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屋久島ツアー、そして尿管結石?!
     2010年8月21日 (土)


「神秘なる太鼓の苔むす森」

815日〜17日の3日間、世界遺産の島、屋久島へ行って来た。

西日本のローカル便を受け持つJACは昨年9月、伊丹から屋久島空港への直行便を就航。

カナダ・ボンバルディア社の高速プロペラ機にはじめて乗る。

日本で2番目に雨の多い屋久島だが、快晴の屋久島空港へドスンと着陸。

やはり、日本中を覆う熱波は変わらないが、都会のヒートアイランドの暑さとは気分も、風も違う。
快晴とはいえ、1900mクラスの山が連なる山の頂上付近は雲で見えたり見えなかったり…。
旅の3日間、快晴に恵まれた。

妻の言う「緩衝材?」である娘と3人で、「苔むす森」をのぞいてきた。
幹の太さが16.4mもある樹齢約7千年の
縄文杉へ行くには、往復10時間を要する。
今回のツアーにはこのコースは含まれていない。

まずは、屋久杉自然館で予備知識を入れる。

次にバスに乗って、カンカン照りの平内海中温泉で足湯につかる。
温泉よりまわりの岩やセメントの方が暑い。

満潮になると、海水で消えてしまうが、ちょうど干潮だった。

1日目の圧巻は、大自然のなかに2筋に分かれた落差100mほどの大川(おおこ)の滝だ。

涼しく、なんとなくマイナスイオンを感じる。

一人で滝つぼの方へ行き、服のまますべってはまってしまった。

みんなが滝を望む場所からは見えない。

はいあがる場所がなく、下流まで泳いでよじ登った。
水がすごく気持ちがよかった。
裸になって服を絞った。もう一度滝つぼの方へ行く。

滝から吹いてくる風はもっと気持ちがよかった。

あとで、地元の人に聞くと、何人か飛び込んだり、落ちたりして、
今年、大学生が一人亡くなったという。

えッ、ほんま?

屋久島では、「島が見えると、次の日は雨」

とおばぁたちがよくいっていたと、ガイドさん。

確かに、水平線の方に、トカラ列島の口之島、中之島、諏訪之瀬島が見えた。

非常に珍しいという。

早目にJRホテル屋久島へ到着。

写真1 

ヌルヌル、スベスベとした温泉につかる。
確かに、美肌効果がありそうだ。



ホテルから東の方を望む            右を望むと夕日が沈む
 

地元の食材を使った夕食はうまかった。

夜、屋久杉自然館の受付で入手した「ウミガメの孵化情報をホテルのフロントで確認。

栗生浜で毎日孵化しているということで、タクシーを手配してもらって見に行った。

大阪で20年間ほど働いて、Uターンしてきたタクシーの運転手に、

「子どもの頃は、ウミガメの卵を食べたりした。いまは自然をいかに守り、将来へ残していきたい」…

.いろいろレクチャーを受けた。

砂の中から、いつの間にか、もそもそと次から次へ子ガメが出てくる。

手にとって見ると実に可愛い。



あとで、みんなで波打ち際へ行き、

20数年後には無事に帰っておいで。」

と波に消えるまで見送った。

生きて帰ってくるのは5000分の1という。

夜空に連なる天の川がはっきりと見えた。

北斗七星―北極星―カシオペア座―白鳥座、そして南の空には、さそり座が横たわっていた。

 ウミガメの旅立ちと澄んだ夜空の星。
水平線には大きく黄色に輝く三日月。
寄せては返す波の音…。

最高のシチュエーションだ。

ホテルの玄関前でタクシーから降りると、妻が突然、股関節に痛みが走って思うように歩けない。
小ガメを放流するときに、砂に足を取られたり、変な格好でいたためらしい。

次の日は、3時間ほどの軽いトレッキングがある。大丈夫か?
温泉につかっても痛みがとれない。

夜中に鍼をした。

娘は勉強道具を枕もとに置き、爆睡していた。

2日目 
 
ホテルの玄関の真正面から見ると…

世界遺産地域に入っている「西部林道」へマイクロバスで向かう。


途中の風景は、どこもすばらしい。


世界遺産の決め手ともいわれる照葉樹林とそこから望む連山の峰(下の写真) を眺める探索コース。

奈良の小鹿ほどしかない屋久鹿や屋久猿が道端に現れる。

白谷雲水峡では、少しトレッキング風に90分ほど「苔と杉と清流の森」に溶け込んだ。

妻はなんとか、山歩きができた。

西部林道へ行くまでに、屋久島(栗生地区?)にある変な戦跡というか、
海岸から数10mほどにある海面から浮き出た小さな島? 岩肌が見える。


昭和20年3月14日、米軍機による爆撃や機銃掃射を受けた。

空から見ると、まるで潜水艦に見えたようで、
海岸の集落を攻撃せず、海に浮かぶ長い岩山に集中攻撃が浴びせられた。

高さ10mあった岩肌が破壊され、今の姿になった。

村人たちは、なぜ村を攻撃せず、海岸から離れた岩山を攻撃するのか、
不思議がっていたようだと、バスガイドさんが語ってくれた。

屋久島周辺の海には、疎開児童を乗せた対馬丸や戦艦大和など幾多の悲劇が眠っている。

零戦の残骸は今でも島のまわりに残されている。

長崎への原爆投下にもかかわりがある。

最初の爆撃予定地であった小倉市に向かう途中、
屋久島上空で計測や記録を担当する2機と待ち合わせする手はずになっていたが、
1機が現れず、原爆搭載機のB29ボックス・カーはここで約45分間、待ち続けた。

