるうちに、

おそらく和尚さんらしき人が
吉野本葛の胡麻豆腐やら玄米おにぎり、
TVでも有名だというマコモなど10種類ほどの前菜を並べて、
簡単な説明をしてくれた。

朝鮮ニンジン、大ナツメ、アシタバ、ヨモギ、ドクダミなどの天ぷらのほのかな苦みは
何か元気をもらえる気がする。

ご飯は黒米。舞茸とヨモギ麺の入ったお吸い物はおいしく、ご飯のおかわりもできた。


薬園から森野旧薬園と大宇陀の町

雨がパラつくなか、江戸時代頃からの古民家が並ぶ「歴史的まちなみ」を歩いた。

「森野旧薬園」の探索がもうひとつの目的だった。

この「薬園」は、徳川八代将軍吉宗のもとで展開された
享保改革期の薬草政策を、東京の小石川薬園(現東大植物園)と並び担ってきた。
現在も、530種の植物が生息している。

晩秋ということもあって、植物相は少ないが、
3~4月にはレッドデータブック掲載植物のカタクリの群生が見られるという。


飛鳥時代頃の薬草狩りの絵(薬の館)


旧細川家を「薬の館」として、大宇陀歴史文化会館にしている。

豊臣秀吉の弟、秀長らが石垣の城に構築した歴史、50数件も薬屋があり、
酒屋や遊郭まであったという大宇陀。

「薬の館」では、20分ほどガイドさんの説明に聞き入ってしまった。

  
旧細川家・ 薬の館               石で日本列島をかたどった中庭           かまど
  


「まつづくりセンター」というお店で「葛うどん」が目に入った。冷えた体にちょうどよかった。

こうじの匂いに誘われ、酒屋に入った。
吟醸酒「かぎろひ」と古代の酒「赤米“阿騎野物語”」、奈良漬を買う。

この日は、妻の誕生日だった。





災害鍼灸マッサージプロジェクトの記録
 
2011年3月11日

東日本に大震災が襲った。

岩手・宮城・福島の海岸の町は

津波に飲み込まれてしまった。

宮城県の気仙沼は、重油タンクが

津波に襲われ、街が燃えていた。

(写真は、翌12日付「朝日」より)
「日本プライマリケア連合学会」(PCAT=ピーキャット)の要請で、
被災地・気仙沼へ「鍼灸マッサージボランティア」に参加。

5月3日~8日
5月2日夜9時、大阪を発つ。
「チーム佐藤」は5人。
3日朝、福島・磐梯山SA(上)。
朝10時45分、気仙沼中学校に到着
「チーム佐藤」は避難所の気仙沼小学校体育館で鍼灸ボランティア開始
医師・看護師・保健師たちによる「健康支援調査」と連携し、鍼灸マッサージを受け持つ。
3日午後4時、診療が終わり、12人のメンバー全員集合。ミーティング後、市内の被災現場を視察。
気仙沼小学校体育館に確保されたテントで5日まで診療を行う。
気仙沼中学校に1人派遣、その後市民会館もあわせ、6日間でのべ131人(男65人、女66人)を診療。マッサージのみは58人、はりとマッサージが73人だった。
6~8日はメンバーは2人で、
市民会館談話室で診療を行う。
市民会館前の寄せ書き。 市民会館前の自衛隊のお風呂
「玄界の湯」(九州方面の自衛隊だった。)
3日、小学校グランドで凧揚げ大会

カウンターまで津波が押し寄せた
というラーメン屋さん。
4月29日にオープンしたばかり。

昼食は3日間、おにぎり持込で
あっさりラーメンに舌鼓を打つ。

息子さんは、なんと大阪・八尾市で働いていた。
      森は海の恋人

気仙沼の豊かな海は、森を育てることで、育まれてきた。

震災に遭い、全滅したカキ養殖者の1人は、今年も、山に植樹をされるそうだ。

















“心までは壊れない”

全壊した家の再建に向け、

ガンダムが守ってくれていた。
PCATが手配してくれた岩手県藤沢町の農家民宿「観楽楼」に5泊しながら、毎日30km先の気仙沼へ通った。
「観楽楼」のご主人が自宅(民宿)の裏山に、40年かけてつくった“桃源郷”。
「岩手日日新聞」などで報道されると、連日、県内外から花見客が来ていたという。

もちろん、被災者の方も、ひとときの癒しに訪れるという。

さくら、やまもも、すいせん、れんぎょう、しゃくなげ、にりんそう…。
いっせいに花たちが咲きだした。

最終日の8日、早朝にワラビ取りに連れていってくれた。
藤沢町では毎夏、盆前に「縄文の炎~藤沢野焼祭」が行われる。縄文時代の陶芸”野焼き”を再現し、その作品は自らの手で作り、自らの手で焼くといった参加者自らが演出する祭り。参加作品数は全国から集まり1,000点を超える。野焼の火は 一晩中燃え続け、翌朝には幻想的な陶芸作品を生み出す。
野焼きの作品を玄関前に飾っているのをよく見かけるが、下の作品は「観楽楼」のご主人がつくったもの。テーマは、「宇宙人」と…?。



鍼灸ボランティア 詳細編
2011年05月29日 (日)
宮城県気仙沼市へは車で13時間余り、3日午前11時過ぎに到着。

気仙沼小学校のグランドへ行くと、多くのボランティアといっしょに子どもたちが凧揚げをしていた。空を見上げると、空高く上がった凧の横には虹がかかっていた。半円ではなくまっすぐに伸びた虹だった。

              

現地での受け入れやコーディネーター役をしてくれた東京の鍼灸師WAKAさんを捜す。小学校の下に位置する中学校にいるという。
そこで、他の鍼灸ボランティア2名を加え、簡単な説明を受ける。

午後から、二手に分かれ、4人は気仙沼小学校体育館(避難者140人)へ。1人は、中学校(同432人)に応援に行き、他の鍼灸師と合流。3人で避難所になっている各教室をまわる巡回治療にあたった。

小学校の体育館は子どもたちが外で遊び、大人たちの多くは出かけているようだ。人は多くない。支援者たちにあいさつし、場所を確認してから、「鍼灸マッサージのボランティア」の告知をしてまわった。

               

館内の中央には、女子中高生などのいる家族が生活しているテントが並んでいる。そのうちのふた張りはボランティアの看護師などが寝泊まりしているが、そのテントを治療用に借りた。

テントの周りの窓側には、冷たい床に断熱材のマットを敷き、ダンボールなどで仕切られただけの区画がいくつもある。その区画へ手分けして訪問し、その場でマッサージやはり治療をしたり、テントでの治療の予約をとったりした。

初日はこちらも、被災者も、互いに様子見のような、距離感を置いた感じだが、次の日、そして3日目になると垣根が低くなり、震災当時の様子やいまの状態などを話してくる人もおり、心を開いてくれるようになった。

いずれも、接触鍼や打鍼、軽擦程度のマッサージやタッピングだが、それだけで心身の疲労、肩こりなどから解放され、表情が明るくなってくるのがわかる。

子どもたちはマスコミでも有名になった『ファイト新聞』を書いて館内の掲示板に張り出しているが、避難所に明るさを提供してくれている。子どもや家族を失った人もいるし、先は見えないが、小学校の避難所では少なくとも子どもたちの存在が支えになっている気がする。
初日、5人で20人を治療した。半分は腰痛を訴え、肩こり、全身疲労、坐骨神経痛、不眠なども多い。

津波の被害は想像以上

午後4時過ぎ、1日から来ていたボランティアたちと合流、中学校の下に位置する市民会館前に12人全員が集合。
初顔合わせで印象を語り合った。

「統一した問診表をつくるべきではないか」という案も出たが、これまでと同じように、氏名、性別、年齢、所属班を記録することで落ち着いた。翌日、朝9時30分にそれぞれ今日と同じ避難所へ集合し、10時から午後4時まで治療に当たることなどを決めて、藤沢町民病院へ行く組と藤沢町にある近くの農家民宿へ行く組とに分かれた。

わが「チームさとう」はその後、市内や港などの被災現場を視察してから、農家民宿へ向かうが、目の前で見る津波の被害は想像以上のひどさである。

がれきやめちゃめちゃになった車などはところどころにまとめて山積みにされているが、いまだに船がよこたわり、焼けただれた車なども商店や家に突っ込んだまま。

                  

気になるのが地盤沈下だ。ちょうど満潮時だったらしく、冠水した道路、桟橋は海水面まで数センチまで迫る。波止場近くの4階建ての商店は、津波のひどさを物語っているが、家を修理しながら、お酒などを売っていた。
電気のつかない信号が何ヶ所かあり、そこから少し内陸に入ると、被害は感じられない。

気仙沼は地震と津波のあと、港に近い街や大型船など火の海になった映像が強烈だったのを鮮明に覚えている。
治療しながら、教えてもらったのだが、津波は大きな重油タンク3つとも流され、その油に引火したり、電気系統などがショートして、海と町が燃え上がった。

          

治療中、被災者の一人は「気仙沼にはびこる泥のような、重油のようなにおいは嫌だ」といっていたが、重油の燃えた臭いに瓦礫の粉塵が混じり、普段とは違う魚介類の腐った異様な臭いがし、体育館などにもただよってくることもある。

大阪とは1ヶ月遅れくらいになるのだろうか、花粉が飛び交い、その上、黄砂が混じる。避難所の汚れた空気も加わり、咳をする被災者が多い。われわれは1週間、鼻水とくしゃみなどに悩まされただけだが、被災地では雪も降ったり、寒い日が続いていたので、肺・気管支系の疾患は多いのだろう。

東北を襲った雪害は30数年ぶりともいわれ、太平洋側の岩手・宮城も例年になく、雪が降り積もったりした。
GWは、日中は少し暑くなるが、朝晩は寒いぐらいだった。体育館の床は冷え冷えとする。

「想定外」の待遇

気仙沼に着く直前、携帯で、泊まる場所は岩手県の一関と気仙沼の中間に位置する藤沢町の藤沢民病院になるだろうとの連絡をWAKAさんから受けていた。
藤沢町民病院は気仙沼や陸前高田などへのボランティア派遣のハブ(拠点)になっている。

雑魚寝のつもりだったので、寝袋や食料なども持ち込んでいたが、PCATの計らいで藤沢町の「農家民宿」に5泊することになった。
食事付、風呂付という待遇は「想定外」だった。
しかも、宿泊費も、交通費もPCATが出してくれる。

初日は東京組3人とともにみんなで8人が泊まった。

                   

そういえば、この日「チームさとう」はみんな昼食抜きだった。民宿に向かう途中、疲れと空腹が一挙に押し寄せてきた。築130年のいろりのある伝統的な造りにみんなが驚き、感激した。農家民宿らしい「豪華な」夕食は、長旅の疲れとはじめての被災地での治療という緊張を一挙に解きほぐしてくれた。

宿のご主人の“あんちゃん”は農業に従事しながら、町会議員をやり、裏山には40年かけて造った「桃源郷」があり、桜、ヤマモモ、水仙などが花盛り。宿の名は「観楽楼」。GW中、県内外から連日、花見客が来るほど、人気のフラワースポットなのだ。

食事はお姉さんが手伝いに来ていて、明らかに脊柱管狭窄の症状がある。食後、治療をすることになり、これが日課となった。5日間の治療で、下肢の痛みが緩和され、喜んでもらえた。

治療中、突然、地鳴りのような音がしたかと思うと、ぐらぐらと揺れ出した。「地震だ!」。「あわてない、あわてない」とあんちゃんがいう。余震は、ほぼ毎日あった。

被災者の食事はやはり偏っていた。

2日目、農家民宿「観楽楼」の自慢のフラワーガーデンを見、普段は食べることのない朝食をいただき、しかもお昼用のおにぎりもいただいた。これが5日間同じようにしてくれた。治療する側が元気でなければ、ということで甘えることにした。

小学校の体育館の外では青年会議所などがおもちゃや風船、ゲームなどお祭り気分の出店をはじめていて、クイックマッサージもやるという。

治療は中学校へ1人派遣し、4人が小学校で治療に入る。さまざまなボランティアが入り、天気も良く、館内の人は少ない。この日は予約も入り、小学校では子どもへの小児はりも含め、22人。中学校に派遣したT君は1人で14人、マッサージを中心に巡回治療を行った。

やはり腰痛、肩こり、神経障害、不眠、そして動悸や吐き気、頭痛などいろいろな症状があった。

食事はカップめんや缶詰が多く、野菜が少ないといい、身体を動かすことも少なくなり、避難所くらしで肥ったという人も数人。

館内では、PCATが本格的に健康調査に入っている。結果は8日、市民会館で知らせることになっている。

4時過ぎ、体育館を離れるとき、さきほど小児はりをした親子3代の4人が、いまから、市民会館の駐車場に設置された自衛隊のお風呂に行くという。「玄海の湯」とのれんに書いてある。九州の部隊だ。お風呂は、女性男性が隔日に分け、1日おきの入浴になる。

夕方は肌寒く、風も出てきた。小学校のグランドを横切り、中学校の校舎からさらに下へ降りて行き、再び帰ってくる間に、湯ざめして風邪でもひかないか心配になり、声をかけた。

「お風呂は楽しみでね…。」と嬉しそうに言い返してくれたのが印象的だった。

この日の活動が終わってから、WAKAさんとうちのスタッフ1人が帰ることになっていたので、気仙沼駅まで送った。農家民宿へは大阪組4人だけになる。

自己満足にしたくないが…

子どもの日の5日

仙台の洋服店がボランティアで衣類の提供を行っていて、被災者の列ができていた。1人10着まで選んでいいという。

あるご夫婦の治療をしていると、ご主人は2着しかもらわなかったことを奥さんが嘆いていた。ご夫婦は2人とも腰が痛い。奥さんは以前、鍼が痛かったらしく、最初拒否されたが、刺さない鍼もあり、まったく痛くないことを告げて、治療してみると、腰痛が改善され、喜ばれたと「チームさとう」のY君が報告してくれた。

午後に帰阪するY君が東北のラーメンが食べたいという。ちょうど、市民会館から降りてきたところに、「ラーメン屋」を見つけた。入ってみると、ここのラーメンは以前、新聞で取り上げられた記事が貼ってあった。



あっさりラーメンを4人分注文した。

座敷では、外国人らしき女性数人も混じった会社員たちが代表らしき人の話に厳しい表情で耳を傾けていた。「8月までには何とか再開したい。2階は使えるし、解雇せず、がんばっていきたい。」などと深刻な話だった。

民宿から持ってきたおにぎりとラーメンの相性がいい。

「店は、津波でカウンターまで浸かった。義捐金はもらっていないし、ボランティアもなしで自分たちだけで、きれいにして、幸い、冷蔵庫はやられていなかったので、なんとか4月29日に再開することができた…」。
息子さんは、なんと当院がある大阪の八尾市で働いているという。ここでのラーメンを3日間、昼食で食べさせてもらってが、全く飽きることがなかった。

2人を気仙沼駅に送ってから、残った2人で治療を再開。

「観楽楼」の帰り道、災プロへのツィッターにメールを送るK君に、ただ人数だけでなく、エピソードも入れたら」といった。

実は、治療中の女性に「あんた上手だね。ここで治療院やってくれないか?」「娘が東京にいるけど、嫁さんに紹介するよ。」と2~3人に声をかけられていた。

ほかにも、「ここで鍼灸院開業してくれないか?」と声をかけてくれた人もいた。

ツィッターに「全国の鍼灸師に、気仙沼へ来ないかと、紹介するような記事を送ってもいいやろ?」というやりとりをしていたのだ。
実際、ひどい五十肩の人や坐骨神経痛の人など、ずっと続けて診療を期待している人からの声だから、まんざら冗談でもないと思ったからだ。

「温泉に入りたいな!」と思っていたら、別のルートに鉱泉「たまご湯」を発見。山の中を通っていき、少し遠回りだが、信号もすくなく、こっちのルートの方が早い。
3日間、この温泉で疲れを取ることができた。

翌7日から8日の昼までは、市民会館(避難者282人)での治療に入った。



市民会館では「肩こり、腰痛、ひざ痛、神経痛、不眠症、頭痛…、その他なんでもご相談下さい」「マッサージ・“刺さない”はり 6~8日、A10~P4 談話室にて」とA4の紙に書いて、各避難所をまわり、予約をとった。
30分ごとに2人づつの予約はたちまち埋まってしまった。
結局、そのまま、3日間予約する人もあり、昼食タイムも30分もとれないほどフル回転の治療だった。
6日は19人。7日は18人。最終日は8人。