「天気良好」の指示でテニアン島を出たはずが、
この待機のためか、小倉市上空へ行ったときは雲で見えず、3回失敗。
燃料不足から、雲の間より見えた第2目標であった長崎に原爆が投下された。


昼食はトビウオの丸揚げを生チューといっしょに食べた後、紀元杉のあるヤクスギランド90分ほど探索。

5時前にホテルに到着。

TVの「熱闘甲子園!」に娘と見入ってしまった。

地元鹿児島代表の鹿児島実業と九州学院の対決だ。

3点差の8回ウラ、鹿実は同点においついた。

9回表に1点入れられてしまった。“奇跡よ、もう一度”もむなしく敗退してしまった。

夕食はやはり地元特産の料理は絶品だ。地酒(焼酎)もおいしい。

11時頃、温泉へ行ったが、誰もいなかったので、ひとしきり泳いだ。


日目の未明、事件が起きた。

左下腹部に突然の激痛が襲ってきた。

救急車を呼ぶと、島の反対側の総合病院へ行くことになるので、
その日の1130分の飛行便に間に合うかどうか不安だった。

とりあえず、持参していた鍼で痛みを抑えた。
2時間近く寝入ったようだ。

4時過ぎ頃、再び激痛が襲って来た。

胆石なら右だが、左の脇腹から腰部にかけて、のたうちまわるような痛みだった。
顔が蒼白になり、脂汗が噴き出る。
あきらかに筋性防御のような反応がある。

腸捻転? 腸閉塞? 腎臓結石か、尿管結石か?

とりあえず、ホテルのフロントに電話をする。
なんとか近くの診療所へ手配してくれるという。

朝5時、ホテルのすぐ下の診療所に看護師さんとしばらくして医師がきてくれた。
座った姿勢で、背中の方を拳で軽くたたく。
鈍い痛みが腰からお腹の方までひびく。
尿管結石の診断だった。
疝痛発作が襲ったのだ。

尿管には3か所に狭窄か所がある。
疝痛は結石が移動したり、狭窄か所に詰まったりしたときにおこり、
流れづらくなった尿が腎臓へ逆流。
腎臓のまわりの被膜にある神経が痛みを出すという。
腎臓に石がある間は痛くない。

激痛に耐えながら、懇切丁寧なドクターの描く解剖図と説明にうなづく。
早く、痛み止め打ってほしいのにと思いながら…。

あとでわかったことだが、腎臓は夜11時頃から明け方3時頃までが
最も活発に働くらしい。
つまり、最も多く尿に変える時間ということか。

その後の3回ほどの疝痛発作も、夜中から早朝にかけて起きた。

痛み止めの注射2本は効かず、500mlの点滴と座薬をした。
9時頃、なんとか痛みが落ち着いてきた。

千尋(せんぴろ)の滝の観光とお土産店の最後のコースはもちろんキャンセル。

妻と娘は、診療所へ来てくれたあと、ホテルの土産物店で買い物。

ふらふらしながらタクシーでなんとか屋久島空港へたどりついた。

診療所で治療している間、
同じように尿管結石で一人の男性が治療を受けにきた。

空港までのタクシーの運転手は、昨晩、胆石で苦しんでいたという。

尿管結石は男性に多く、女性の倍、11人に1人の罹患率になる。

帰宅した翌々日、病院に行き、レントゲンを撮ってもらう。
膀胱まであと1〜2センチほどのところに白い影が映っている。
「5.3mm〜6mmほどの石ですね。」と
若いドクターは、体に触れようともせず、
パソコンを眺めながら、尿管結石の診断を行い、薬を処方。

19
日の仕事はキャンセルして20日から仕事に復帰した。















































(藤庵 8月21日)




モン・サン・ミシェル地区に泊まる
イタリア・フランスの旅

 1.はじめての欧州旅行 (1日目)
  
 2.
ナポリ、カプリ島、ポンペイ (2日目) 
   
   ・サンタルチア港の卵城
   ・ヌォーヴォ城とべヴェレッロ港 
   ・高速船でカプリ島へ 
   ・ポンペイ遺跡探索
   ・ドイツが占拠し、連合軍が爆撃した修道院
  
 3.ローマのフリータイム (3日目)
  
   ・ヴァチカン市国、サンピエトロ広場
   ・真実の口、うそつきは手を咬まれる?
   ・“コロッセオが滅びるとき、ローマが滅び…”
   ・トレヴィの泉にコインを投げ入れて見た…
   ・スペイン広場のスタイリスト、浮浪者
   ・フリータイム、「ローマの休日」を堪能
   ・失業率は高く、高齢者問題も深刻
   ・歴史教育に広島・長崎、ローマ市長来日
   ・イタリアの鍼灸事情

 4.
夜のモン・サン・ミシェル (4日目)
 
   
   ・ローマ空港で救急手当て
   ・最も美しい村の一つ、ブヴロン村
   ・夜のモンサンミシェル

 5.モン・サン・ミシェルを歩く (5日目)
 
   ・朝焼けのホテル「サントベール」周辺
   ・「孤島」にもどすプロジェクト
   ・自由の女神、凱旋門、シャンゼリーぜ大通り
   
 6.ルーブル美術館とヴェルサイユ宮殿(6日目)
 
   ・世界を代表する美術館=ルーブル
   ・ノートルダム寺院、昼食は皿一杯のムール貝
   ・ベルサイユへ
   ・フランスの鍼灸事情
   ・フランスの医療・介護事情