ただ、ここではリピートが多かった。「チームさとう」のK君が感想文に書いていた。

「最初に来た患者さんが次々と予約を入れてしまうので、より多くの被災者の方を診ることができなかったのが悔やまれる。これでよかったのか悪かったのか、答えを出せない。長期に続けば、少しの事が大きな力となっていく。この有意義な活動が絶え間なく続いてほしいし、ますます人出が必要になってくる現場だ。一度、乗りかけた船、このまま縮小しては結局、自己満足になってしまう。何か方法はないか」と自問自答していた。

「最後の治療、患者さんに別れを告げた時、“どうか、お元気で”と言われた一言が頭から離れない」とK君は、複雑な気持ちを吐露していた。

話を聞くことも治療

小中学校と市民会館の3ヶ所で「チームさとう」が治療した被災者の方は6日間で、のべ131人だった。
男女別はほぼ半分づつ、子どもから高齢者まで、マッサージのみが58人、鍼とマッサージが73人だった。

このなかには看護師・市の職員や派遣職員などの支援者たちも数人含まれていて、K君の言うとおり、被災者・支援者とも、もっと多くの人に治療が必要だと痛感する。

「今日も泥のかき出しをしてきた。腕から肩、全身の筋肉が痛い」と訴える人。
「俺以外の家族はみんな亡くなった」「この部屋の人たちは何もかも流されてしまった人たちなのよ」などと、治療中に語ってくれる人。何も語らず、ただただお礼だけし、押し黙っている人もいる。

治療中に患者さんの携帯電話に、土葬されている弟さんを「いまからとなり町の火葬場へ運ぶから、ブルーシートをもってきくれないか」という連絡が入った人。

「車で逃げようとしたが、渋滞で動かないので、車を捨てて、高台に逃げきたが、そのまま車に残った人たちはどうなったのか…」「津波の恐ろしさを体験した子がお風呂に入れない」など、さまざま極限状態の体験をした人たちばかりだ。

明るくふるまってくれる人が多かったが、身体は正直なもので、ほとんど全員、心身ともに疲弊しているのを感じる。
被災者の多くは、先が見えない避難所生活への不満、不安といら立ち、人間関係など見え隠れする。

すばらしいふるさとだけに、この地から遠く離れられない気持ちが、治療中に何人からも伝わってきた。

しかし、仮設住宅は、気仙沼だけで3,000戸目標にしているが、5月2日にようやく106戸できただけだ。

スタッフには、事前にPTSDへの対応など「心のケア」についての「災プロ」の資料を配り、目を通してもらっていた。
PTSDへの対応は、
・被災体験談を掘り下げない、
・話が出ても、早めに治療を切り上げる、
・日常に意識を向ける(現実に戻す)会話をする、など。

体がなごんでくると、徐々に震災当時のことや家族のこと、先行きのことなど話をしてくれる人も少なくないが、話を受け入れるだけでも、治療につながることを実感した。

「治療の押し売りでもいけない。ざっくりとした施術でもいけない。普段よりシビアで、ナイーブな対応が求められるなか、私たち鍼灸師の姿勢が試されていると思った。」(K君)。

治療は半分近くが鍼ははじめてという人だった。

銀の耳鍼を使ったテープで張るだけの経絡治療に、金鍼50番での刺さない鍼=NPA鍼法を加え、軽くマッサージするだけのやり方に、痛みも、緊張もとれ、「身体が楽になった」「いやー、不思議? マジックだね!」とかいわれながら、喜んでもらえたようだ。自信につながった。

ひどい五十肩の人や、脊柱管狭窄症の人、坐骨神経痛、顔面麻痺の患者さん、胃痛や便秘・下痢など、鍼やマッサージの効果を活かしたいと、現地に入った鍼灸マッサージボランティアたちは願っていると思う。

8日最終日

健康調査の結果を市民会館の談話室で被災者の方に伝えていた。高血圧の人が多い。
「ラーメンの汁を全部飲まずに、せめて半分にして塩分を抑えてくださいね」などと、医師の懇切丁寧な日常生活の指導を聞きながら、隣で治療をしていた。

残念ながら、PCATやDMATなどとの連携は現場ではほとんどできていなかったように思うが、少なくとも、被災者の健康にとって、互いにプラスの方向で活動が活かされたようだ。
これからの新しい活動への礎になりそうな気がする。

PCATの活動は5月1日~8日までの「健康支援調査」が目的だった。
その一端を担うことで気仙沼での鍼灸マッサージの成果を活かせたことで、引き続き、交通費・宿泊費を出して、鍼灸マッサージ師を募集し、鍼灸マッサージボランティアが取り組まれていることがうれしい。

気仙沼市の基本情報

気仙沼市は2月末の人口73,363人、26,417世帯だった(H18唐桑町、H21本吉町がそれぞれ合併)。

5月8日現在、死者数941人、行方不明者数580人、被災世帯9,500世帯、避難所48ヶ所4,400人。

避難者は、8,884人(3/16)→4,423人(5/19)→3,803人(6/1)。
避難所の気仙沼中―650人(3/16)→432人(5/11)→310人(6/1)
       気仙沼小―370人(3/16)→139人(5/11)→109人(6/1)
      市民会館―600人(3/16)→282人(5/11)→171人(6/1)

気仙沼市医師会によれば、南三陸町含めたエリア内に、7つの病院と37の診療所があったが、29か所が津波にのみ込まれ、全壊した。会員71人のうち2人が亡くなった。

7人の医師は気仙沼圏域から離れることを決めたという。もともと、市内の公立病院は慢性的に医師不足を抱えていた。当然、在籍の医師たちにはこれまで以上の過重な環境となる。
津波で病院を再開する土地がなく、被災者の居住場所も分からない。

山は海の恋人



気仙沼は美しい海岸と漁業のまちだ。
カツオ、サンマ、マグロは全国有数の水揚げを誇っていた。フカヒレやカキも特産品で、マンボウ、ワカメ、アワビやウニ、そして気仙沼小でぬいぐるみにもなっていたホヤも有名だ。

藤沢と気仙沼の途中の森林に「森は海の恋人」という大きな看板がある。

カキの養殖業者などが「生物が育つ海を取り戻す」といって毎年、一関の山中に植林を続けてきた。

全壊したカキの養殖業者は、もうあきらめようかと思っていたが、全国の支援者に励まされ、カキの再開をめざすことを決めた人もいる。「震災復興を願い、今年も山に木を植える」といって、三陸の海と漁業の再生を誓う。



香港…金融視察ツアー
2011年3月20日~22日
3月21日夕方、香港での仕事を終え

香港島から九龍へ、妻といっしょに
ぶらりと出かけました。

香港島のホテルから九龍へは、
トラムに乗り、スター・フェリー(写真↓→)
に乗って、九龍へ。



地下鉄「尖沙咀」TsimShaTsui駅から
一つ目の「佐敦」JorDan駅まで行く。

観光客向けの男人街は素通りして、
豊富な魚介類・野菜・果物店や市(↓)が
並び、漢方薬なども売っている南京街、上海街、砲台街など、庶民の台所をぶらり。
魚介類は目の前で料理してくれる…。
帰国後4月1日、香港で泊まった
ホテルのすぐ横のビクトリア公園で
ジャッキー・チェンらが
日本頑張れ!
の支援コンサートをやった。

ビジネスは、その後、
思わぬ人のつながりができ、
鍼灸の交流や介護などの
仕事で夢がふくらむ。





屋久島ツアーと尿管結石?!
     2010年8月21日 (土)


「神秘なる太鼓の苔むす森」

815日~17日の3日間、世界遺産の島、屋久島へ行って来た。

西日本のローカル便を受け持つJACは昨年9月、伊丹から屋久島空港への直行便を就航。

カナダ・ボンバルディア社の高速プロペラ機にはじめて乗る。

日本で2番目に雨の多い屋久島だが、快晴の屋久島空港へドスンと着陸。

やはり、日本中を覆う熱波は変わらないが、都会のヒートアイランドの暑さとは気分も、風も違う。
快晴とはいえ、1900mクラスの山が連なる山の頂上付近は雲で見えたり見えなかったり…。
旅の3日間、快晴に恵まれた。

妻の言う「緩衝材?」である娘と3人で、「苔むす森」をのぞいてきた。
幹の太さが16.4mもある樹齢約7千年の
縄文杉へ行くには、往復10時間を要する。
今回のツアーにはこのコースは含まれていない。

まずは、屋久杉自然館で予備知識を入れる。

次にバスに乗って、カンカン照りの平内海中温泉で足湯につかる。
温泉よりまわりの岩やセメントの方が暑い。

満潮になると、海水で消えてしまうが、ちょうど干潮だった。

1日目の圧巻は、大自然のなかに2筋に分かれた落差100mほどの大川(おおこ)の滝だ。

涼しく、なんとなくマイナスイオンを感じる。

一人で滝つぼの方へ行き、服のまますべってはまってしまった。

みんなが滝を望む場所からは見えない。

はいあがる場所がなく、下流まで泳いでよじ登った。
水がすごく気持ちがよかった。
裸になって服を絞った。もう一度滝つぼの方へ行く。

滝から吹いてくる風はもっと気持ちがよかった。

あとで、地元の人に聞くと、何人か飛び込んだり、落ちたりして、
今年、大学生が一人亡くなったという。

えッ、ほんま?

屋久島では、「島が見えると、次の日は雨」

とおばぁたちがよくいっていたと、ガイドさん。

確かに、水平線の方に、トカラ列島の口之島、中之島、諏訪之瀬島が見えた。

非常に珍しいという。

早目にJRホテル屋久島へ到着。

写真1 

ヌルヌル、スベスベとした温泉につかる。
確かに、美肌効果がありそうだ。



ホテルから東の方を望む            右を望むと夕日が沈む
 

地元の食材を使った夕食はうまかった。

夜、屋久杉自然館の受付で入手した「ウミガメの孵化情報をホテルのフロントで確認。

栗生浜で毎日孵化しているということで、タクシーを手配してもらって見に行った。

大阪で20年間ほど働いて、Uターンしてきたタクシーの運転手に、

「子どもの頃は、ウミガメの卵を食べたりした。いまは自然をいかに守り、将来へ残していきたい」…

.いろいろレクチャーを受けた。

砂の中から、いつの間にか、もそもそと次から次へ子ガメが出てくる。

手にとって見ると実に可愛い。



あとで、みんなで波打ち際へ行き、

20数年後には無事に帰っておいで。」

と波に消えるまで見送った。

生きて帰ってくるのは5000分の1という。

夜空に連なる天の川がはっきりと見えた。

北斗七星―北極星―カシオペア座―白鳥座、そして南の空には、さそり座が横たわっていた。

 ウミガメの旅立ちと澄んだ夜空の星。
水平線には大きく黄色に輝く三日月。
寄せては返す波の音…。

最高のシチュエーションだ。

ホテルの玄関前でタクシーから降りると、妻が突然、股関節に痛みが走って思うように歩けない。
小ガメを放流するときに、砂に足を取られたり、変な格好でいたためらしい。

次の日は、3時間ほどの軽いトレッキングがある。大丈夫か?
温泉につかっても痛みがとれない。

夜中に鍼をした。

娘は勉強道具を枕もとに置き、爆睡していた。

2日目 
 
ホテルの玄関の真正面から見ると…

世界遺産地域に入っている「西部林道」へマイクロバスで向かう。


途中の風景は、どこもすばらしい。


世界遺産の決め手ともいわれる照葉樹林とそこから望む連山の峰(下の写真) を眺める探索コース。

奈良の小鹿ほどしかない屋久鹿や屋久猿が道端に現れる。

白谷雲水峡では、少しトレッキング風に90分ほど「苔と杉と清流の森」に溶け込んだ。

妻はなんとか、山歩きができた。

西部林道へ行くまでに、屋久島(栗生地区?)にある変な戦跡というか、
海岸から数10mほどにある海面から浮き出た小さな島? 岩肌が見える。


昭和20年3月14日、米軍機による爆撃や機銃掃射を受けた。

空から見ると、まるで潜水艦に見えたようで、
海岸の集落を攻撃せず、海に浮かぶ長い岩山に集中攻撃が浴びせられた。

高さ10mあった岩肌が破壊され、今の姿になった。

村人たちは、なぜ村を攻撃せず、海岸から離れた岩山を攻撃するのか、
不思議がっていたようだと、バスガイドさんが語ってくれた。

屋久島周辺の海には、疎開児童を乗せた対馬丸や戦艦大和など幾多の悲劇が眠っている。

零戦の残骸は今でも島のまわりに残されている。

長崎への原爆投下にもかかわりがある。

最初の爆撃予定地であった小倉市に向かう途中、
屋久島上空で計測や記録を担当する2機と待ち合わせする手はずになっていたが、
1機が現れず、原爆搭載機のB29ボックス・カーはここで約45分間、待ち続けた。

「天気良好」の指示でテニアン島を出たはずが、
この待機のためか、小倉市上空へ行ったときは雲で見えず、3回失敗。
燃料不足から、雲の間より見えた第2目標であった長崎に原爆が投下された。

長崎市民24万人のうち約14万9千人が犠牲に、建物は約36%が全焼または全半壊した。
NO More!ナガサキ・ヒロシマ
。核兵器廃絶の願いこめて。

昼食はトビウオの丸揚げを生チューといっしょに食べた後、紀元杉のあるヤクスギランド90分ほど探索。

5時前にホテルに到着。

TVの「熱闘甲子園!」に娘と見入ってしまった。

地元鹿児島代表の鹿児島実業と九州学院の対決だ。

3点差の8回ウラ、鹿実は同点においついた。

9回表に1点入れられてしまった。“奇跡よ、もう一度”もむなしく敗退してしまった。

夕食はやはり地元特産の料理は絶品だ。地酒(焼酎)もおいしい。

11時頃、温泉へ行ったが、誰もいなかったので、ひとしきり泳いだ。


日目の未明、事件が起きた。

左下腹部に突然の激痛が襲ってきた。

救急車を呼ぶと、島の反対側の総合病院へ行くことになるので、
その日の1130分の飛行便に間に合うかどうか不安だった。

とりあえず、持参していた鍼で痛みを抑えた。
2時間近く寝入ったようだ。

4時過ぎ頃、再び激痛が襲って来た。

胆石なら右だが、左の脇腹から腰部にかけて、のたうちまわるような痛みだった。
顔が蒼白になり、脂汗が噴き出る。
あきらかに筋性防御のような反応がある。

腸捻転? 腸閉塞? 腎臓結石か、尿管結石か?