 7.アルプスの山々を見ながら、帰国
                            

 はじめての欧州(イタリア・フランス)旅行

新婚7組など12組24人のツアー

大阪では桜が満開になった4月5日、関西国際空港発ローマ経由
ナポリへと飛び立ったのは昼の1時5分、アリタリア航空
AZ793便。


近畿日本ツーリスト(KNT)が企画した
「憧れのモン・サン・ミッシェル地区に泊まる
イタリア・フランス
8日間」

201045日〜12日)の旅だった。


旅の途中でわかったことだが、ツアー参加者は

 ハネムーン7組、私らも入れたフルムーン2組、
 石川県金沢市からの母娘、若い看護師2人組、
 外国旅行が趣味の
PTA仲間のおばさんたち、
1224人だった。


パンフには「最小携行人員2人」とあったので、
小人数を期待していた。
他の旅行会社では
4050人のところもあるという。
新婚さんは、関西中心だが、鹿児島、三重からも来ていた。


添乗員は、ヨーロッパは10数回というベテランのSKTさん(女性)が
大阪発から最終大阪着まで同行していただいた。


朝日を浴びたモン・サン・ミシェル



新婚さんたちとのツアーだった
(モン・サン・ミシェル)


6万円の「同席ペアシート」

AZ793便のシートは400人ほどだろうか、ほぼ満席。
2
人で6万円追加の「窓側ペアシート」にしなかったら、
確かに同席は困難な状態だった。

ペアシートは国際線のみ。
ローマ‐ナポリ間、ローマ‐パリ間は対象外だったが、
添乗員の計らいで「同席ペアシート」にしてくれた。

ただ、ナポリへの便ではイタリア人たちがいっぱいで満席。

 ちょうど私らの後ろの席に幼児と母親が座ってしまい、
スチュワーデスが
1組の新婚さんに英語で
「譲ってあげて!」みたいなことを話しかけていた。
新婚さんは理解できなかったらしい。

 私が「この親子に譲ってあげてって言ってるようだ」
と通訳??して、理解してもらった。
たいしたこともしていないのに、スチュワーデスから
「グラッチェ」といわれたのがうれしい。



イタリア上空

シベリア上空からヨーロッパへ

機内の航空経路を見ると、AZ793便は
朝鮮半島から中国、ロシアの上空を飛んで欧州に向かう。
途中、シベリア上空から見える氷の海は北極海だ。
始めてみる風景に
2人とも感動した。

 しばらく、真っ白の世界が続く。

そしてスカンジナビア半島から
バルト三国、中央ヨーロッパを経て、
ローマへ約
12時間のフライト時間になる。

 平面の世界地図では遠回りのようだが、
西からの偏西風という向かい風を避けるということもあるが、
地球儀で見ると最短距離なんだという実感がした。

帰国後直後にアイスランドで大噴火

帰国の2日後414日、アイスランドで火山が大噴火した。

16日までに火山灰が欧州北部を覆う。
その影響で
16日以降、
イギリスからイタリア・フランス、
欧州全域で航空便がほとんど欠航した。

 
19日になって、イタリアの南ルートなど一部再開された。
 
21日にパリ、ローマなどへの定期便が再開されるまで、
欧州に取り残されている日本人は
5,500人ともいわれていた。
1週間近く足止めを食っている。

 航空会社の損益は
1230億円ともいわれ、
経済への影響もはかりしれない。

この火山灰に覆われていたら、
その中を突っ切って飛行することになる。



シベリア上空


ヨーロッパを覆った
アイスランドの火山灰

妻の子宮筋腫を抱えて…

ところで、旅立つ前にひとつ心配事があった。

妻の子宮筋腫がまたまた大きくなったことだ。

昨年、女性ホルモン剤を投与し、
 いったん小さくなっていたが、再び大きくなっていた

10
月頃、漢方薬とプチダイエット(朝・夕食事カット)
などをはじめて、小さくすることに成功していた。

 実は、正月に娘たちと
4人で、
済州島
23日の旅を計画していた。
小さくなったことで、
新羅ホテルでの温水プールで水着を着て
泳ぐことまで出来るようになった。

ところが、1月後半になると、また徐々に大きくなってきた。
同じように、漢方薬とプチダイエットを始めて、
おそらく
4月までには小さくできると思っていた。
そうはならなかった。
仕方なく、ジーパンなどのズボンはやめて、
ロングスカートにすることにした。

 また、長いフライト時間で、圧迫症状が出ると、
エコノミークラス症候群になりやすくなるという心配があった。

結局、下腹部の膨脹と下肢の浮腫や排尿障害などの圧迫症状
は以前と比べると、
それほどでなかったにしろ、
不安と心配を抱えたままだったが、何とか乗り切った。
帰国して、数日たってから、小さくなった。

ヨーロッパへ行けたことが自信になったようだ。



ナポリへ乗り継ぎの間
ウィンドウショッピング
(ローマ国際空港)
地中に面したローマ国際空港

イタリア上空から見る風景は緑が多い。
 そして、地中海が見えてきた。

ローマに着いたのは午後6時20分。
 地中海に面したローマ国際空港はまだ昼のように明るい。
 ローマ国際空港は
フィウミチーノ空港Aeroporto Fiumcino
またはレオナルド・ダ・ビンチ空港
ともいう。

日本は日が変わったばかりの夜中の2時過ぎ。
 いつもはとっくに寝入っている頃だ。
 機内でうたた寝をしているし、
ローマ空港でのごった返す人の波で
興奮が眠気を忘れさせている。