とりあえず、ホテルのフロントに電話をする。
なんとか近くの診療所へ手配してくれるという。

朝5時、ホテルのすぐ下の診療所に看護師さんとしばらくして医師がきてくれた。
座った姿勢で、背中の方を拳で軽くたたく。
鈍い痛みが腰からお腹の方までひびく。
尿管結石の診断だった。
疝痛発作が襲ったのだ。

尿管には3か所に狭窄か所がある。
疝痛は結石が移動したり、狭窄か所に詰まったりしたときにおこり、
流れづらくなった尿が腎臓へ逆流。
腎臓のまわりの被膜にある神経が痛みを出すという。
腎臓に石がある間は痛くない。

激痛に耐えながら、懇切丁寧なドクターの描く解剖図と説明にうなづく。
早く、痛み止め打ってほしいのにと思いながら…。

あとでわかったことだが、腎臓は夜11時頃から明け方3時頃までが
最も活発に働くらしい。
つまり、最も多く尿に変える時間ということか。

その後の3回ほどの疝痛発作も、夜中から早朝にかけて起きた。

痛み止めの注射2本は効かず、500mlの点滴と座薬をした。
9時頃、なんとか痛みが落ち着いてきた。

千尋(せんぴろ)の滝の観光とお土産店の最後のコースはもちろんキャンセル。

妻と娘は、診療所へ来てくれたあと、ホテルの土産物店で買い物。

ふらふらしながらタクシーでなんとか屋久島空港へたどりついた。

診療所で治療している間、
同じように尿管結石で一人の男性が治療を受けにきた。

空港までのタクシーの運転手は、昨晩、胆石で苦しんでいたという。

尿管結石は男性に多く、女性の倍、11人に1人の罹患率になる。

帰宅した翌々日、病院に行き、レントゲンを撮ってもらう。
膀胱まであと1~2センチほどのところに白い影が映っている。
「5.3mm~6mmほどの石ですね。」と
若いドクターは、体に触れようともせず、
パソコンを眺めながら、尿管結石の診断を行い、薬を処方。

19
日の仕事はキャンセルして20日から仕事に復帰した。















































(藤庵 8月21日)




イタリア・フランス、春の風景
イタリア・カプリ島からソレント半島と
ヴェスヴィオ山を望む高台に
菜の花が咲いていた。
(2010年4月6日)
フランスの「美しい村53」のひとつ
ブヴロン・オンノージュ村の民家
の庭に満開の桜が咲いていた。
(同年4月8日)
レンギョウ(連翹・モクセイ科)
花がすごかった。桜に桃、りんご
の花もいっせいに咲いていて、
なんだか東北の田舎と同じだ。
※連翹(モクセイ科):夏から秋にかけて生る果実は古くからの生薬で、強い抗菌作用があり、
可能性疾患の要薬だ。消炎、排膿、解毒、利尿薬として皮膚疾患に使われている。
つまり、にきびや腫れもの、吹き出物、疥癬などに使われる。
 花は、乾燥させたものに熱湯を注いで服用すると、高血圧、利尿の予防によいといわれる。


モン・サン・ミシェル地区に泊まる
イタリア・フランスの旅

 1.はじめての欧州旅行 (1日目)
  
 2.
ナポリ、カプリ島、ポンペイ (2日目) 
   
   ・サンタルチア港の卵城
   ・ヌォーヴォ城とべヴェレッロ港 
   ・高速船でカプリ島へ 
   ・ポンペイ遺跡探索
   ・ドイツが占拠し、連合軍が爆撃した修道院
  
 3.ローマのフリータイム (3日目)
  
  ・ヴァチカン市国、サンピエトロ広場
  ・真実の口、うそつきは手を咬まれる?
  ・コロッセオが滅びるとき、
               ローマが滅ぶ

  ・トレヴィの泉にコインを投げ入れて
  ・スペイン広場のスタイリスト、浮浪者
  ・フリータイム、「ローマの休日」を堪能
  ・失業率は高く、高齢者問題も深刻
  ・歴史教育に広島・長崎、
            ローマ市長来日

  ・イタリアの鍼灸事情

 4.
夜のモン・サン・ミシェル (4日目)
 
   
   ・ローマ空港で救急手当て
   ・最も美しい村の一つ、ブヴロン村
   ・夜のモンサンミシェル

 5.モン・サン・ミシェルを歩く (5日目)
 
  ・朝焼けのホテル「サントベール」周辺
  ・「孤島」にもどすプロジェクト
  ・自由の女神、凱旋門、シャンゼリーぜ大通り
   
 6.ルーブル美術館とヴェルサイユ宮殿                       (6日目)
 
  ・世界を代表する美術館=ルーブル
  ・ノートルダム寺院、昼食は皿一杯のムール貝
  ・ベルサイユへ
  ・フランスの鍼灸事情
  ・フランスの医療・介護事情

 7.アルプスの山々を見ながら、帰国
                            


 はじめての欧州(イタリア・フランス)旅行

新婚7組など12組24人のツアー

大阪では桜が満開になった4月5日、関西国際空港発ローマ経由
ナポリへと飛び立ったのは昼の1時5分、アリタリア航空
AZ793便。


近畿日本ツーリスト(KNT)が企画した
「憧れのモン・サン・ミッシェル地区に泊まる
イタリア・フランス
8日間」

201045日~12日)の旅だった。


旅の途中でわかったことだが、ツアー参加者は

 ハネムーン7組、私らも入れたフルムーン2組、
 石川県金沢市からの母娘、若い看護師2人組、
 外国旅行が趣味の
PTA仲間のおばさんたち、
1224人だった。


パンフには「最小携行人員2人」とあったので、
小人数を期待していた。
他の旅行会社では
4050人のところもあるという。
新婚さんは、関西中心だが、鹿児島、三重からも来ていた。


添乗員は、ヨーロッパは10数回というベテランのSKTさん(女性)が
大阪発から最終大阪着まで同行していただいた。


朝日を浴びたモン・サン・ミシェル



新婚さんたちとのツアーだった
(モン・サン・ミシェル)


6万円の「同席ペアシート」

AZ793便のシートは400人ほどだろうか、ほぼ満席。
2
人で6万円追加の「窓側ペアシート」にしなかったら、
確かに同席は困難な状態だった。

ペアシートは国際線のみ。
ローマ‐ナポリ間、ローマ‐パリ間は対象外だったが、
添乗員の計らいで「同席ペアシート」にしてくれた。

ただ、ナポリへの便ではイタリア人たちがいっぱいで満席。

 ちょうど私らの後ろの席に幼児と母親が座ってしまい、
スチュワーデスが
1組の新婚さんに英語で
「譲ってあげて!」みたいなことを話しかけていた。
新婚さんは理解できなかったらしい。

 私が「この親子に譲ってあげてって言ってるようだ」
と通訳??して、理解してもらった。
たいしたこともしていないのに、スチュワーデスから
「グラッチェ」といわれたのがうれしい。



イタリア上空

シベリア上空からヨーロッパへ

機内の航空経路を見ると、AZ793便は
朝鮮半島から中国、ロシアの上空を飛んで欧州に向かう。
途中、シベリア上空から見える氷の海は北極海だ。
始めてみる風景に
2人とも感動した。

 しばらく、真っ白の世界が続く。

そしてスカンジナビア半島から
バルト三国、中央ヨーロッパを経て、
ローマへ約
12時間のフライト時間になる。

 平面の世界地図では遠回りのようだが、
西からの偏西風という向かい風を避けるということもあるが、
地球儀で見ると最短距離なんだという実感がした。

帰国後直後にアイスランドで大噴火

帰国の2日後414日、アイスランドで火山が大噴火した。

16日までに火山灰が欧州北部を覆う。
その影響で
16日以降、
イギリスからイタリア・フランス、
欧州全域で航空便がほとんど欠航した。

 
19日になって、イタリアの南ルートなど一部再開された。
 
21日にパリ、ローマなどへの定期便が再開されるまで、
欧州に取り残されている日本人は
5,500人ともいわれていた。
1週間近く足止めを食っている。

 航空会社の損益は
1230億円ともいわれ、
経済への影響もはかりしれない。

この火山灰に覆われていたら、
その中を突っ切って飛行することになる。



シベリア上空


ヨーロッパを覆った
アイスランドの火山灰

妻の子宮筋腫を抱えて…

ところで、旅立つ前にひとつ心配事があった。

妻の子宮筋腫がまたまた大きくなったことだ。

昨年、女性ホルモン剤を投与し、
 いったん小さくなっていたが、再び大きくなっていた

10
月頃、漢方薬とプチダイエット(朝・夕食事カット)
などをはじめて、小さくすることに成功していた。

 実は、正月に娘たちと
4人で、
済州島
23日の旅を計画していた。
小さくなったことで、
新羅ホテルでの温水プールで水着を着て
泳ぐことまで出来るようになった。

ところが、1月後半になると、また徐々に大きくなってきた。
同じように、漢方薬とプチダイエットを始めて、
おそらく
4月までには小さくできると思っていた。
そうはならなかった。
仕方なく、ジーパンなどのズボンはやめて、
ロングスカートにすることにした。

 また、長いフライト時間で、圧迫症状が出ると、
エコノミークラス症候群になりやすくなるという心配があった。

結局、下腹部の膨脹と下肢の浮腫や排尿障害などの圧迫症状
は以前と比べると、
それほどでなかったにしろ、
不安と心配を抱えたままだったが、何とか乗り切った。
帰国して、数日たってから、小さくなった。

ヨーロッパへ行けたことが自信になったようだ。



ナポリへ乗り継ぎの間
ウィンドウショッピング
(ローマ国際空港)
地中に面したローマ国際空港

イタリア上空から見る風景は緑が多い。
 そして、地中海が見えてきた。

ローマに着いたのは午後6時20分。
 地中海に面したローマ国際空港はまだ昼のように明るい。
 ローマ国際空港は
フィウミチーノ空港Aeroporto Fiumcino
またはレオナルド・ダ・ビンチ空港
ともいう。

日本は日が変わったばかりの夜中の2時過ぎ。
 いつもはとっくに寝入っている頃だ。
 機内でうたた寝をしているし、
ローマ空港でのごった返す人の波で
興奮が眠気を忘れさせている。

 外気温は6℃くらいで大阪より少し寒いが、空港内は温かい。


地中海に面した国際空港近くの街
イースター(復活祭)暇でごった返す

ナポリ行きAZ1267便に乗り込むまで、2時間半ほどある。
乗り込みゲートがよく変更されるらしく、案の定変っていた。

私の時計が変更すると不都合なこともあって、
妻がローマ空港内の売店で腕時計を購入し、
現地時間に合わせることにした。

時計(
BLACK SUIT)は38EURで、
レートが
129円ほどだったので、4,900円。

 空港内はイタリア人たちでごった返していたのは、
イースター祭休暇に突入したばかりだったためだ。
ちょうど日本の盆と正月みたいな状態で、
観光地はどこもいっぱい。

欧州全域で長い人は
1週間のイースター休暇を取るという。

 復活祭キリスト教典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する。「復活主日」、あるいは英語で「イースター(en:Easter」とも言われる。

 復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。2010の復活祭は西方教会東方教会も同日であり4月4であるが、年によっては東西教会で復活祭を祝う日は異なる事も多い
Wikipediaより)

売店で料水購入、“グラッチェ”

ローマ空港の売店では人ごみの中、順番待ちで並び、
ホテルで飲むナチュラルウォーター(
20E)、
生のトマト
100%ジュース(3.6E)
ビール小瓶
(4.6E)、ワイン(2.7E)を買う。
12.8.EURO(1650)

言葉が通じなくても、商品をレジの前に置いて、
事前に陳列棚の金額を合計しておいた
13Eを出す。
あとは“グラッチェ”といって、おつりをもらえばいい。

ユーロ(EURO)は関空で10万円両替していた。
最終日にローマ空港で軽食に足りなかった
2千円分だけ
追加チェンジしたが、パリでおみやげを着払いにしたのを除くと、
8日間で5Eほどの小銭を残して、ほぼ使い切ってしまった。
極力安上がりに抑え込んだつもりだったが…。



ローマ国際空港

娘の彼氏に選んでもらった服装で…

普段は、どこへ行くのにもジーパン姿で、
決しておしゃれとは言い難い恰好をしている。

今回、娘の彼氏にイタリア・フランス行きのスタイルを
コーディネートしてもらった。

3月の私の誕生日には、わざわざ黒のフェルト帽子まで、
オーダーメイドしてくれた。

彼氏は、服飾デザイナーで、難波でアパレル店を営んでいる。

彼氏は「これはローマで、これはパリで着るといいですよ。」
と専門家らしくコーディネートしてくれた。
おかげで、初めての欧州でも、
気後れすることなく、旅の楽しみを倍にしてくれたようだ。


ナポリのホテル

入浴剤入りのふろ

ナポリ空港へ40分ほど足らずで、2220に到着した。

空港からバスで20分ぐらいの初日のホテルは、
KNTランク=Aグレードのナポリ郊外にあるAmerican Hotel
2330分頃に着いた。
日本時間では
6日の早朝7時半頃になる。

フロントで添乗員が部屋のキーを受け取るまで長い間待つ。
眠く、ボーっとする。疲れが相当出ていた。

部屋は4~5Fに割り当てられた。
人と荷物でエレベーターは
2人しか乗れず、しかものろい。
キーは最後の方でもらったので、
EVを待っていると相当時間が経ってしまう。

とにかく、手荷物だけ持って、
Fまで階段を使って部屋へ行き、
バスタブにお湯を入れるのを最優先した。

 というのも、
「いっせいにお湯を使うと熱いお湯が出なくなる」
という添乗員の説明を聞いていたために、
先にお湯を入れるといけると思ったからだ。
早く寝たかったが、疲れを取るには熱い湯船につかるのが一番。

 妻とトランクだけを残して、階段を
2往復。
座りっぱなしということもあって、いい運動だった。

自宅から持ってきた6日間の入浴剤(6種類のバブ)のうち
1個を入れての入浴タイムはよかった。
妻がどうしても湯船につかりたいというので、
事前に旅行会社に問い合わせ、インターネットでも調べた。

ナポリとモン・サン・ミッシェルのホテルには、
バスタブがある部屋に当たるかどうかわからなかった。
結果的にはすべてバスタブがあった。
4日目のモン・サンでは、可愛いホテルで良かったが、
熱いお湯は出なかった。

とにかく日本人にはおふろが欠かせない。


ナポリの「アメリカン・ホテル」
洗面所と鏡に映るバスタブ


 
 2日目  ナポリ  カプリ島  ポンペイ  (46)

夜明けの小鳥のえずり 

 2
日目の朝、モーニングコールは6時
 すでに目が覚めていた。

 部屋は狭い。ベランダに出てみた。

 夜明け前の薄暗いなか、外は寒い。
朝焼け間近の澄み切った雲ひとつない空。

 薄暗い明け方の空に半月が輝き、
小鳥の声がすがすがしかった。

 快晴になりそうだ。


ナポリの夜明け前
「アメリカン・ホテル」のベランダから

朝食は配給のュッフェスタイル

朝食は、アメリカン・スタイル(ビュッフェ・スタイル)
 これが
6日間続くことになる。

 この日はすでに前日に配られていたが、
以降、すべてレストランで食べることになった。

旅行前、ビュッフェ・スタイルの意味がわからず、
インターネットで見て納得。
 パンにハムやスクランブル・エッグ、チーズ、ジュースなど
簡単なもの。

野菜なしのようなので、
事前にローマ空港の売店で、
ナンみたいなものにトマトやチーズなどが挟んであるものと、
ツナ入り生パック入り野菜を買っていたので、
部屋でいっしょに食べた。

枕銭として、1泊だけなので、1EURO×2、置いて部屋を出た。

 早速、観光バスに乗り込んで、ナポリ港へ出発したのが、
7時。



ホテル
「プルマン・ゴーシュ」(パリ)の朝食

サンタルチア港の城で写真下車

 ローマまで運転してくれるナポリ人の運転手のはからいで、
 ナポリの海岸、港や王宮、お城など、
ナポリ市内を車窓観光に案内してくれた。

 最初に目に現れたのは、地中海に浮かぶカプリ島。

 海外沿いに走る。
いかにも地中海らしい美しい街並みが続く。

 卵城を目の前にした海外沿いの路上で下車、
写真タイムを取ってくれた。
 サンタルチア
Santa Lucia港近くだと思う。

右にカプリ島を見ながら、
ヴェスヴィオ山
(Vesuvio)から昇った朝日が差し込み、
海岸に浮かぶ卵城をバックにパチリ。

 反対側は朝日に輝く美しい街並みで、パチリ。
 新婚さんたちと取ってあげたり、取ってもらったり…。

 目の前の海岸では、魚釣りをしている人たちがいた。

 
右端に卵城が見える


カプリ島


ヴェスヴィオ山から朝日が昇る


ナポリの街

卵城Castel dell'Ovoは、サンタルチア港の小島に突出して作られた要塞。
もともとはローマ帝国にルクルスが建築した豪華な別荘であった。

11世紀にノルマン人オートヴィル家がナポリを支配すると、要塞として機能を拡大する。ノルマン人がこの城を築くにあたって、基礎の中に卵を埋め込み、「卵が割れるとき、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」と呪文をかけたことが城の名前の由来と言われている。

ナポリ市Comune di Napoli)は、イタリア南部・カンパニア州州都で、
ナポリ県県庁所在地。世界三大夜景の街として有名。ナポリ語が話されていて、ナポリ語での名称はナプレ(Napule)となる。英語名はNaples(ネイプルズ)

「ナポリを見てから死ね」と言われるほど風光明媚な土地としても知られる(現在では「ナポリが死なないうちに見ておけ」という皮肉の意も含まれる)

ナポリ市の人口は約100万で、ナポリ都市圏の人口300万だが、古くから過密が社会問題になっている。

輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、この都市が元になっている。その一方で、今日でもカモッラ(マフィアのことか?)による影響が強い都市としても有名である。

1995世界遺産ナポリ歴史地区として登録された。

(ウキペディアより)

車窓から見たナポリ市内

ヌォーヴォとベヴェレッロ港

 バスはナポリ中心街へ向かっている。

 ヌォーヴォ城の真下を通りすぎて行った先は王宮。

ぐるりと回って車窓観光した後、着いたところが
 ベヴェレッロ(BEVERELLO)のふ頭。

 近くに、有料(1.3E)の公衆トイレが見えるあたりで、
高速船に乗るまで待機。
港を前にしてそそり立つのが
ヌォーヴォ城。
 海の方を見ると、海面に朝日が輝き、
その向こうにヴェスヴィオ山が見える。


ナポリ王宮
     
             ヌォーヴォ城

王宮---パラッツォ・レアーレ・ディ・ナポリ(Palazzo Reale di Napoli)は、かつてナポリ王位や両シチリア王位についていたブルボン家の王宮。他に同国の王宮と呼ばれるものは、カゼルタ宮殿とカポディモンテ宮殿(現在はカポディモンテ博物館)、ポルティチ宮殿(現在はナポリ大学農学部校舎)である。

 今日見られるのはスペイン統治時代の17世紀初頭に建築された宮殿で、多くの追加や変化がある。第二次世界大戦で爆撃も受けている。

 現在の王宮と隣接した館は、サン・カルロ劇場、美術館、ナポリ国立図書館、ナポリ地方観光局を含む官公庁の庁舎として使用されている。

ヌオヴォ城Castel Nuovo)は「新しい(Nuovo)城」を意味し、卵城と区別するために命名された。
 別名アンジュー砦とも呼ばれる。

 13世紀にアンジュー家出身のナポリ王カルロ1世が、フランスのアンジェ城をモデルに建築したといわれている。
 アンジュー家支配末期に度重なる戦闘の舞台となり、大きく破損するが、15世紀から18世紀にかけて改築されて、
現在に残る。正面に3つの円筒形の塔を持ち、2つの塔の間に凱旋門が建っている。

 高速船で、カプリ島へ

 8時35分、満席になった高速船が出港。
 
 船尾から、ナポリの全景はすばらしい。

 リオ、シドニーに並ぶ世界3大美港といわれるだけはある。
 特に夜景がすばらしいといわれている。

 カプリ島へは約40分。
 港の外に出ると、立っているのが出来ないほど船の揺れがひどい。

 座席に戻ってしばらくすると、妻がトイレに行くという。
すぐ後ろの座席に座っていた日本人親子の娘さんといっしょに立ち上がった。船員はすかさずナイロン袋を渡してくれた。

 ひどい船酔いとは思わず、トイレが混んでいて、
帰ってくるのが遅くなってるのかなぁとばかり思いこんでいた。

 結局、カプリ島に着くまで帰ってこなかった。これなかった。




海から見た王宮とヌォーヴォ城



妻が船いとは知らず…

 マリーナ・グランデに着岸して、
人ごみの中で妻を探し当てると、
嘔吐物の入ったビニール袋をもっていた。

「何してたん!なんで来てくれへんかったん。
ひどい人や。吐いてるのわからへんの!」。

「えー!そうやったん。ごめん、ごめん。」
と、ただただ平謝り。

しかし、妻の怒りはおさまらない。
謝りながら、集合場所の方へ歩いてゆくと、
アメリカ人らしい婦人がものすごい剣幕でしゃべりかけてきた。
何を言っているのか、さっぱり理解が出来ない。
あとで、わかったことだが、
トイレの方で妻の様態を気遣って面倒見ていてくれたようだ。

“青の洞窟”へは行けるのか?

 集合してみると、3人の女性がひどい船酔いをしていた。

 青の洞窟どころではない、
と思っていたら、
 添乗員が
「波の具合が悪くて、残念ながら、
青の洞窟へは行けません。
 カプリ島観光にします。」
と謝りながら伝え、
混雑する中をマイクロバスへと案内してくれた。

 標高500mほどある島の高台へ行くまで、
対向車ともすれ違うことが出来ないほどの狭い道を
グネグネと進む。
 確かに景色はすばらしいが、
一人の女性が車中で何度ももどすほどバスの揺れもひどい。













グランデ港に浮かぶ
青の洞窟用のボート?

島の高台のBARで茶とカプチーノ

 高台でトイレ休憩後、一行は一人乗りリフトでソラーロ山へ行き、360度の全景を見るという。
組の新婚と私らはやめて、ここで休憩することにした。

 ここが、地名でいえば「カプリ」。
 高台は「ウンベルト1世広場」と呼ぶ。


 テラスのあるBAR(バール)で、妻用に熱い紅茶(4E)を注文した。
 私はカプチーノ(3.5E)にした。

 高台で風邪が吹き通るのか、陽は当るが、寒い。
 私の皮ジャンを妻にかけたり、宵止めのマッサージをしたり、
看病していると、さきほどのアメリカ人夫婦が隣の席に座った。
手ぶり身振り交えて話しかけ、とにかく「Thank You!」とお礼を言った。




ナポリ人イドに案内してもらって

 妻が落ち着いてきたので、一行と同行せず、
待機していたイタリア人のガイドに、
展望のいいところがあるというので、
妻を残して私だけ案内してもらった。

 可愛いおしゃれなお店が並ぶすてきな小道を通り抜けると、
眼下に港が見える。

 海の向こうにヴェスヴィオ山、そこから半島がのびているのが
ソレント半島。「帰れ、ソレント」で有名だというが…。
半島の南側にはイタリア有数のリゾート地で有名な

アマルフィ
(Amalfi)がある。

 菜の花ごしに見る風景は実に見事だ。

 写真を撮りながら、急いで駆け足でもどると、全員集合していた。バスを待って、港へ下山。

カプリ島 (Isola di Capri) は、ナポリの南約30kmに位置する。風光明媚であり、ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごしたことでも知られる。レモンが特産物で、別名「レモン島」とも言われ、リモンチェッロなどのレモン酒やレモンチョコレートなどの土産品が販売されている。

面積は10.36(八尾市は18.99)、外周は約17㎞。ソラーロ山(Monte Solaro, 589m)が最高峰。

島には二つのコムーネ(都市)、カプリアナカプリがあり、島の北側のマリーナ・グランデ(Marina Grande)には、ナポリやソレントなどからの観光船が発着する島で唯一の商港。マリーナ・グランデ高台にある島の中心地カプリは、フニコラーレ(Funicolare)と呼ばれるケーブルカーが所要5分弱で結んでいる。ケーブルカーが到着する広場からは、プラダグッチブルガリなどの高級店が軒を連ねるほか、ホテルやレストランが点在。

高台を中心として、島内随所には各界著名人などの別荘がある。

カプリ島の周囲はかなりの部分が断崖絶壁に囲まれており、波打ち際には半ば水中に埋もれている海蝕洞の「青の洞窟(Grotta Azzurra)がある。

アンデルセンの出世作となった恋愛小説『即興詩人』では、この洞窟が重要な舞台となっている。鴎外の翻訳では、「琅?洞」(ろうかんどう、琅?翡翠のこと)と訳された。

 





高台から望むカプリ港






 帰りの高速船から見るェスヴィオ山

 帰りの高速船が心配だ。

 添乗員のSKTさんが妻たちのために
酔い止めのガムを買ってくれた。

 しばらくして乗船すると、来た時より、ひと回り大きい船だった。
 外の2階席に座って、ナポリへ向かったが、揺れはましだった。

 遠くの山にまだ雪をかぶっている山々がある。
 ヴェスヴィオ山が段々近づいてくるにつれ、
ナポリの町に浮かびあがって美しい。

  昼食は、ンゴレビアンコと魚料理

 下船後は、すぐにバスでポンペイへ向かった。

 30分ほどで、ポンペイ遺跡の前のレストランに到着。

 妻はすっかり回復したようだ。

 ボンゴレビアンコと魚料理をパンと
注文したワイン&ビールで美味しく食べることが出来た。

 ギターを持った2人組がよく知っているカンツォーネ2曲を
歌ってくれたのはうれしい。
あとで帽子を持って回ってきたので、5Eを入れて、
グラッチェと拍手で送ってあげた。

イタリアでは、食後にエスプレッソを飲む人が多いという。
 イメージとして、カプチーノかな、と思っていた。
習慣に従ってエスプレッソにした。

どす黒い超濃いコーヒーがおちょこぐらいのグラスに少し入っていて苦さは特別だが、口の中をすっきりさせるのに適しているようだ。





帰りの高速船から見る








 ポンペイ遺跡探索


 レストランから歩いて、世界遺産のポンペイ遺跡へ行く。

 料金所のゲートから見える遺跡の跡(城壁)や遺跡入口までの木立が晴れ渡った空にすがすがしい。
松の木はきれいに枝打ちされ、
一番上だけ残して傘のようにしている。

 4月の天候はちょうどいいが、夏はさぞ暑苦しいのではないか。
 見栄えもいいが、
松の木の大きな日傘は暑さを遮るための知恵ではないか。

ポンペイ:町の起源はローマと同じくらい古く、紀元前8世紀頃、イタリアの先住民の一種族オスクにより建設された。その後、ギリシャの都市国家クーマ、エトルスキ、サムニウムに次々と支配され、悲劇の起こった起源79年のヴェスヴィオの大噴火の時にはローマ帝国に支配されていた。

 大通りは、石畳の車道と歩道、車道の石畳には戦車や荷車のわだち、通りの脇にある水飲み場、鉛の水道管、パン屋の石臼や竈、公衆浴場、住宅の中庭や壁画、床のモザイクタイル、2千年前の当時の生活が、そのまま残っている。

 現代とわらぬ生活様式

 最初に入っていったのは、スタビア門手前にある剣闘士の宿舎

 続いて、
スタビアーナ通りからオデオン(小劇場)を経てウロウロ。

 どこをどう回ったのか、
火山灰で生まれたまま化石化した人間の展示場を見たり、
運動場やサウナなどがあった
公衆浴場

住宅の中庭や台所・寝室、
パン屋やピザ店、商店街、売春宿などを見て回った。

 鉛管をはりめぐらした水道設備や噴水設備もあり、
現代とさほど変わらぬ高度な生活を築いていたのには、びっくり。

ポンペイの宗教や政治、経済活動の中心となっていたのが
フォロ
と呼ばれる公共広場
その広場の周りには役所、会議室、商業・経済に関係ある
大きな建物が並んでいる。

 正面にはジュピター神殿と凱旋門、ヴェスヴィオ火山が見渡せる。

フォロに隣接して、毛織物・布地の売買をしていたという
エウマキアの建物
や、
もっとも古い建物で裁判所になっていた
バジリカなどを見て回った。

  スタビアーナ浴場の屋外運動場

:ポンペイで最も古い浴場。

 右側の柱廊にそって、男子用、女子用浴室が並び、運動場にはプールがある。
 各種スポーツと水浴を交互にできるようになっている。


 浴室の壁は2重になっており、中を熱風が通って温めるようになっている。

 天井は溝が彫ってあり、水滴が落ちない工夫もされている。








火山灰に埋もれたレリーフ

 ヴェスヴィオ山の大噴火によって大量の有毒ガスが多くの人の命を奪った。その直後に膨大な量の火山灰が降り注いで、建物や人々を覆った。その当時、まちの人口は1万人弱。

 何年も埋もれたまま年月が経ち人間や動物の肉体が腐食し微生物による分解でなくなる。その結果、火山灰の中が空洞となった。

考古学者たちはそこへ石膏を流し込み、石膏が固まった後、火山灰を取り除くと人や動物のレリーフができあがる。

この方法で、顔の表情や容姿、衣服から装飾品までがレリーフで再現された。




高速道路でローマへ向かう

 260年前(1748)、偶然に発見されて以来、発掘作業が続けられ、全容がわかるまで長い年月がかかっている。
現在、その発掘は
8割ほどだという。

 ポンペイの街から、ヴェスヴィオ火山や遠くに冠雪した山も見え、1時間半は歩き回っても、小鳥のさえずりや晴れ渡ったすがすがしい空気の中で疲れは残らなかった。

 門の前にある土産物店でトイレ休憩したあと、カプリ島を案内してくれたナポリ人のアレキサンドリア?さんと握手を交わして、
 Grazie
Arrivederci!(さよなら)をいい、見送った。


 4
時頃、バスで260Km離れたローマへと向かう。

 ▲ 山の上の修道院

 高速道路は、イースター祭休暇でローマ方面が渋滞。
一行はほとんが爆睡。
その中で、添乗員は
ときどき窓の外に見える風景などに関連した説明をしてくれている。

途中、遠くの小高い山の上に見える建物が歴史的な修道院
モンテ・カッシーノであると教えてくれた。
2次大戦でドイツ軍に占領されているとして、
連合軍が空爆を行って破壊された。
修道院には、キケロやセネカの貴重な写本、
ミケランジェロの作品などの芸術品が残されていて、
それを空爆の前にドイツ軍がヴァチカンへ移送していたために、
消失の難を免れたという。




















モンテ・カッシーノMonte Cassino)はイタリアローマの南東130キロに位置する標高519mの岩山。史上、ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会修道院を築いたこと(529年)で有名。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された。

第二次世界大戦末期にはドイツ軍防衛線であるグスタフ・ラインの重要拠点となったことから、1944年2月15日モンテ・カッシーノの戦い19441-5月)の中でおこなわれた連合軍の空爆によって修道院一帯が完全に破壊された。実際にはドイツ軍は修道院を占領しておらず、この破壊行為は、「連合国の愚行」としてドイツ側の宣伝に利用された。廃墟となった修道院をドイツ軍部隊が要塞化したため、連合軍はこの廃墟を占領するために多大な損害をこうむった(この戦いには日系人で編成されたアメリカ軍の第100歩兵大隊が投入され、多大な犠牲を払いながらも激闘を繰り返し、賞賛を受けた。)。

アメリカ陸軍航空隊の攻撃の前に、ドイツ軍ユリウス・シュレーゲル中佐は修道院にあったキケロセネカの原稿・写本など約1,200冊の書籍と、その他ラファエロレオナルド・ダ・ヴィンチの名画を含む美術工芸品をバチカンへ移送するよう命じた。

移送後、修道院には病気で動けない数人とそれを看護するまだ健康な修道女達が残っていた。
 ドイツ軍将校達は、動ける修道女達に避難するよう説得を試みたが、修道女達は病人たちが移送されない限り、ベッドのそばから離れることはできないと拒否した。511日夜にドイツ軍は病人らを残し、修道院北方へ退却を開始した。

そのなかで、スターリングラード攻防戦の数少ない生き残りで36歳になるシュツットガルト出身のベテラン兵ユルゲン・シュミット伍長が病気の修道士・修道女たちを見殺しにできないと命令を拒否。ドイツ軍将校はシュミット伍長にいかなる機器装備も人的援助も与えないが、彼自身の責任において単独で行動することを許可した。

シュミットは近所の農家からぼろぼろの木製の荷馬車と馬を借り、修道院に向かう彼についてきた兵たちで救出チームを組織し修道女を説得して、モンテ・カッシーノの北側から下山、脱出させた。

 戦後、修道院全体が国家の援助によって17世紀の様式に復元された。

  ドライブインでお土産

 モンテ・カッシーノ修道院が見えるところで、
トイレ休憩を兼ねたお土産店へ寄った。

 日本人のスタッフからお土産についての説明があり、
ここで娘用にカメオ
(230Eかな)、レモン酒(4.5E)
イタリアで大人気の
VENEX SPRAY14Eかな?)、
オリーブで作った
Natural Hnd & Body Cream(8E)を購入。

 この
Creamは、旅行中にできた指のささくれや荒れた唇にすぐ塗りこんだが、効果があった。VENEXは、肩こりや頭痛などに塗ってみるとスーッとし、確かに効く気がした。

 カメオはこの店が今まで見たうちで一番安かった。
それでも
3万円弱。


  渋滞で遅れた夜中の夕食

 予定では、ローマ近郊のレストランには当初8時過ぎに着く予定だったが、ひどい渋滞で22時をまわっていた。
遅い夕食は、アマトリチャーナ
(トマトソースのペンネ)
ローマ名物のサルティンボッカ
(肉料理)だ。
スパゲッティはおいしかった。ワインとビールを注文。
デザートは甘ったるいジェラード。残す人が多かったようだ。

気温は下がり、とても寒かった。
小学生ぐらいから高校生ほどの子どもたち数人が
走り回って、はしゃいでいた。
イタリア人は家族・親せきの絆が固いというが、
どうやら、親戚・家族一同で誰かの誕生日祝いのようだ。

 ホテルに着いたのは、結局11時過ぎになった。
ローマ市内とローマ空港の中間ぐらいのところにある

ARIS
GARDENAグレード)。ここに2連泊する。













 

ゲーテは『イタリア紀行』の中で、 ポンペイの遺跡について、

 「世界にはこれまでいろいろの災禍が起こったが後世の人々」の関心をこれほどひくものは「あまり類がないだろう。」
 と書いている。

 ゲーテが訪れたのは1787年2月で、遺跡が発見され、発掘が開始されてから40年後のことである。



 ▼201046月に、ナポリ国立博物館の全面的な協力を得て、横浜美術館でポンペイ展が開催。
 250点出品された。



【3日目】
              ローマのフリータイム    (4月7日)       
10
欧州から、世界中から、バチカン参拝
中・高校生ぐらいの集団もバスで
やってきていた。

サン・ピエトロ大聖堂
Basilica di San Pietro in Vaticano

世界中の信者が参拝に訪れるカトリック教会の総本山、世界最大の聖堂。
 旧堂は326年にコンスタンティヌス大帝が聖ペテロの墓の上に建てたもの(五廊式バジリカ)
 16世紀に教皇ユリウスⅡの命により増改築が計画され、ラファエッロ
(1520年没)72歳の老境にあったミケランジェロ(1546年終身の建築家に任命、1564年没)がかかわり、1614年に壮麗なファサード(正面)が構築、着工以来、120年の歳月を経た1626年世界最大のカトリック大聖堂が完成した。旧堂が献堂されてから1300年目にあたる。
 165667年に巨大な柱廊を巡らした聖堂前広場が整備された。

東西186.36m、南北137.5m、クーポラの高さ132.5m、その直径42mの規模をもつこの巨大な聖堂は、ルネサンスおよびバロック彫刻によってほとんど埋め尽くされている。『聖ペテロ像』(カンビオ)、ミケランジェロの初期『ピエタ』、カノーバの『クレメンス8世の墓碑』、ベルニーニの『聖ペテロの司教座』と『ウルバヌス8世の墓碑』などが有名。聖ペテロの墓の真上にベルニーニが建てたブロンズの大天蓋は、世界最大の工芸美術品。クーポラからローマの町が眺められる。

バチカン市国1984年に世界文化遺産として登録。

日本大百科全書学館)」より、編集。


最初の訪問地=ヴァチカン市国

 モーニング・コール615分。
2連泊なので、カメラと貴重品など最小限の手荷物だけ。

7時のロビー集合前に、ホテルの周辺を散歩した。

周辺は広い1戸建ての広い家が多く、緑も多い。
 小鳥の声があちこちから聞こえる。

この日も晴れ渡ってくれたが、外は寒い。
 すでに集合していた一行と地下(「-1
F」、ロビーは「ゼロF」と表現)にあるレストランに行って、
アメリカン・スタイルの朝食をとる。
食後のエスプレッソにはまってしまった。

帽子をかぶって食堂を出ようとした時、黒人のボーイさんが
「メキシカン・スタイル?」といってきた。
「ノン、アメリカン・スタイル。
OK?」と答えておいた。
「オー、ソーリー! ナイス・デー!」とかなんとかいったのかな?