 外気温は6℃くらいで大阪より少し寒いが、空港内は温かい。


地中海に面した国際空港近くの街
イースター(復活祭)暇でごった返す

ナポリ行きAZ1267便に乗り込むまで、2時間半ほどある。
乗り込みゲートがよく変更されるらしく、案の定変っていた。

私の時計が変更すると不都合なこともあって、
妻がローマ空港内の売店で腕時計を購入し、
現地時間に合わせることにした。

時計(
BLACK SUIT)は38EURで、
レートが
129円ほどだったので、4,900円。

 空港内はイタリア人たちでごった返していたのは、
イースター祭休暇に突入したばかりだったためだ。
ちょうど日本の盆と正月みたいな状態で、
観光地はどこもいっぱい。

欧州全域で長い人は
1週間のイースター休暇を取るという。

 復活祭キリスト教典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する。「復活主日」、あるいは英語で「イースター(en:Easter」とも言われる。

 復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。2010の復活祭は西方教会東方教会も同日であり4月4であるが、年によっては東西教会で復活祭を祝う日は異なる事も多い
Wikipediaより)

売店で料水購入、“グラッチェ”

ローマ空港の売店では人ごみの中、順番待ちで並び、
ホテルで飲むナチュラルウォーター(
20E)、
生のトマト
100%ジュース(3.6E)
ビール小瓶
(4.6E)、ワイン(2.7E)を買う。
12.8.EURO(1650)

言葉が通じなくても、商品をレジの前に置いて、
事前に陳列棚の金額を合計しておいた
13Eを出す。
あとは“グラッチェ”といって、おつりをもらえばいい。

ユーロ(EURO)は関空で10万円両替していた。
最終日にローマ空港で軽食に足りなかった
2千円分だけ
追加チェンジしたが、パリでおみやげを着払いにしたのを除くと、
8日間で5Eほどの小銭を残して、ほぼ使い切ってしまった。
極力安上がりに抑え込んだつもりだったが…。



ローマ国際空港

娘の彼氏に選んでもらった服装で…

普段は、どこへ行くのにもジーパン姿で、
決しておしゃれとは言い難い恰好をしている。

今回、娘の彼氏にイタリア・フランス行きのスタイルを
コーディネートしてもらった。

3月の私の誕生日には、わざわざ黒のフェルト帽子まで、
オーダーメイドしてくれた。

彼氏は、服飾デザイナーで、難波でアパレル店を営んでいる。

彼氏は「これはローマで、これはパリで着るといいですよ。」
と専門家らしくコーディネートしてくれた。
おかげで、初めての欧州でも、
気後れすることなく、旅の楽しみを倍にしてくれたようだ。


ナポリのホテル

入浴剤入りのふろ

ナポリ空港へ40分ほど足らずで、2220に到着した。

空港からバスで20分ぐらいの初日のホテルは、
KNTランク=Aグレードのナポリ郊外にあるAmerican Hotel
2330分頃に着いた。
日本時間では
6日の早朝7時半頃になる。

フロントで添乗員が部屋のキーを受け取るまで長い間待つ。
眠く、ボーっとする。疲れが相当出ていた。

部屋は4〜5Fに割り当てられた。
人と荷物でエレベーターは
2人しか乗れず、しかものろい。
キーは最後の方でもらったので、
EVを待っていると相当時間が経ってしまう。

とにかく、手荷物だけ持って、
Fまで階段を使って部屋へ行き、
バスタブにお湯を入れるのを最優先した。

 というのも、
「いっせいにお湯を使うと熱いお湯が出なくなる」
という添乗員の説明を聞いていたために、
先にお湯を入れるといけると思ったからだ。
早く寝たかったが、疲れを取るには熱い湯船につかるのが一番。

 妻とトランクだけを残して、階段を
2往復。
座りっぱなしということもあって、いい運動だった。

自宅から持ってきた6日間の入浴剤(6種類のバブ)のうち
1個を入れての入浴タイムはよかった。
妻がどうしても湯船につかりたいというので、
事前に旅行会社に問い合わせ、インターネットでも調べた。

ナポリとモン・サン・ミッシェルのホテルには、
バスタブがある部屋に当たるかどうかわからなかった。
結果的にはすべてバスタブがあった。
4日目のモン・サンでは、可愛いホテルで良かったが、
熱いお湯は出なかった。

とにかく日本人にはおふろが欠かせない。


ナポリの「アメリカン・ホテル」
洗面所と鏡に映るバスタブ


  2日目  ナポリ  カプリ島  ポンペイ  (46)

夜明けの小鳥のえずり 

 2
日目の朝、モーニングコールは6時
 すでに目が覚めていた。

 部屋は狭い。ベランダに出てみた。

 夜明け前の薄暗いなか、外は寒い。
朝焼け間近の澄み切った雲ひとつない空。

 薄暗い明け方の空に半月が輝き、
小鳥の声がすがすがしかった。

 快晴になりそうだ。


ナポリの夜明け前
「アメリカン・ホテル」のベランダから

朝食は配給のュッフェスタイル

朝食は、アメリカン・スタイル(ビュッフェ・スタイル)
 これが
6日間続くことになる。

 この日はすでに前日に配られていたが、
以降、すべてレストランで食べることになった。

旅行前、ビュッフェ・スタイルの意味がわからず、
インターネットで見て納得。
 パンにハムやスクランブル・エッグ、チーズ、ジュースなど
簡単なもの。

野菜なしのようなので、
事前にローマ空港の売店で、
ナンみたいなものにトマトやチーズなどが挟んであるものと、
ツナ入り生パック入り野菜を買っていたので、
部屋でいっしょに食べた。