   ローマ法王の謁見式とかち合う

 ローマ市内で混む前に、早めに行きたいということで、
735分に再びロビーに集合してから、出発。
いつもなら
1時間ほどで着くらしいが、
この日は、イースター祭休暇の真っ最中。
しかもバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂
(Basilica di San Pietro)でローマ法王(べネディクト16)の謁見式があるという。
 この時間帯は、ヴァチカン博物館などには入れない

ローマ市内では、中・高校生ぐらいの子どもたちが列をなして、
ヴァチカンに向かう姿があちこちで見られる。
もちろん欧州中からも信徒がやってくるのだろう。

最初の訪問地はヴァチカン市国(CITTA DEL VATICANO)
ヴァチカンに近づくにつれ、渋滞でなかなか前に進まない。
到着が
1時間近く遅れるようだ。

                  10


サンタンジェロ城

サンタンジェロ城の頂上
に立つ大天使ミカエル

  サンピエトロ広場前で迷子?

 ローマ市内の地図を広げてみると、
バスが渋滞でなかなか動かなくなったのは
テヴェレ川
(Fiume Tevere)にかかるカブール(Ponte Cavour)の上で、そこからはサンタンジェロ城(Castle San’t Angelo)が見え、
手前にウンベルト
1世橋
(Ponte Umberto )とおもわれる橋が見える。

 下車地点はヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に向かって
真っすぐに走るコンチリアツィオーネ通り
(V.d.Contiliazione)
 通りは広々として、建造物などはすばらしい。いい眺めだ。

 サンピエトロ広場(Piazza San Pietro)には、
法王の謁見式へぞくぞくと人が集まってきている。

一瞬、妻も、添乗員も見失って、謁見式に臨む人ごみに入り込み、
危なく一行を見失うところだった。少し、あわてて、どきどきし、
不安すらよぎった。広場の真正面でなんとか見つけ出すと、
添乗員の
SKTさんが年配の日本人女性のガイドさんを紹介していた。ほんの少し、写真をとったりしたが、近くのお土産店へ行き、
トイレタイム。あわただしく、ヴァチカンをあとにした。





真実の口……嘘つきは手を咬まれる

 テヴェレ川の南側河岸通りを進んで行って、
途中の橋でぐるっと回り、「真実の口」手前の公園で下車。
途中、大きな橋
(ガリバルディ橋)から川中島の建物や
ローマ時代の橋の跡などが見える。

 公園には泉があり、そこを突っ切って交差点を渡ると
「真実の口」がある
ンタ・マリア・イン・コスメディン

(Chiesa di S.Maria in Cosmedin)
教会がある。

「真実の口」の前で料金を徴収している人がいるが、
案内板には「
THANK YOU MERCI O.50
?」などと書いている。
日本語がない。
オードリー・ヘップバーングレゴリ―・ペックで有名なシーンよろしく、それぞれポーズをとりながら、順番に写真を撮る。

 6世紀に法王ハドリアヌスⅠが、
付近で暮らすギリシア人のために建てたものらしい。
ロマネスク様式の鐘楼が美しい
(ガイドブック)とある。
「嘘つきは手を咬まれる
(食べられる)
という言い伝えがある「真実の口」は
古代の井戸の蓋だったといわれている。

 帽子とサングラスをとって、
静寂な教会の中を見て、出口に向かった。















コロッセオが滅びるとき、ローマは滅ぶ

 『ローマの休日』で有名になり、
観光客が絶えないとういう「真実の口」。
私ら一行が入った時は数人だったが、
見終わってそこから出ていくバスからみると行列をなしていた。

バスは河岸沿いを北上し、マルチェッロ劇場前をぐるっとまわり、
世界遺産のローマ歴史地区=フォロ・ロマーノを横に見ながら、
有名なコロッセオに来た。

                           (フォロ・ロマーノ公共の広場の意)

 バスが停車したところから、
フォロ・ロマーノのチケット売り場近くに藤色に近い花が満開。
添乗員は「
ユダの木」だという。

ユダの木

 キリストを裏切ったユダがこの木で首を吊って自殺したとされるのでこう呼ばれている。正式名はセイヨウハナズオウ。

「コロッセオが滅びるとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅びる」といわれたローマ初の一大娯楽施設だったコロッセオ。
ここでの見学は
45分間。

青い空に、まずどっしりと見えたのが
「コンスタンティヌスの凱旋門」。

 どこも観光客でいっぱい。物売りも多い。
 黄色い風船を上げたり、横断幕を示して宣伝している団体は
グリーン・ピース」だった。
NO OGM
とあるので、「遺伝子組み換え作物」に反対の意味か? 

 コロッセオ
の中に入る時
間はないが、
間近に見るアーチの外観は迫力がある。

       

コロッセオ:紀元72年にウェスパシアヌス帝が手がけ、80年にティトゥス帝が完成させた。高さ57m(48.5mとも)、外周527m、排水施設や地下道などもある4階建の巨大な円形競技場。5万人の観客席があり、5世紀に入ってホノリウス帝によって闘技会が全面禁止されるまで使われていた。地下に猛獣の檻があり、奴隷の中から選ばれた剣闘士(グラディエーター)と猛獣の対決、人間対人間の戦いなどが繰り広げられた。

 1Fはドーリア式、2Fはイオニア式、3Fはコリント式(パンテオンと同じ様式)、4Fはアーチのないコリント式。

     

 トレヴィの泉:古代ローマ時代に建設されたヴィルゴ水道の改修を記念して、1732年に作られた噴水。


トレヴィの泉でコインを投げたが…

 「トレヴィの泉」(Fontana di Trevi)はさすがに有名だ。

どこをどう通ってきたのかわからないが、
道路の両側に車がびっしり駐車している一車線道から、
狭い路地に囲まれたところに「トレヴィの泉」があった。
いろんな国から、いろんな人がいっぱいでごった返していた。

早速、泉に背を向けて、コインを投げ入れる。
ユーロのコインがなかったので、
ポケットにあった
100円玉、10円玉…
とにかく、交互に投げるところをパチリ。

「楽しい旅を」とか言いながら投げ入れたが、
「コインを投げ入れるとローマへの再訪が叶う」
ということやった。

アイスクリームやジェラートの店のトイレを借りたあと、
スペイン広場へ向かう。






世界中から集まる「スペイン広場」

 「スペイン広場」(Piazza di Spagna)への途中、中央郵便局の前に広がるサン・シルヴェストロ広場(Pza.S.Silvestro)だと思うが、ヴァチカンのサンピエトロ広場から案内してくれたガイドさんが終わりとなる。

 スペイン広場は人でいっぱい。この辺は高級ブランドが立ち並ぶ
“ローマ・ショッピング”
街といっていい。

法王の謁見式が終わってから集まってきたのか、
小中学生~高校生くらいの子どもたちがあちこちに座ったり、
はしゃいだり、そして世界中からの観光客などで、どこもいっぱい。

 スペイン広場に限らず、ローマでは遺跡付近では
アイスやジェラートの飲食食は禁止。
叫んだり、寝たりしてもだめ。
罰金は
50E

なのに食べてる!??。

スペイン広場:『ローマの休日』でオードリー演じるアン王女がジェラートをなめながら階段を降りてくるシーンはあまりにも有名。17世紀、広場の右側にスペイン大使館があったことからこの名がついた。階段上にはエジプトオベリスクと教会が立っている。階段を降り切ったところにあるのは、バルカッチャの泉で、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂の建設にかかわったベルニーニの父ピエトロの作品だという。バルカッチャとは沈みかけた船の意。

共和国広場 (Piazza della Repubblica)ディオクレティアヌス浴場の前、ローマ・テルミニ駅のそばにある。16世紀末まで「エゼドラ広場」と呼ばれていた。広場にはローマ皇帝の浴場の翼廊を利用したサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂ミケランジェロが微温浴室を翼廊としたギリシア十字形の広い教会)が面している。

テルミニ駅ターミナルの語源。
「テルミニ」自体の語源はローマ神話の国を守る境界の神“テルミヌス”が由来という説と、古代ローマ帝王ディオクレティアヌスの“テルメ(公共浴場)”がこの近くにあって名づけられたという説がある。


浮浪者とスタイリストたち

広場の横の大通を一人のおじいさんが
両手にいろんなものを詰めたビニール袋をさげてウロウロしていた。服装からみてあきらかにホームレス風だった。

 すれちがうように、まるでモデルのような美しいスタイリストの
女性が、赤と黒をうまく使いこなしたファッションで、
さっそうと歩いていく。

 道路わきの建物は1階がお店で、
2階以上がアパートになっているようだ。
見上げると、
ベランダの花に水をやったり、
手入れをしているのが見えた。
 妻が「あんな風にベランダに花を飾った暮らしをしてみたい」
というのも、うなづける。

 昼食の前に、国鉄テルミニ駅に近い共和国広場の一角にある
「ローマ三越」へ案内された。
 ここは、午後のフリータイムが終わって、ホテルへ帰るときにバスで送ってもらうための集合場所
(午後840)になった。
1組だけ、自力でホテルへ帰るという。
国鉄とタクシーを使ったらしい。

 国鉄テルミニ駅は、
イタリアの各都市や欧州各地からの玄関口になっている。


昼食は、本場ピザ。でかい!

昼食は、テルミニ駅に近い「RISTRANTE-PIZZA」で本場のピザ。う~ん、でかい。
特製のタバスコ風の香辛料をつけて、ワインと一緒に食べたが、
半分ほど残した女性が多かった。

晴れ上がったローマ市内をうろついていたので、のどがひどく渇いていた。妻にビールを頼んでもらい、ワインとビールでのどを潤す。

イタリアでは水道水は飲めるが、硬水のため、日本人にはあわず、コップ一杯でもおなかをこわす人がいるという。
毎日、
200~500mlのナチュラル・ウォーターは欠かせない。




トライアーノの市場:Cに建造された穀物配給所。のちに食料や衣類などを扱う市場となる。

   
フリータイムは“無料で楽しめるアート”

 午後の自由行動は、
「無料で楽しめるローマのアート」巡りを
地図片手に行くことにした。

もともと、旅のプランにはオプションで、
ヴァチカン博物館観光とカンツォーネディナーがあった。
 観光代金はヴァチカンは
115,000円。ディナーは5,000円。

 これらは申し込んでいない。

ヴァチカン博物館は現地の入場料が14E(2,000円足らず?)だが、ガイドさんはいない。
確かに、ピオ・クレメンティーノ美術館やラファエロの間、
システィーナ礼拝堂など、イタリア美術の膨大なコレクションを誇る世界屈指の博物館というだけあって、見たいのは山々。

 ほんの少ししかない“ローマの休日”だ。

 歩いて街の雰囲気を肌で感じたかった。


 教会、古代ローマ遺跡…
 どこも街並みは美しい

 レストラン近くのサンタ・マリア・マッジョーレ教会
(S.Maria Maggiore)
があるエスクィリーノ広場Piazza de.Esquilino)から
歩き始めた。
 周りの木立はまだ若葉、陽の光が強く、まぶしい。


 「見るなら、ヴェネツィア広場がいいよ」
と添乗員が推薦してくれた。
 マッジョーレ教会からパニスペルナ通り
(Via Panisperna)を直線で
1kmほど進むと、共和国広場から走るナッツィオナーレ通りにぶつかる。
 そこに古代ローマ時代の「トライアーノの市場」などがある。

 途中、パッカー車が路上にある5種類の大きなゴミ箱からゴミを
回収する風景もあり、いろいろな街並みを見ながら歩くのは楽しい。


               失業率も高い、老人問題も深刻

 道端でアル中らしきおばさんがアパートの壁にもたれかかりながら物乞いをしていた。

スペイン広場でもホームレス風高齢者をみかけたが、欧州のユーロ圏でギリシアやスペインと同じように、国の財政赤字が深刻で、失業率も高い。
 イタリアでは家族の絆が強いとよく聞くが、日本と並んで少子高齢化が際立っているイタリア(
2010年、65歳以上が人口の19.5%)でも、一人暮らしが増えている。

 
10年前の統計だが、要介護で自立できない高齢者は10世帯に1世帯の割で、これ以外に家庭外にも要介護の高齢者がいる家庭も同じ数ほどあるという。
 築
40年を越す家屋が多く、エレベーターのない上階に住む高齢者も少なくない。

 家庭内事故でケガや命を落とす人も多い。
 高齢者を被害者とする犯罪も手を品を変え、多発している。

 日本と同じような社会問題を抱えている。



   ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ記念堂





古代ローマの遺跡発掘調査中

イタリア統一の立役者と記念堂、遺跡  

 「ヴェネツィア広場」
(Piazza Venezia)に着いた。

最初に目に入ったのがヴィットリオ・エマヌエーレⅡ記念堂だ。先に進むと、古代ローマの遺跡があり、発掘調査をしているようだ。

 通称ヴィットリアーノの後方には教会、カピトリーノ美術館、市庁舎があり、そして元老院や神殿などの遺跡があり、フォロ・ロマーノへと続くが、そちらの方にはいかない。

 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
 Monumento Nazionale a Vittorio Emanuele II

 1870年のイタリア統一の立役者、初代国王の偉業を称えて建てられた記念堂。1895年着工、1911年完成。
 通称、ヴィットリアーノ。

前面は、国家に尽くした戦士に捧げられた祭壇になっている。内部は無料で解放されているが、有料の展覧会なども行われている。国立リソルジメント博物館もある。

目立つ威容のせいか、地元のローマ市民には「ウエディングケーキ」、「タイプライター」「入れ歯などと呼ばれていて、あまり評判がよくない。近年、屋上に登るエレベーターが設置され、20076月からは有料で登ることができる。屋上からはローマの市街地を一望でき新たな名所となっている。

ベニート・ムッソリーニは、ヴェネツィア宮殿に執務室を置きこの広場に面したバルコニーから演説を行った。




 ヴェネチア宮殿







  美しさと静寂のヴェネツィア宮

 ヴェネツィア広場の横には、「ヴェネツィア宮」(Palazzo di Venezia)がある。
 4~5mもある門が開いていた。誰もいない。宮殿に関係する展示の案内はあったが入らず、美しさと静けさの中で、しばし休憩。
 天井も高いし、何よりも静寂が気持よかった。

 次に向かったのは、「無料で楽しめるローマのアート」、ミケランジェロの作品だ。

 途中、建造物の中庭に入ってみると、駐車場になっていたが、建物は改修中のようだ。そこに、泉があり、見ると金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。金魚は何と言っても日本的。古代ローマの泉ときれいな水の中を泳ぐ金魚とのコラボレーションは、不思議な気持ちだが、心が落ち着く。