枕銭として、1泊だけなので、1EURO×2、置いて部屋を出た。

 早速、観光バスに乗り込んで、ナポリ港へ出発したのが、
7時。



ホテル
「プルマン・ゴーシュ」(パリ)の朝食

サンタルチア港の城で写真下車

 ローマまで運転してくれるナポリ人の運転手のはからいで、
 ナポリの海岸、港や王宮、お城など、
ナポリ市内を車窓観光に案内してくれた。

 最初に目に現れたのは、地中海に浮かぶカプリ島。

 海外沿いに走る。
いかにも地中海らしい美しい街並みが続く。

 卵城を目の前にした海外沿いの路上で下車、
写真タイムを取ってくれた。
 サンタルチア
Santa Lucia港近くだと思う。

右にカプリ島を見ながら、
ヴェスヴィオ山
(Vesuvio)から昇った朝日が差し込み、
海岸に浮かぶ卵城をバックにパチリ。

 反対側は朝日に輝く美しい街並みで、パチリ。
 新婚さんたちと取ってあげたり、取ってもらったり…。

 目の前の海岸では、魚釣りをしている人たちがいた。

 
右端に卵城が見える


カプリ島


ヴェスヴィオ山から朝日が昇る


ナポリの街

卵城Castel dell'Ovoは、サンタルチア港の小島に突出して作られた要塞。
もともとはローマ帝国にルクルスが建築した豪華な別荘であった。

11世紀にノルマン人オートヴィル家がナポリを支配すると、要塞として機能を拡大する。ノルマン人がこの城を築くにあたって、基礎の中に卵を埋め込み、「卵が割れるとき、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」と呪文をかけたことが城の名前の由来と言われている。

ナポリ市Comune di Napoli)は、イタリア南部・カンパニア州州都で、
ナポリ県県庁所在地。世界三大夜景の街として有名。ナポリ語が話されていて、ナポリ語での名称はナプレ(Napule)となる。英語名はNaples(ネイプルズ)

「ナポリを見てから死ね」と言われるほど風光明媚な土地としても知られる(現在では「ナポリが死なないうちに見ておけ」という皮肉の意も含まれる)

ナポリ市の人口は約100万で、ナポリ都市圏の人口300万だが、古くから過密が社会問題になっている。

輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、この都市が元になっている。その一方で、今日でもカモッラ(マフィアのことか?)による影響が強い都市としても有名である。

1995世界遺産ナポリ歴史地区として登録された。

(ウキペディアより)

車窓から見たナポリ市内

ヌォーヴォとベヴェレッロ港

 バスはナポリ中心街へ向かっている。

 ヌォーヴォ城の真下を通りすぎて行った先は王宮。

ぐるりと回って車窓観光した後、着いたところが
 ベヴェレッロ(BEVERELLO)のふ頭。

 近くに、有料(1.3E)の公衆トイレが見えるあたりで、
高速船に乗るまで待機。
港を前にしてそそり立つのが
ヌォーヴォ城。
 海の方を見ると、海面に朝日が輝き、
その向こうにヴェスヴィオ山が見える。


ナポリ王宮
     
             ヌォーヴォ城

王宮---パラッツォ・レアーレ・ディ・ナポリ(Palazzo Reale di Napoli)は、かつてナポリ王位や両シチリア王位についていたブルボン家の王宮。他に同国の王宮と呼ばれるものは、カゼルタ宮殿とカポディモンテ宮殿(現在はカポディモンテ博物館)、ポルティチ宮殿(現在はナポリ大学農学部校舎)である。

 今日見られるのはスペイン統治時代の17世紀初頭に建築された宮殿で、多くの追加や変化がある。第二次世界大戦で爆撃も受けている。

 現在の王宮と隣接した館は、サン・カルロ劇場、美術館、ナポリ国立図書館、ナポリ地方観光局を含む官公庁の庁舎として使用されている。

ヌオヴォ城Castel Nuovo)は「新しい(Nuovo)城」を意味し、卵城と区別するために命名された。
 別名アンジュー砦とも呼ばれる。

 13世紀にアンジュー家出身のナポリ王カルロ1世が、フランスのアンジェ城をモデルに建築したといわれている。
 アンジュー家支配末期に度重なる戦闘の舞台となり、大きく破損するが、15世紀から18世紀にかけて改築されて、
現在に残る。正面に3つの円筒形の塔を持ち、2つの塔の間に凱旋門が建っている。

 高速船で、カプリ島へ

 8時35分、満席になった高速船が出港。
 
 船尾から、ナポリの全景はすばらしい。

 リオ、シドニーに並ぶ世界3大美港といわれるだけはある。
 特に夜景がすばらしいといわれている。

 カプリ島へは約40分。
 港の外に出ると、立っているのが出来ないほど船の揺れがひどい。

 座席に戻ってしばらくすると、妻がトイレに行くという。
すぐ後ろの座席に座っていた日本人親子の娘さんといっしょに立ち上がった。船員はすかさずナイロン袋を渡してくれた。

 ひどい船酔いとは思わず、トイレが混んでいて、
帰ってくるのが遅くなってるのかなぁとばかり思いこんでいた。

 結局、カプリ島に着くまで帰ってこなかった。これなかった。




海から見た王宮とヌォーヴォ城



妻が船いとは知らず…

 マリーナ・グランデに着岸して、
人ごみの中で妻を探し当てると、
嘔吐物の入ったビニール袋をもっていた。

「何してたん!なんで来てくれへんかったん。
ひどい人や。吐いてるのわからへんの!」。

「えー!そうやったん。ごめん、ごめん。」
と、ただただ平謝り。

しかし、妻の怒りはおさまらない。
謝りながら、集合場所の方へ歩いてゆくと、
アメリカ人らしい婦人がものすごい剣幕でしゃべりかけてきた。
何を言っているのか、さっぱり理解が出来ない。
あとで、わかったことだが、
トイレの方で妻の様態を気遣って面倒見ていてくれたようだ。

“青の洞窟”へは行けるのか?

 集合してみると、3人の女性がひどい船酔いをしていた。

 青の洞窟どころではない、
と思っていたら、
 添乗員が
「波の具合が悪くて、残念ながら、
青の洞窟へは行けません。
 カプリ島観光にします。」
と謝りながら伝え、
混雑する中をマイクロバスへと案内してくれた。

 標高500mほどある島の高台へ行くまで、
対向車ともすれ違うことが出来ないほどの狭い道を
グネグネと進む。
 確かに景色はすばらしいが、
一人の女性が車中で何度ももどすほどバスの揺れもひどい。













グランデ港に浮かぶ
青の洞窟用のボート?

島の高台のBARで茶とカプチーノ

 高台でトイレ休憩後、一行は一人乗りリフトでソラーロ山へ行き、360度の全景を見るという。
組の新婚と私らはやめて、ここで休憩することにした。

 ここが、地名でいえば「カプリ」。
 高台は「ウンベルト1世広場」と呼ぶ。


 テラスのあるBAR(バール)で、妻用に熱い紅茶(4E)を注文した。
 私はカプチーノ(3.5E)にした。

 高台で風邪が吹き通るのか、陽は当るが、寒い。
 私の皮ジャンを妻にかけたり、宵止めのマッサージをしたり、
看病していると、さきほどのアメリカ人夫婦が隣の席に座った。
手ぶり身振り交えて話しかけ、とにかく「Thank You!」とお礼を言った。




ナポリ人イドに案内してもらって

 妻が落ち着いてきたので、一行と同行せず、
待機していたイタリア人のガイドに、
展望のいいところがあるというので、
妻を残して私だけ案内してもらった。

 可愛いおしゃれなお店が並ぶすてきな小道を通り抜けると、
眼下に港が見える。

 海の向こうにヴェスヴィオ山、そこから半島がのびているのが
ソレント半島。「帰れ、ソレント」で有名だというが…。
半島の南側にはイタリア有数のリゾート地で有名な

アマルフィ
(Amalfi)がある。

 菜の花ごしに見る風景は実に見事だ。

 写真を撮りながら、急いで駆け足でもどると、全員集合していた。バスを待って、港へ下山。

カプリ島 (Isola di Capri) は、ナポリの南約30kmに位置する。風光明媚であり、ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごしたことでも知られる。レモンが特産物で、別名「レモン島」とも言われ、リモンチェッロなどのレモン酒やレモンチョコレートなどの土産品が販売されている。

面積は10.36q(八尾市は18.99q)、外周は約17q。ソラーロ山(Monte Solaro, 589m)が最高峰。

島には二つのコムーネ(都市)、カプリアナカプリがあり、島の北側のマリーナ・グランデ(Marina Grande)には、ナポリやソレントなどからの観光船が発着する島で唯一の商港。マリーナ・グランデ高台にある島の中心地カプリは、フニコラーレ(Funicolare)と呼ばれるケーブルカーが所要5分弱で結んでいる。ケーブルカーが到着する広場からは、プラダグッチブルガリなどの高級店が軒を連ねるほか、ホテルやレストランが点在。

高台を中心として、島内随所には各界著名人などの別荘がある。

カプリ島の周囲はかなりの部分が断崖絶壁に囲まれており、波打ち際には半ば水中に埋もれている海蝕洞の「青の洞窟(Grotta Azzurra)がある。

アンデルセンの出世作となった恋愛小説『即興詩人』では、この洞窟が重要な舞台となっている。鴎外の翻訳では、「琅?洞」(ろうかんどう、琅?翡翠のこと)と訳された。

 





高台から望むカプリ港






 帰りの高速船から見るェスヴィオ山

 帰りの高速船が心配だ。

 添乗員のSKTさんが妻たちのために
酔い止めのガムを買ってくれた。

 しばらくして乗船すると、来た時より、ひと回り大きい船だった。
 外の2階席に座って、ナポリへ向かったが、揺れはましだった。

 遠くの山にまだ雪をかぶっている山々がある。
 ヴェスヴィオ山が段々近づいてくるにつれ、
ナポリの町に浮かびあがって美しい。

  昼食は、ンゴレビアンコと魚料理

 下船後は、すぐにバスでポンペイへ向かった。

 30分ほどで、ポンペイ遺跡の前のレストランに到着。

 妻はすっかり回復したようだ。

 ボンゴレビアンコと魚料理をパンと
注文したワイン&ビールで美味しく食べることが出来た。

 ギターを持った2人組がよく知っているカンツォーネ2曲を
歌ってくれたのはうれしい。
あとで帽子を持って回ってきたので、5Eを入れて、
グラッチェと拍手で送ってあげた。

イタリアでは、食後にエスプレッソを飲む人が多いという。
 イメージとして、カプチーノかな、と思っていた。
習慣に従ってエスプレッソにした。

どす黒い超濃いコーヒーがおちょこぐらいのグラスに少し入っていて苦さは特別だが、口の中をすっきりさせるのに適しているようだ。





帰りの高速船から見る







 ポンペイ遺跡探索

 レストランから歩いて、世界遺産のポンペイ遺跡へ行く。

 料金所のゲートから見える遺跡の跡(城壁)や遺跡入口までの木立が晴れ渡った空にすがすがしい。
松の木はきれいに枝打ちされ、
一番上だけ残して傘のようにしている。

 4月の天候はちょうどいいが、夏はさぞ暑苦しいのではないか。
 見栄えもいいが、
松の木の大きな日傘は暑さを遮るための知恵ではないか。

ポンペイ:町の起源はローマと同じくらい古く、紀元前8世紀頃、イタリアの先住民の一種族オスクにより建設された。その後、ギリシャの都市国家クーマ、エトルスキ、サムニウムに次々と支配され、悲劇の起こった起源79年のヴェスヴィオの大噴火の時にはローマ帝国に支配されていた。