 狭い路地にも、いろんなお店がある。ゲバラのTシャツも売っていた。
 イタリアは中小の商店が多いというが実感する。



 
 ミケランジェロ
Michelangelo  Buonarroti 14751564
 
イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。
 レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ
36日)イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没218日)
 フィレンツェサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。
 芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。
(
日本大百科全書
)


ミケランジェロの彫刻やベルニーニも

路地を歩いてゆくと、目当ての教会があった。
 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
(Chiesa di S.Maria Sopra Minerva)だ。
 帽子もサングラスもとって、中に入ると、それほど人も多くなく、ゆったりとした広さと静けさ、天井の様式や絵、壁画に圧倒された。

 ヴァチカンの美術館もいいと思うけど、ここもいい。

 正面の祭壇の横にある彫刻の掲げた手が、天井から差し込んだ陽に照らし出されている。

   

 反対側に、ミケランジェロの彫刻『復活のキリスト』があった。

 また、どれがベルニーニの彫刻かわからないが、どれも芸術作品はすばらしい。

 ガイドの案内もないが、ゆっくりと自由に観賞したあと、教会を出た。

 小さな広場にはオベリスクを乗せた大理石の象の彫り物があった。
 あとで調べてわかったが、これがベルニーニの手によるものだった。


ベルニーニ作の像のオベリスク
向こうに見れるのがパンテオン神殿



パンテオン神殿の裏の石垣



パンテオン神殿前の広場で演奏



 パンテオン神殿とボサノバ

 オベリスク(古代エジプトの記念石柱)越しに、パンテオン神殿(Pantheon)が見える。

 神殿の裏手まで塀に囲まれ、そこに座ることができる。
 そこで携帯をしていたおじさんがパンの入った袋を塀の上に置いていた。それを狙って、鳩がじわじわとすり寄ってきて、ついにパンをゲット。

 正面に向かうと、すごい人だ。

パンテオンとは、“すべての神々”という意味らしい
 B.C.25
年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近によって創建。その後火災に遭い、120年頃再建されたとガイドブックに書いてある。

 床か
らドームの頂上までの高さと直径
は同じ43.2m
 ドームの中心にある直径
9mの採光用のオルクス()から、差し込む陽の光は、正午になるとパンテオンの正面に来るように造られているという。

 外に出てみると、神殿の前のロトンダ広場でストリートミュージシャンたちがボサノバを演奏していた。

 その前にあるカフェはBARとちがって、値段が高い。

この界隈はローマっ子お気に入りの夜のスポットらしい洗練された店や地元のグルメたちに人気のレストランが点在しているという。

 「無料のアート」はまだ続く。


『聖マタイと天使 (San Matteo e angelo)、1602 イタリアバロック絵画の巨匠カラヴァッジョの代表作であり、コンタレッリ礼拝堂聖マタイ連作画のひとつ『聖マタイと天使』。本作は中央祭壇画として描かれたもので、主題は聖マタイが出現した天使にスコラ哲学を教授される場面を描いた聖マタイと天使で、出現した天使を目撃し驚愕する、写実的に描かれた聖マタイの表情と渦を巻くような天使の衣服の表現が暗中に浮かび上がり、深い精神性と聖性をみせている。また本作は当初、納品する予定であった第1ヴァージョンが、聖マタイの組まれた足が見る者の頭上に乗せられているようだと注文主から受け取りを拒否された為に再度、同主題を描いた第2ヴァージョンとなる(第1ヴァージョンは第二次世界大戦の戦火で焼失)。
       
alvastyle.comより。

 カラバッジョの絵

 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(Chiesa di San Luigi dei Francesi)には、カラバッジョの絵がある。
 ミネルヴァ教会よりひと回りこじんまりとしていて小さいが、天井も柱の大理石の模様も神秘的で美しい。

カラバッジョ(aravaggio1573-1610)

 徹底した写実性と劇的な明暗対比や感情表現で、後にあらゆるバロック期の画家に多大な影響を与えたと言われるイタリアバロック絵画最大の巨匠(本名はミケランジェロ・メリージ Michelangelo Merisi)。
 しかし、その強烈すぎた表現は品位に欠けるとして非難を浴びることも多々あった。

 また画家として名声を得ていたカラヴァッジョは1606年、35歳の時に喧嘩で一人の男と決闘、相手を刺し殺しローマから逃亡。
 殺人犯として追われる身となったが、逃亡先のマルタ共和国で
洗礼者聖ヨハネの斬首』を描き、これが認められ教皇より罷免される。
 しかし、一年も経たずして再度些細なことで決闘し投獄される。一度は脱走を試みるも、数日後に逮捕、同作品の目前で斬首刑を宣告される。享年38歳。











ナヴォーナ広場(上と下)



 ナヴォーナ広場でカフェ、大道芸

 教会を出ると、目当てのナヴォーナ広場まではすぐ近く。
 ヴェネツィア広場から、
1㎞以上はある。
 カフェが並び、似顔絵や絵画の販売、大道芸人などで盛り上がる広場だ。

 中央には、ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタを表現した「4大河の噴水」がある。ベルニーニによるもの。
 あいにく、工事中で囲いをしてある。その近くで、パンフィーリ宮が見えるカフェで、妻が野菜サラダとジュース、私がビールを注文した。食べきれないほどのピーナッツが山ほど出てきた。
 しばらく休んでから、広場に出てみると、大道芸をやっていた。

 小道具箱がひとつ。
 後ろを通り過ぎる通行人に、女性なら夫気分で、貴婦人風なら犬の恰好で、いっしょに付いていくパフォーマンスが実におもしろい。
 もちろん、箱から小道具を出しては、見ている人を誘いながら、面白いパフォーマンスをする。言葉がわからなくても、仕草が見物人をとらえて、笑いをとる。
 芸の最中に私の方をめがけて人形を投げてきた。それを受け取って投げ返すと、日本人の真似をしてお辞儀をしてくれたり…。
 
30分ほどだろうか、腹の底から笑わせてもらった。
 来てよかった。ついつい、
10Eを帽子にいれてしまった。



夕日に映えるスペイン広場











ローマ三越


アリス ガーデン ホテル
ホテル ARIS GARDEN

  地下鉄はどこだ??

 夕食はいろいろ食べたいところがあったが、観光バスとの待ち合わせ場所に近い方がいいと思い、テルミニ駅の近くにすることにした。

 添乗員の紹介で日本人女性がオーナーの
 「
リストランテ トゥディーニ ガブリエーレ&トモコ」
 (RISTORANTE TUDINI GABRIELE & TOMOKO
)だ。

 歩き疲れて、地下鉄を使う。初めてだ。
 地下鉄はA線とB線があり、A線の「スペイン広場」から、3つ目の「テルミニ駅」まで行く。
 テヴェレ川沿いに歩き、ブランド店の多いコンドッティ通りをスペイン広場に向かう。
 真昼のスペイン広場と違い、夕陽を浴びた階段上のオベリスクと教会が輝いている。

  駅の場所も、チケット購入も、ウロウロ

 近くにあるはずだが、駅の目印の「M」を探す。マクドナルドと間違わないようにといっていたので、最初に見た「M」を駅ではなく、マックと思い違いしてしまったが、そこが駅の「方向」だ。地下鉄ということなので、近くのEVに乗ってしまったら、上へ行っているのか下へいってるのかわからない。アメリカ人風のおじさんもキョロキョロ、不安そうにしていた。乗ったところが下で、しかも駅ではなく、ボルゲーゼ美術館などがあり、城壁に囲まれたかなり広い「ピンチアーノ」という小高い丘に行ってしまった。そこからはローマ市内が見渡せる。

 妻にさんざん文句言われながら、あせる気持ちを抑えて、もう一度EVで下に行き、駅に向かう。あった。自動券売機が。しかし、使い方がもう一つ不安だ。ちょうど、切符を買いに来た中年のカップルに手振り身振りで尋ね、1回券1E2枚入れてチケットを買うことが出来た。

 電車に乗るのは、簡単。テルミニ駅方面と書いてある方に行けばいい。電車は満員だった。

  迷った待ち合わせ場所は「ローマ三越

 スパゲッティはおいしかった。その後、バスの待ち合わせ場所の「ローマ三越」へ行くのに少し迷ってしまい、あせったが、何とか時間ギリギリに間に合った。妻と少し気まずい関係になったので、共和国広場を取り巻く美しい夜景どころではなかった。バスは850分に来た。

 ホテルに着いたのは夜10時前だった。明日は早い。
 モーニング・コール545分。出発は650分。それまでに、例の朝食をすませる。

パリへ行くために、ローマ・フィウミチーノ空港へ行く。


   原爆投下の広島へ、ローマ市長ら訪問

 ところで、帰国後、ローマ市長が「平和教育」のために来日し、広島を訪れた、という新聞の記事を読んで、感銘した。

 記事を紹介すると、

「ローマ市のアレマンノ市長が同市内の高校生10人とともに11日から来日し、広島市の平和記念公園を訪れる。ローマ市は原爆の悲劇を学ぶ時間を公立学校の教育カリキュラムに組み込むなど、平和学習に積極的に取り組んでいる。(中略)

 ローマ市は2003年、ファシズムといった自国の歴史だけでなく、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺など20世紀に起きた悲劇や戦争体験を学校で学ばせるプロジェクト「追憶の学習」をスタート。
 これまでも…アウシュビッツ強制収容所跡に生徒や児童を派遣してきた。

 欧州での出来事に偏りがちだった歴史教育に、新たに広島、長崎への原爆投下を加え…、昨年10月から市内の5高校、13小学校でローマ在住の被爆者から体験談を聞くなど原爆学習が本格的に始まった。…」(「朝日」201049日付)

 ローマ市長は米国とロシアが新たな核軍縮条約に署名したことにふれ、「いまはまさにターニングポイントにある」と朝日インタビューラーに答えたという。

 そして、52日からNPT(核拡散防止条約)再検討会議がニューヨークで行われる。
 これに先立って、ニューヨーク・リバーサイド教会で国際平和会議が開催され、パン・ギムン国連事務総長が「最も重要なことは権力者のメッセージではなく、民衆の側からの運動」だと閉会総会で述べた。まさに、核兵器ゼロへ向けた世界的な運動へ発展しつつある。

 ちなみに、イタリアは軍事費を昨年に続き1割減らし、フランスも年間15%減らすことを決めた。欧州各国では軍事費とともに兵員も削減する。日本はここに手をつけようとしない。

 ユーロ圏ではいま、ギリシアなど深刻な経済危機にあるが、EUの発足は間違っていないと思う。
 共通の通貨を持つことで貿易が盛んになり、経済の結びつきも強くなる。
 何よりも、2度の世界大戦を経験したことで、2度と戦争はしないという決意でもある。

 日本は日米安保条約は軍事面だけでなく、国民の生活全般に及ぶ経済面でのアメリカの従属的面にまで及ぶ。
 世界でもまれな時代遅れの2国間条約に縛られていては、日本はもとより、アジア全体が平和で豊かな経済発展は望めない。古い安保体制から抜け出し、日米間の真の友好関係へ発展させて、アジアでの共同体構想を真剣に具体化していく時期に来ている。



           イタリアの鍼灸事情

 現在、人口の4%が毎年、鍼灸治療を受けている。欧州の平均受診率は8%。日本は6%である。

 イタリアでは鍼灸が普及し始めたのは、196070年代で、80年代に拡大発展し、90年代に医療として根付いた。
 122ヶ所もの国立慢性疼痛センターで国民健康保険を適応できる療法として鍼治療が行われている。

 鍼治療が行えるのは、法律的には医師のみで、約15,000人の医師が鍼治療に携わっている。

 フランスやスペインなどラテン系の国では、「鍼灸師」とは「鍼灸の訓練を受けた医師」のことで、主要都市に13ヶ所の鍼灸学校がある。早くから鍼灸を取り入れているフランスの鍼灸学校との交流が始まりで、その後中国とイギリスの鍼灸学校との協力関係で発展する。




■イタリアの人口は、約5930万人 面積は、日本の4530万K㎡。

カトリックが97%。平均寿命は男77.0歳、女83.0歳。

国旗は1796年、イタリアを統一したナポレオンがフランスの国旗の青を緑に変えて制定。





【4日目】 ローマからパリ、
    夜のモン・サン・ミッシェルへ
  (4月8日)


      空港で救急手当て

 ローマ空港で搭乗手続きをしている時、空港会社の女性スタッフが大声で叫んでいる。

添乗員のSKTさんが「誰か、お医者さんはいませんか!」と叫ぶ。

一行のなかに、看護師2人が「医者ではないですけど…」と名乗り出た。私も、「医者ではないが、鍼灸師です」。妻も「柔道整復師です。医療関係者です」といって、看護師らといっしょに4人で添乗員の跡に付いて行った。

イタリア人らしきおばあさんの泣きわめく声が聞こえると、そこにおじいさんがあおむけで意識不明で倒れれていて、何人かで手当てをしていた。
 70歳代か?。みぞおちのあたりを押しながら心臓マッサージをしているイタリア人に代わって、看護師とともに、脈を見たりしながら、私が心臓マッサージをした。
 息を吹き返したようだが、のどに何か詰まっているようで呼吸が出来ない。脈が取れないので、続けて心臓マッサージを続けているところへ、ようやく救急車から救急隊員がやってきて、交代した。

搭乗手続きが終わりかけていた。
 みんなのところへ戻りながら、患者を運んだ救急車を見ていると、受け入れ先の病院でも探しているのだろうか、なかなか出発しない。

空港のスタッフに“グラッチェ!”といわれたが、様態を気にしながら、ゲートへと向かった。

8:25分発パリ行きAZ318便に乗る。飛行時間は2時間足らずかな? 

 残念ながら、アルプスは見えなかった。


添乗員の機転で企画変更


 パリ シャルル・ド・ゴール国際空港(CDGPARIS CHARLES DE GAULLE INT?L AIRPORT)に着くと、路面が少し濡れていたが、雨は上がって曇り空だった。

 空港から、パリ市内へ向かい、ワールドカップの決勝を行ったサッカー場を通り過ぎ、遠くに見えるモンマルトルの丘の上に立つサクレ・クール寺院やエッフェル塔(Tour Eiffel)などを遠目にモン・サン・ミッシェル(Mont Saint-Michel)へバスは向かう。

 2日前、ナポリからローマに向かうバスの中で添乗員から、次のような提案があった。

「旅行プランでは、モン・サン・…からの帰りに寄ることになっているブヴロン・オン・オージュ村へ、一日繰り上げて立ち寄ったらどうか。400㎞も離れているモン・サン・…へ、ただバスで向かうだけのスケジュールではもったいない。時間的に十分可能だ。そうすれば、翌日モン・サン・…からパリに少しでも早く帰ってこれるし、1時間ほどのフリータイムが出来るかもしれない。」と。

 いい提案だ。みんなも異議なし。早速、手配のために旅行会社などとの調整に入ってくれた。




ブヴロン村

  国土の半分は農地
   仏の農場=ノルマンディ

 パリ市内から高速道路を、セーヌ川に沿って「北フランスの田園風景を楽しみながら」(knt!パンフ)ノルマンディ(Normandie)を西へすすむ。

 パンフには、こう書いている。

ノルマンディフランスの農場と称される場所だが、

10世紀に英仏海峡を渡ってきたスカンジナビアのバイキング・ノルマン人にちなんだ名前。ノルマンディ公国を創って11世紀にはウィリアム公がイングランドを征服した。」

 国土が日本の2倍で、人口は半分。国土の半分は農地という、自給率122%の国。

 なるほど、パリ市内を出ると、ベルサイユ宮殿のまわりの森林を通り過ぎて、高速道路から見える風景はほとんど広々とした農地、牧草地だった。時折、セーヌ川をのぞんだり、牛や馬が草をはみ、木立に沿って小川が流れる風景などは、まさに牧歌的だ。

 







 
最も美しい村の一つ
 ブヴロン・オン・ノージュ村

 セーヌ川は大西洋・ラマンシュ海峡(イギリス海峡)に注ぐが、パリまでの標高差がわずか50m。ゆったりとした流れになる。

途中、SAで昼食をそれぞれ買い、バスで食べる。

パリから西へ120Kmほど行くと、ジャンヌ・ダルクが「魔女」の判決で火あぶりの刑を受けて有名なルーアン(Rouen)がある。高速道路には、ときどき地方の代表的な名所案内の看板を設置している。ルーアンから120Kmほどにある中都市カーンに向かう途中、フランスで「最も美しい村の一つ

 として脚光を浴びているブヴロン・オン・ノージュ村  
 (Beuvron-en-Auge
パリから約210Km)がある。

 フランスには村が153ある。そのなかで、「最も美しい村の一つ」に認定されているという。

   
 



       Ingres coronation charles vii.jpg
ドミニク・アングルシャルル7の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク』(1854)、ウィキペディアより

ルーアン:10世紀、ノルマンディ公国の首都として繁栄。中心部には「ノートルダム大聖堂」(1250年建造)があり、「救国の聖女」であるジャンヌ・ダルク教会も建っている。ルーアン美術館には、モネ、ルノワール、ドラクロワなどの名画2000点以上が所蔵されている。

  木組の家、小川と洗濯場

 ハイ・ウェイから降りると、狭い田舎の道路を7Kmほど進むと、牧草地や農地と木立がバランスよく広がる田園風景のなかに、木組の家が目に入ってくる。

わずか100戸足らず、村民230人ほどの小さな村だ。

 村に入ると、1軒1軒、家のデザインや木組がちがう個性あるきれいな家々が寄り添いながら、ひとつにまとまったおもちゃ箱のような風景に出合う。

 ブティックの店のガラスドアには、”Welcome”と書いた文字の下に、逆さまに「ご自由に どうぞ」とひらがなのシールが貼られていた。廃墟みたいな家や修理中の家もある。桜と連翹の花が満開になった家。大阪を出たときも、桜と連翹の花が満開だった。

       

村の中を流れる小川に作られた昔ながらの洗濯場。似たような風景に、子どもの頃の田舎を思い出す。

おばあちゃんが小さなお店から買って来たフランスパンを小脇にかかえて歩く姿も、高齢者が村を支えているようだ。

20分ほどで村の家々を見てまわれる。











 リンゴ酒 シードルを試飲

一行は中庭のあるホテル&レストランで、リンゴ酒(シードル)と焼きリンゴをふるまってもらった。リンゴのビールと聞いていたシードルは、おいしいがグラス一杯がちょうどいい。

中庭で、脊髄損傷した3歳の三毛猫(ジョゼフィーヌ)後ろ脚をコントロールできずにすり寄ってきた。観光客が増えたことで、犠牲になったのか?