 大通りは、石畳の車道と歩道、車道の石畳には戦車や荷車のわだち、通りの脇にある水飲み場、鉛の水道管、パン屋の石臼や竈、公衆浴場、住宅の中庭や壁画、床のモザイクタイル、2千年前の当時の生活が、そのまま残っている。

 現代とわらぬ生活様式

 最初に入っていったのは、スタビア門手前にある剣闘士の宿舎

 続いて、
スタビアーナ通りからオデオン(小劇場)を経てウロウロ。

 どこをどう回ったのか、
火山灰で生まれたまま化石化した人間の展示場を見たり、
運動場やサウナなどがあった
公衆浴場

住宅の中庭や台所・寝室、
パン屋やピザ店、商店街、売春宿などを見て回った。

 鉛管をはりめぐらした水道設備や噴水設備もあり、
現代とさほど変わらぬ高度な生活を築いていたのには、びっくり。

ポンペイの宗教や政治、経済活動の中心となっていたのが
フォロ
と呼ばれる公共広場
その広場の周りには役所、会議室、商業・経済に関係ある
大きな建物が並んでいる。

 正面にはジュピター神殿と凱旋門、ヴェスヴィオ火山が見渡せる。

フォロに隣接して、毛織物・布地の売買をしていたという
エウマキアの建物
や、
もっとも古い建物で裁判所になっていた
バジリカなどを見て回った。

  スタビアーナ浴場の屋外運動場

:ポンペイで最も古い浴場。

 右側の柱廊にそって、男子用、女子用浴室が並び、運動場にはプールがある。
 各種スポーツと水浴を交互にできるようになっている。


 浴室の壁は2重になっており、中を熱風が通って温めるようになっている。

 天井は溝が彫ってあり、水滴が落ちない工夫もされている。








火山灰に埋もれたレリーフ

 ヴェスヴィオ山の大噴火によって大量の有毒ガスが多くの人の命を奪った。その直後に膨大な量の火山灰が降り注いで、建物や人々を覆った。その当時、まちの人口は1万人弱。

 何年も埋もれたまま年月が経ち人間や動物の肉体が腐食し微生物による分解でなくなる。その結果、火山灰の中が空洞となった。

考古学者たちはそこへ石膏を流し込み、石膏が固まった後、火山灰を取り除くと人や動物のレリーフができあがる。

この方法で、顔の表情や容姿、衣服から装飾品までがレリーフで再現された。




高速道路でローマへ向かう

 260年前(1748)、偶然に発見されて以来、発掘作業が続けられ、全容がわかるまで長い年月がかかっている。
現在、その発掘は
8割ほどだという。

 ポンペイの街から、ヴェスヴィオ火山や遠くに冠雪した山も見え、1時間半は歩き回っても、小鳥のさえずりや晴れ渡ったすがすがしい空気の中で疲れは残らなかった。

 門の前にある土産物店でトイレ休憩したあと、カプリ島を案内してくれたナポリ人のアレキサンドリア?さんと握手を交わして、
 Grazie
Arrivederci!(さよなら)をいい、見送った。


 4
時頃、バスで260Km離れたローマへと向かう。

 ▲ 山の上の修道院

 高速道路は、イースター祭休暇でローマ方面が渋滞。
一行はほとんが爆睡。
その中で、添乗員は
ときどき窓の外に見える風景などに関連した説明をしてくれている。

途中、遠くの小高い山の上に見える建物が歴史的な修道院
モンテ・カッシーノであると教えてくれた。
2次大戦でドイツ軍に占領されているとして、
連合軍が空爆を行って破壊された。
修道院には、キケロやセネカの貴重な写本、
ミケランジェロの作品などの芸術品が残されていて、
それを空爆の前にドイツ軍がヴァチカンへ移送していたために、
消失の難を免れたという。




















モンテ・カッシーノMonte Cassino)はイタリアローマの南東130キロに位置する標高519mの岩山。史上、ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会修道院を築いたこと(529年)で有名。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された。

第二次世界大戦末期にはドイツ軍防衛線であるグスタフ・ラインの重要拠点となったことから、1944年2月15日モンテ・カッシーノの戦い19441-5月)の中でおこなわれた連合軍の空爆によって修道院一帯が完全に破壊された。実際にはドイツ軍は修道院を占領しておらず、この破壊行為は、「連合国の愚行」としてドイツ側の宣伝に利用された。廃墟となった修道院をドイツ軍部隊が要塞化したため、連合軍はこの廃墟を占領するために多大な損害をこうむった(この戦いには日系人で編成されたアメリカ軍の第100歩兵大隊が投入され、多大な犠牲を払いながらも激闘を繰り返し、賞賛を受けた。)。

アメリカ陸軍航空隊の攻撃の前に、ドイツ軍ユリウス・シュレーゲル中佐は修道院にあったキケロセネカの原稿・写本など約1,200冊の書籍と、その他ラファエロレオナルド・ダ・ヴィンチの名画を含む美術工芸品をバチカンへ移送するよう命じた。

移送後、修道院には病気で動けない数人とそれを看護するまだ健康な修道女達が残っていた。
 ドイツ軍将校達は、動ける修道女達に避難するよう説得を試みたが、修道女達は病人たちが移送されない限り、ベッドのそばから離れることはできないと拒否した。511日夜にドイツ軍は病人らを残し、修道院北方へ退却を開始した。

そのなかで、スターリングラード攻防戦の数少ない生き残りで36歳になるシュツットガルト出身のベテラン兵ユルゲン・シュミット伍長が病気の修道士・修道女たちを見殺しにできないと命令を拒否。ドイツ軍将校はシュミット伍長にいかなる機器装備も人的援助も与えないが、彼自身の責任において単独で行動することを許可した。