村おこしで、
 ミシュランのレストラン
高速道路のインターチェンジができた村から木骨造りの館を1975年に、ブヴロンの村の真ん中に運んできて、都市からドライブして来る人達を呼べるような建物として、パヴェ・ドージュ(Pave dAuge)というレストランにした。ミシュランの「赤いレストランガイドブック」にも紹介されている。
 


 



「どこでもそうだが、産業革命後の欧州も、産業化社会によって人を都市に集中させてしまった。ブヴロン・オン・オージュ村も例外なく村人たちを都市へと四散させることになった。

 1870年、鉄道駅が敷かれ、駅がブヴロンの村はずれにオープン。 豊かな牧草で飼育された牛を都市へと輸送し、一時、村は時代の波に乗ってはいた。しかし、第一次大戦後、村は鉄道廃線の憂き目に会う。多いときは千人の人口を数えたブヴロンの村はその過疎化現象を甘受し始め、1933年にはわずか人口333人となってしまった。

広場のホールは老朽化し、周りを取り囲む木骨造りの家々も屋根には穴が開き、漆喰壁は崩れ、村は瀕死の状態に陥っていた。

やがて、第2次世界大戦が勃発すると、ブヴロンの村はドイツ軍に占拠される。しかし、村はノルマンディー上陸作戦の圏外にあった。戦後、経済復興のなかで、鉄道から自動車の時代へ、そして高速道路が建設され、農村風景や村そのものが無視されるかのように壊されていった。同時に、車社会は「好きな時に、行きたい所へ」人を迅速に運べるようになった。

そこで、ブヴロンの村長(ヴェル美優原子)は、このチャンスをいかし、ヴーズヴィル(Beuzeville)の木骨造りの館を1975年、ブヴロンの村に移築。村民の為のホールではなく、都市からドライブして来る人達を呼べるような建物にした。
 現代ツーリスムをいかした、村おこしと村の保存である。
 ここに、グルメのレストランを誘致。レストラン「パヴェ・ドージュ(Pave dAuge)」の評判は高く、日本人でもいまや知らない人はいないミシュランの赤いレストランガイドブックにも紹介されている。また、村長さんは保存協会と連携しながら、村を季節の花々で飾る

 努力も始めた。こうして、ブヴロンは<フランスの最も美しい村>協会によって認定され、リーダーズ・ダイジェスト社発行の本にも紹介されるようになった。

(「エミトラベルオリジナル!
    ノルマンディー
村シリーズ生みの親・浜田達郎氏が語る」より)





ノルマンディ大作戦の激戦地

 ここから、カーンを過ぎるとノルマンディの半島の先端に、カトリーヌ・ドヌーブ演じる「シェルブールの雨傘」で有名なシェルブール(Cherbourg)があるが、どんな町だろうか。

この辺に広がる広大な農地は、第2次大戦のノルマンディ大作戦で激戦地になったという。

モン・サン・…まで、百数10Kmパリから360Km

モン・サン・ミシェルが見えてきた

 小さなとんがり帽子のようなモン・サン・ミッシェルが広大な牧草地の向こうに浮かびあがってきた。きれいな牧草地と農家が散在する村の中をバスが通り過ぎ、ホテルに寄らず、そのまままっすぐモン・サン・…のすぐ近くまで行ってくれた。

かつては海に浮かぶ孤島だったモン・サン・…は、いまは2kmの道路で結ばれている。確かに夕日を浴びた城砦のようなたたずまいは、感動的だ。

 
 





小さくて石造りの素敵なホテル

 バスの運転手の拘束時間が迫ってきたので、写真タイムだけでモン・サン・…から2Km手前のホテルへ。島内にもホテルは2軒あるが、ホテル「サン・トベール」(Saint Aubert)は、堤防の入口に位置する7軒ほどあるホテル群のうちの20数部屋しかない2階建ての可愛い石造りのホテルだ。

ホテルにはEVがないので、若い1組と添乗員が2階で、あとは全員1階の部屋。
 窓の外には、木が生い茂っており、手入れの行き届いた庭がひろがる。あちこちから、小鳥の声が響きわたっていて、狭い小さな部屋だが、落ち着く。
 駐車場を前に、離れにホテルのレストランがある。
 7時過ぎても、まだ陽は明るい。
 まずビールとトマトジュース、そして40度のカルバトスを頼んで、パンと魚料理の夕食を済ます頃には、あたりは薄暗さが増していた。



 幻想的な世界、危険な帰り道

 少し休憩してから、夜のモン・サン・…を見に行く。
 島までの道路(堤防)は真っ暗闇。時折、車が通るので危ない。
 1年前に、日本人
観光客が車にはねられたという。昨晩も、歩いていた日本人を避けるために車が転倒したという。
 そこで、安全策として、夜光塗料付きのチョッキを着用してもらうことにしているという。

 外の温度は5℃ほどか、真冬の恰好で出かけたが、ちょうどよかった。ホテルを出たのが最後だったので、チョッキはひとつしかなく、妻が着用した。

 堤防を歩いてゆくと、土手に桜が咲いていた。ライトアップされた島が何とも幻想的だ。空には、半月と金星が輝き、満天の星のなか、北斗七星が見えた。堤防からみると島は真北になる。


 観光客がほとんどいないモン・サン・…に入ると、不気味な気もするが、幻想的な美しさが魅力的だ。妻がトイレを見つけたが、汚なかったという。


 帰りは、島の従業員たちが帰るのか、何台か車やバイクが通り過ぎていく。確かに真っ暗で怖い。轢かれそうになる時もある
 懐中電灯がないので、時折、携帯電話やカメラの光を利用して道路を照らしたりした。
 妻の足取りが速い。こんなに早く歩くところをこれまで見た事がない。ついてゆくのが大変なくらいだ。

 モン・サン・…へ泊れてよかったと思った。

 お風呂は、熱いお湯が出ず、妻は入らず、私だけがぬるいお湯を入れて入ったが寒かった。

 歩きすぎたのか、妻は子宮からの出血があった。








  
 【5日目】
    モン・サン・ミシェルを歩く   (4月9日)
  朝のモン・サン・ミシェル地区

 モーニングコールは7時30分。
 朝食が
810分なので、30分ほど、妻といっしょに周辺を歩いた。
 薄暗く澄んだ明け方の空に昨夜、島の方にあった半月が南の方に移動していた。

朝日が昇って来た周辺の景色も幻想的だ。         

 朝食がすんで、すべての荷物を持って9時、ロビーに集合し、
バスでモン・サン・ミッシェルへ向かう。

 晴れ渡った朝の光を浴びるモン・サン・ミシェル。

門を入ると、フランス人のガイドと合流。先生に連れられた小学生ぐらいの子どもたちの集団が説明を聞いていたり、観光客はどんどん増えてくる。
      

 


ホテル周辺の幻想的な朝焼けの光景






  “天空のラピュタ”?

一段一段、修道院を上がっていくたびに内部も、そこからみる外の展望も、実にロケーションがすばらしい。

 まるで『天空のラピュタ』のシーンをみているようだ。

まわりが見渡せる途中の広場(西のテラス)から頂上を見上げると マロニエ(セイヨウトチノキ)の若葉が目に映える。

 

 

           弧島に戻すプロジェクト

写真の右に駐車場があり、キャンピングカーなどで、観光客や参拝者が寝泊りしていた。

  河口堰(右端)とホテル群(↓)

■モン・サン・ミシュエルは、もともと英仏海峡に流れ込むクエノン川の河口沖、遠浅の海に浮かんでいた。干満の差が大きく、引き潮のときだけ砂地があらわれて本土とつながる。1870年代に常時渡れるように建設された堤防が潮流をせき止め、川から流れ込む土砂が堆積。

 いまでは、島が海に囲まれることはなくなり、陸地化したところには駐車場もできた

 仏政府などが主導し、昔のような「孤島」に戻すプロジェクトがすすみ土砂が流れ込む川に昨年5月に整備された河口堰が威力を発揮、堆積物が少しずつ減り始めた。最終的には堤防を取り壊して代わりに橋を架け駐車場も席の近くに移す計画。   2015年頃には昔通りの島に戻るという

 

■列柱廊(回廊)別の棟へ行くための分岐点の役を果たしていたギャラリーは、かつては祈りと瞑想の場だった。13世紀初頭に建設された「メルヴェイユの棟」の最上階に位置する。

■この列柱廊から食堂、厨房、教会、寝室、古文書保管室、そしてさまざまな階段へとつながっている。西方には海に面した大きな窓がある。列柱には重量を軽くするため骨組みには木材が使われている。わずかにずれながら2列に組まれた小円柱が常に変化する視覚効果を生む。




剣と秤(はかり)を持って、竜を踏みつけ、見下ろす目が鋭い。

ミカエルの像:新約聖書ではミカエルはヨハネの黙示録に登場し、悪魔の象徴である竜と戦いそれを打ち倒す。来世への不安を抱えながら生きていた中世の人々にとってミカエルは、死者を導き、最後の審判を迎えた日の魂を癒すとされていた。

鐘塔の上に突き出るようにして立つミカエル像と同じもの。

 伝統と一般信仰がミカエルを騎士団長とみなす一方、兵器や秤に関連した職業を生みだし発展させてきた。この像は1897年、32mにおよぶ新しい尖塔を飾るため建築家エマニュエル・フレミエが制作したもので、1987年修復されている。
(モン・サン・ミシュエル修道院」発行の日本語版ガイドブック)


名物のオムレツを食べて

 たっぷりと修道院の内部や石畳の街並み、周りに広がる風景を堪能し、バスに乗り込んで、レストランへ向かった。名物のオムレツだが、ふわふわした中味を白味の泡がつつむ。これを前菜に、チキン料理をいただいた。




   

   

 モン・サン・ミッシェルは「聖ミカエルの山」の意。708年、大天使ミカエルがこの地の聖オベール司教に夢の中で啓示したことで建てられた唯一無二の修道院。

●修道院付属の教会:10001010年に建設された。標高80mを誇る岩山の頂上、長さ80mにおよぶ土台にある。身廊ではアーケード、階廊席、高窓の3段階にわたる建築様式。

  
      修道院付属教会のミカエル像

建造物:主要部はゴシック様式で、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。
 教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式1112世紀)、百年戦争後の1421に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)として再建された。

これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と1315世紀の軍事施設が取り囲んでいる。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897に完成。その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺構も残る。

   11世紀から500年かけて増改築された修道院
         
      

       
    


                  木目が美しいホテル


モン・サン・ミシェルを離れてパリへ向か

モン・サン・ミシェルの歴史

 百年戦争の期間は島全体が要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。

18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され、1863まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3を動かし、1865に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。

19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。

1979年にはユネスコ世界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。

近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつあり、国家事業として、かつての「島」に戻すプロジェクトが進んでいる。

参道(グランド・リュ)。参道から左の狭い階段を登って、自由の塔の方へ行く途中に見えたテラス。院内を一通りまわった後、参道でお土産(40度の酒、カルバドス等)を買う。

パリ手前の高速道路でバイクの追突事故

 バスはパリへと向かう。運転手はきまりで、1時間30分ごとに、15分以上の休憩を取らなければならないという労働規則がある。その時間は、SAでコーヒータイムとなる。

 パリに近いところで、ハイ・ウェイが混みだした。

 しばらく、のろのろ走行していくと、反対車線からの車が全く来なくなった。事故があったもようだ。その現場を通り過ぎると、こちら側の車線で車に追突したバイクが中央分離帯を越えて、対向車線でひっくり返り、そのそばで人が横たわっていた。車の後部はペシャンコになっていた。

 わき見運転による渋滞のようだ。そこを通り過ぎると、スムーズに流れ、ほどなくパリ市内へと入って行った。

エッフェル塔、凱旋門、オペラ座…

  

 昨日通ってきたセーヌ川沿いをバスが逆に走ってゆく。

アメリカは、ニューヨークへ贈呈した本拠本元の「自由の女神」像が見え、すぐエッフェル塔も見える。さらに進んで凱旋門へ行く。ちょうど衛兵の交替式の時間帯になっていた。
 凱旋門を一周してから、オープンカフェやショップの集まる並木道の華やかなシャンゼリーゼ大通りを通り、コンコルド広場から、オペラ座の方に向かう。


  オペラ座界隈を散策
   

 スケジュールの変更で、パリ市内での夕食前、ほんの少しだけ、ぶらりとする時間があった。

 オペラ座の方へ行くと、その前はすごい人だかりになっていた。軍服みたいな制服を着た若者とドレスアップした女性たちが互いに写真を撮ったりしていた。卒業式かな?

 周辺のガラス越しに、ウィンドー・ショッピングをしたあと、夕食の中華料理の店へ行った。

中華料理がアクセント!!

 旅行前に、なんでヨーロッパまで来て、中華料理なんやと思っていたが、ずーっとパン食だったので、決して美味しいといえないがスープやごはんがあって、アクセントとして必要だった。

 米はタイ米だ。


←中華飯店OPERA MANDARIN RESTAURANT

 4つ星のホテルに2連泊

 一行は途中で二手に分かれる。「自由の女神」像やエッフェル塔、モンパルナスに比較的近いSグレード(4つ星)のホテル組と、パリの北はずれの方のスタンダードのホテル組だ。4つ星の「プルマン・リブ・ゴーシュ」(PULLMAN  RIVE  GAUCHE)は、新婚組と私らが2連泊する。

 モンパルナスの高層ビルが望める16(ホテルは23階建て)からの夜景がきれいだった。広々としたバスルームやトイレのある部屋で久し振りにゆっくりできた。

 水は、フランスも水道水が硬水。ナチュラル・ウォーターが
「ガス入り」
(GAZEUSE)と「ガス無し」(NON GAZEUSE) 2本がサービスで冷蔵庫に入っている。











自由の女神像
Statue of Libertyは、アメリカ合衆国ニューヨーク港内リバティ島にある像である。
正式名称は
Liberty Enlightening the World
(世界を照らす自由)である。

 自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して独立運動を支援した
フランス人民の募金によって贈呈され、1886年に完成した。

  自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人民の募金によって贈呈され、1886に完成した。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなっている。1984にはユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

本来のモデルはフランスの象徴マリアンヌである。性別女性で銅製だが、緑青の為に緑色になっている。像の頭の部分までの高さは33.86m、台座からトーチまでの高さが46.05m、台座の高さは47m、台座部分も含めると93m、総重量は225tである。

右手では純金で形作られた炎を擁するたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ合衆国の独立記念日である「17767月4日」とローマ数字で刻印されている銘板を持っている。足元には引きちぎられたと足かせがあり、これを女神が踏みつけている。全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている王冠には7つの突起がある。これは、7つの大陸7つの海に自由が広がるという意味である。

女神は元々灯台であったためニューヨーク港を向いている。

なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。



  凱旋門でちょうど衛兵の交代式の途中だった。

エトワール凱旋門Arc de triomphe de l'Etoile)は、パリシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある。

この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のように見えるので、「エトワール広場la place de l'Etoile」と呼ばれていた。現在、「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。

エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806ナポレオン・ボナパルト(ナポレオンⅠ世)の命で着工。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836に完成した。
 設計はシャングランで、高さ約50m、幅45m。ナポレオンは完成後の1840年にセント・ヘレナ島から遺骸となってパリに帰還し、その葬列が凱旋門をくぐっている。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。

エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦無名戦士の墓がある。

第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられヒトラーが戦車で凱旋した。


シャンゼリゼ通りL'Avenue des Champs-Elysees)は、「世界で最も美しい通り(la plus belle avenue du monde)」と言う表現が使われている。

パリ市内北西部の第8区を横切る約3km、幅70mの大通りである。マロニエ(マロンの木)の並木道となっていて、東はオベリスクのあるコンコルド広場から、西は凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧エトワール広場)まで全長約3km続く。

シャンゼリゼ通りは東に行くにつれ微妙に下り坂になっており、下って行った先にはマリニー広場の緑地とマリニー劇場グラン・パレプチ・パレ等の建物がある。西の方では、両側には有名ブランド店、映画館、キャバレー「リド」、カフェレストラン(そのうち最も有名なものは「フーケ (Fouquet's)」)などが立ち並ぶ。

 なお、"Les Champs-Elysees"とは、ギリシャ神話において有徳の人が死後に住む極楽浄土を意味するエリュシオン(: the Elysium, the Elysian Fields)のこと。そのため、シャンゼリゼ通りは、日本風に言うと「極楽浄土通り」または「極楽通り」ということになる。また、シャンゼリゼ通りに面して、フランス大統領官邸であるエリゼ宮殿(le palais de l'Elysee)があるが、これも日本風に言うと「極楽浄土宮殿」ということになる。


【6日目】
      ルーブル美術館とベルサイユ宮殿   (4月9日)

 ゆっくりのパリの朝

 モーニングコールは7時45分。2連泊ということもあって、枕銭は2?置く。

朝食をゆっくりとって、集合時間の920分にロビーに行くと、手違いでもうひとつのホテルへ先に迎えに行くはずのバスがこちらに来ていて、急いで迎えに行ったために、さらに2030分バスの迎えが遅れるということだった。そこで、ホテルの前を通る高速郊外鉄道(RER)の乗り場など少しぶらぶら。

シャイヨ 宮からエッフェル塔

 10時前にホテルを出発して、エッフェル塔が目の前に見えるシャイヨ
(Palais de Chillot)へ向かう。パリ市内を見下ろせるシャイヨ宮の
広場には、大勢の観光客がいる。黒人たちがサングラスやエッフェル塔
の模型などを販売するために、ウロウロしている。

 晴れ上がった青空にそびえたつエッフェル塔の眺めは壮観だった。
 エッフェル塔の方から吹き上げてくる風がとても気持ちがよかった。

     

 わずか15分程度の写真タイムだった。


    ホテルの部屋から見たパリの朝日

シャイヨ宮:フランスパリ16にある宮殿。エッフェル塔とはセーヌ川をはさんで反対側に建っている。

1937パリ万国博覧会にあわせ、旧トロカデロ宮が取り壊されて建てられた。旧トロカデロ宮と同じ、湾曲した双翼の形をしている。
 現在は、博物館になっている。

1940ヒトラーが、征服したパリを短期訪問した際、この宮殿の前でエッフェル塔を背景に写真撮影し、その写真は、第二次大戦の象徴的なイメージとなった。

1948年12月10日世界人権宣言を採択した国際連合総会が行われたのもここシャイヨ宮であった。現在はそれを記念する記念碑があり、この前の大通りを「人権大道り
esplanade des droits de l'homme
と呼んでいる。








世界を代表する美術館ルーブル

 いよいよルーブル美術館だ。
ルイ14世がヴェルサイユに拠点を移すまで歴代の宮殿だっただけに、見事な建造物だ。

 庭の中央にあるガラス張りピラミッドは、1982年にミッテラン大統領の「大ルーブル整備」で造られた。
 その脇を通って、リシュリュウ翼から中へ入ってゆく。
 エスカレーターでガラス張りピラミッドの下、半地階へ下りてゆく。真下は逆ピラミッドになっていて、映画『ダ・ビンチ・コード』のラストシーンに使われたところだ。

 館内は全長20Kmにもおよび、展示品も2万6千点(所蔵は30万展)というから、まさに世界を代表する美術館だ。
 1546年~1678年のフランス王家の美術品が集められている。

 順路は、シュリー翼から方形中庭へ行き「中世のルーブル」から、ミロのビーナスがある1階の「古代ギリシア美術」。「サモトラケのニケ」を階段の途中に見ながら、2階のイタリアとフランスの絵画を観る。
 イタリアの13世紀~17世紀の絵画、モナリザの絵から「ナポレオンの戴冠式」(ルイ・ダヴィット)、「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ)などのフランス絵画の大作などを観て、ドゥノン翼からピラミッドの下へ行く。
 これでわずか1時間余ほどの観賞だった。

 「すべてをじっくり見るには数カ月はかかる」とは、もっともだ。







『サモトラケのニケ』

BC190年頃)古代ギリシア、エトルリア文明の傑作で、密着した衣紋などヘレニズム美術を最も見事に物語っている。






『ミロのビーナス』BC130~100年頃。横から見ると、今にも歩きだそうとしている姿が印象的だった。
1821年ルーブルに収まって以来、賞賛され、模写され、引用され、曲解され、大衆を魅了してやまない。しかし、その真価がまだ理解されていない。」




老人と少年


ドメニコ作(1490年頃)

:ガイドさんは「レオナルドはこの絵とドメニコを参考にした?あおいだ?」などと説明していたようだが、師といえば、若きレオナルドが仕えたのは、ヴェロッキオである。師が描いた『キリストの洗礼』の一部をレオナルドが描いたが、その描写力を見て、以後絵筆を持たなかったというエピソードがある。

『皇帝ナポレオンⅠ世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』
 
ジャック=ルイ・ダヴィット作
 1804年、パリのノートルダム寺院でローマ法王ピウス7世が(批判的に)祝福を授けるなかで行われた戴冠式。
 いつからかは不明だが、『モナリザ』だけは、すぐ傍で見ることができなくなった。

 聞くところによると、中国人観光客が触ったりするので、ガラスで囲み、その周囲半円形に立ち入り禁止区域を設定してしまった。

『グランド・オダリスク』
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作(1814年)

「形と線で調和させるように、背中、腕、指は引き伸ばされ、乳房の位置がずれ、肉付けが軽減されている。」と「ルーブル傑作選集」に記載されている。ガイドの話では、正面から見ると胴長に見えるが、横から見るとちょうどよく見えるように描いているという。実際、横から見ると…。

『民衆を導く自由の女神(1830728日)

 ドラクロワ作

 1830年の「栄光の三日間」、パリの人々がシャルル10世の独裁体制に反乱し、首都全体にバリケードを張り巡らせた。ドラクワは三色旗を振る自由の女神を描いた。




ノートルダム寺院近くで昼食

 昼食は、ノートルダム寺院の近くにある
 LE CHALET SAINT-MICHEL(シャレット・サン・ミシェル?)というレストラン。

 「ムール貝の白ワイン蒸し」と肉料理。ムール貝が皿いっぱいに山盛りでできたのには驚いたが、レモン汁をかけて、ビールを飲みながら食べると実においしい。チョコレートいっぱいかかったシュークリームもでかい。


 店は木をふんだんに使った造りで、エルクの剥製もすばらしい。

      
結婚式に遭遇

 昼食後は、近くにあるノートルダム寺院が見える公園まで少し歩いて行った。ちょうど、公園にある教会で結婚式が終わった後で、新郎新婦を取り囲んでいた。

 そこへ、独身の看護師2人が記念撮影。一方、新婚さんたちの何組かは、近くに置いてあった新婚用のクラシックカーの前で記念撮影、“ラッキー!”などとはしゃいでいた。








ノートルダム寺院
シテ島の南東にあり、1345年に200年をかけて完成した。ノートルダムとは「聖母マリア」の意で、1804年、35歳のナポレオンが戴冠式をした場所でもある。

ヴィクトル・ユーゴの小説『ノートルダム・ド・パリ』で有名になった。ゴシック建築の最高峰と称される。
シテ島の西側には牢獄としても使われたラ・コンシェルジェリーがある。

ダイアナ妃の事故現場を通って
     
ヴェルサイユ宮殿へ


 パリで最も壮麗な橋といわれているセーヌ川にかかる「アレクサンドル3世橋」、ダイアナ妃が自動車で事故死したトンネル(3回ほど通った)、など見ながら、パリ最後の訪問地、ヴェルサイユ宮殿へ向かう。パリ市内から20Kmほどのところにヴェルサイユ市がある。


 
            セーヌ
川にかかるアレクサンドル3世橋

途中、パリの高級住宅街がある16区の半分を占めるブーローニュの森を通り過ぎてゆく。

「パリの肺」とまでいわれる広大な森で、武豊がディープインパクトで挑戦したロンシャン競馬場、テニスの全仏オープンが行われるローラン・ギャロス、広々としたバラ園など、できればゆっくりサイクリングでもして回ってみたいところだ。

ヴェルサイユ市に入ると、立ち並ぶアパートの前の道路を犬の散歩やベンチでくつろぐ老夫婦の姿が見える。


ダイアナ妃が「交通事故死」した場所。
激突した柱は向こうから13番目。

トンネルの上のアル広場にダイアナ記念日「自由の炎」がある().







ラ・コンシェルジェリー:フランス革命時には4千人を超える人が投獄された牢獄。多数の貴族も収容され、マリー・アントワネットや恐怖政治で知られるロベスピエールもここの独房から処刑場へ向かった。
 

 王宮の大きさ、広さ、豪華さ

 ヴェルサイユ宮殿は、その大きさ、広さ、豪華さ、見るものすべてに圧倒される。
 宮殿と庭園はバロック建築を代表し、ブルボン朝の絶対王政時代の栄華をつたえるヨーロッパ最大級のもの。

 入口付近では、やはり黒人の物売りがうろうろ。

ヴェルサイユ宮殿Chateau de Versailles) は、1682、フランス王ルイ14世1638 - 1715 在位1643 - 1715)が建てた。その豪華さと完成度で世界中の宮殿に模倣された。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール・エチケット・マナーが生まれた。

たとえば、の毎朝の着替えも儀式化され、最初に王の息子が肌着を着せ、その後宮殿内の序列に従い序列が下がるごとに徐々に上着の方へ担当が移っていったと伝えられている。

また、現在につながる洋食における席次・テーブルマナーも、毎晩のようにヴェルサイユ宮殿で開かれていた王と貴族が出席する晩餐会に由来し、フランス料理と共に世界中に広まったものである。

ここには、国王の居館のみならず、パリにあった政府機関をすべてここに移し直した。宮廷関係の人間は約2万人、そのうち貴族、執政者が1000人、その家臣4000人、計5000人前後が宮殿内に起居。
 さらに14000人にものぼる従者や兵士たちが付属の建物や町の中に住んでいたという。

噴水庭園…宮殿よりも噴水庭園のほうが建設にかかった労力は上で、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

①「水なき地に水を引く」

…ヴェルサイユには近くに水を引く高地がない。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸に巨大な機械を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水なき地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。

②「貴族を従わせる」

…ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。この体験を一生忘れず、貴族をヴェルサイユに強制移住させた。

「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナが村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を模倣した噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。

「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模倣した噴水。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせることを示している。

③「民衆の心をつかむ」

…ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」 というガイドブックを発行した。それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻 をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイド ブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。
 夏
ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。

 現在、この庭園に入るには、7ユーロの入場料がいる。

贅の限りを尽くした豪華絢爛

 中に入ると、
マリー・アントワネットとルイ16世の結婚式が行われた王室礼拝堂
王と王妃が公式な食事会をした
「大膳式の間」
『ヴェルサイユのばら』のオスカルのモデルになったレリーフ
                       
(コワズヴォー作)
長さ73m、幅10.5m、高さ12.3mの鏡の回廊

 
    
鏡の間(ボヘミアン・グラスのシャンデリアの回廊)

 そこからみる庭園

 

 王と王妃の寝室

 

などなど、贅の限りを尽くした豪華絢爛さに、
ただ驚きとあきれるばかり。


フランス革命1789714日、フランス革命が勃発、パリの民衆の手でバスティーユの要塞が陥落した。

 バスティーユを奪った国民議会は826日、「人権宣言」を発令する。「人は生まれながらにして自由であり、権利について平等である。」。

アメリカの独立宣言の精神を受け継ぎ、人権の尊重と国民の主権を主張した。

 同年105日、パリの主婦たちが手に手に棍棒や包丁を持って20kmの道のりをヴェルサイユ目指して押しかけた(左の写真)。翌朝、ルイ16世に対してパンも買えない窮状を訴えてパリに戻るように懇願した。

178910月、国王がパリに移った時、まだ市民の国王への愛着心はあった。民衆の中には「国王万歳」という言葉さえ聞こえたという。しかし、王の威信を決定的に落としたのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」だった。1791620日夜、召使いをロシア貴族に変装させ、王と王妃はその従者になりすまし、馬車でパリを抜け出た。逃亡の手引きをしたのは王妃マリー・アントワネットの愛人といわれた、スウェーデンのフェルゼン伯爵だ。しかし、連絡の不手際からヴァレンヌという田舎町で捕まってしまう。なんともお粗末な逃亡劇だった。

 1792810日の民衆蜂起によって王権は停止させられた。王妃、2人の子供、妹と共に旧タンプル修道院に幽閉されていた国王は、17931月、国民公会で有罪の判決を受け、革命政権の手で革命広場(現在のコンコルド広場)に引き出され、断頭台(ギロチン)で処刑された。また同じ年の1016日、マリー・アントワネットも同様に処刑された。王族としての扱いを一切受けることなく、粗末な身なりで後ろ手にくくられた彼女を見て、誰も王妃と気づく人はいなかったという。

フランス革命後の宮殿

 フランス革命後、1793年以降、宮殿の調度品の大半は競売に掛けられ四散してしまう。1883年、フランス最後の国王ルイ・フィリップが「フランスの全ての栄光に捧げる」美術館として整備することを決める。以後、復元と売却された調度品を買い戻すなどの努力が続けられている。

最後の夕食はエスカルゴ

 夕食は、パリ東駅の近くで「エスカルゴを前菜に、ブッフ・ブルギニヨン(牛肉の煮込み)」。添乗員が案内用トランシーバどがの発信機をなくしたお詫びに、ビールなど一杯の飲料水を出してくれた。エスカルゴを食べれない人が何人かいた。

それぞれの夜

最後の夕食は全員揃っていない。3組の新婚は、モンパルナス・タワーの最上階のレストランで、メモリアル・ディナーへ行った。別のカップルは食後、事前にチケットを購入して、サッカーの試合観戦に行った。翌日、空港で見た新聞一面に「PARIS-SG VS BORDEAUX」の試合が1面に掲載。応援席に座ったのがPARIS-SGで、3:1で勝っていた。

 夕食後は、一行のほとんどがセーヌ川クルーズへ行った。私らはいったんホテルへ帰って、地下鉄でモンパルナスにでも行こうかと考えていた。帰りのバスは2人のための貸し切りだった。

ホテルについて、歩き疲れた妻はそのままで休んでしまった。

セルトン駅周辺をぶらり

 私一人でホテルの近所にある病院など付近を散策。ホテルのすぐ近くに、廃墟となった古い民家があり、周辺ではここだけで、あとはすべてアパートなどビルディングになっている。

 メトロ12号線のコランタン・セルトン(Corantin Celton)駅の手前にコランタン・セルトン病院(Hopital)がある。9時頃なので、ほとんど人がいない。精神科などがあるらしいが、どんな病院かまったく分からない。病院から職員が何人か帰っていった。ジョギングする人、土曜の夜ということもあってか、アパートの一室で若者がパーティらしき大きな笑い声なども聞こえる。

NEW 東洋 TOYOYAKI(SUSHIYAKITORISASHIMI)という看板のある日本食専門店もあった。店内の壁には「日本串?」と書いている。「?」はあぶるの意。