シュミットは近所の農家からぼろぼろの木製の荷馬車と馬を借り、修道院に向かう彼についてきた兵たちで救出チームを組織し修道女を説得して、モンテ・カッシーノの北側から下山、脱出させた。

 戦後、修道院全体が国家の援助によって17世紀の様式に復元された。

  ドライブインでお土産

 モンテ・カッシーノ修道院が見えるところで、
トイレ休憩を兼ねたお土産店へ寄った。

 日本人のスタッフからお土産についての説明があり、
ここで娘用にカメオ
(230Eかな)、レモン酒(4.5E)
イタリアで大人気の
VENEX SPRAY14Eかな?)、
オリーブで作った
Natural Hnd & Body Cream(8E)を購入。

 この
Creamは、旅行中にできた指のささくれや荒れた唇にすぐ塗りこんだが、効果があった。VENEXは、肩こりや頭痛などに塗ってみるとスーッとし、確かに効く気がした。

 カメオはこの店が今まで見たうちで一番安かった。
それでも
3万円弱。


  渋滞で遅れた夜中の夕食

 予定では、ローマ近郊のレストランには当初8時過ぎに着く予定だったが、ひどい渋滞で22時をまわっていた。
遅い夕食は、アマトリチャーナ
(トマトソースのペンネ)
ローマ名物のサルティンボッカ
(肉料理)だ。
スパゲッティはおいしかった。ワインとビールを注文。
デザートは甘ったるいジェラード。残す人が多かったようだ。

気温は下がり、とても寒かった。
小学生ぐらいから高校生ほどの子どもたち数人が
走り回って、はしゃいでいた。
イタリア人は家族・親せきの絆が固いというが、
どうやら、親戚・家族一同で誰かの誕生日祝いのようだ。

 ホテルに着いたのは、結局11時過ぎになった。
ローマ市内とローマ空港の中間ぐらいのところにある

ARIS
GARDENAグレード)。ここに2連泊する。













 

ゲーテは『イタリア紀行』の中で、 ポンペイの遺跡について、

 「世界にはこれまでいろいろの災禍が起こったが後世の人々」の関心をこれほどひくものは「あまり類がないだろう。」
 と書いている。

 ゲーテが訪れたのは1787年2月で、遺跡が発見され、発掘が開始されてから40年後のことである。



 ▼201046月に、ナポリ国立博物館の全面的な協力を得て、横浜美術館でポンペイ展が開催。
 250点出品された。


【3日目】              ローマのフリータイム    (4月7日)       
10
欧州から、世界中から、バチカン参拝
中・高校生ぐらいの集団もバスで
やってきていた。

サン・ピエトロ大聖堂
Basilica di San Pietro in Vaticano

世界中の信者が参拝に訪れるカトリック教会の総本山、世界最大の聖堂。
 旧堂は326年にコンスタンティヌス大帝が聖ペテロの墓の上に建てたもの(五廊式バジリカ)
 16世紀に教皇ユリウスUの命により増改築が計画され、ラファエッロ
(1520年没)72歳の老境にあったミケランジェロ(1546年終身の建築家に任命、1564年没)がかかわり、1614年に壮麗なファサード(正面)が構築、着工以来、120年の歳月を経た1626年世界最大のカトリック大聖堂が完成した。旧堂が献堂されてから1300年目にあたる。
 165667年に巨大な柱廊を巡らした聖堂前広場が整備された。

東西186.36m、南北137.5m、クーポラの高さ132.5m、その直径42mの規模をもつこの巨大な聖堂は、ルネサンスおよびバロック彫刻によってほとんど埋め尽くされている。『聖ペテロ像』(カンビオ)、ミケランジェロの初期『ピエタ』、カノーバの『クレメンス8世の墓碑』、ベルニーニの『聖ペテロの司教座』と『ウルバヌス8世の墓碑』などが有名。聖ペテロの墓の真上にベルニーニが建てたブロンズの大天蓋は、世界最大の工芸美術品。クーポラからローマの町が眺められる。

バチカン市国1984年に世界文化遺産として登録。

日本大百科全書学館)」より、編集。


最初の訪問地=ヴァチカン市国

 モーニング・コール615分。
2連泊なので、カメラと貴重品など最小限の手荷物だけ。

7時のロビー集合前に、ホテルの周辺を散歩した。

周辺は広い1戸建ての広い家が多く、緑も多い。
 小鳥の声があちこちから聞こえる。

この日も晴れ渡ってくれたが、外は寒い。
 すでに集合していた一行と地下(「−1
F」、ロビーは「ゼロF」と表現)にあるレストランに行って、
アメリカン・スタイルの朝食をとる。
食後のエスプレッソにはまってしまった。

帽子をかぶって食堂を出ようとした時、黒人のボーイさんが
「メキシカン・スタイル?」といってきた。
「ノン、アメリカン・スタイル。
OK?」と答えておいた。
「オー、ソーリー! ナイス・デー!」とかなんとかいったのかな?

   ローマ法王の謁見式とかち合う

 ローマ市内で混む前に、早めに行きたいということで、
735分に再びロビーに集合してから、出発。
いつもなら
1時間ほどで着くらしいが、
この日は、イースター祭休暇の真っ最中。
しかもバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂
(Basilica di San Pietro)でローマ法王(べネディクト16)の謁見式があるという。
 この時間帯は、ヴァチカン博物館などには入れない

ローマ市内では、中・高校生ぐらいの子どもたちが列をなして、
ヴァチカンに向かう姿があちこちで見られる。
もちろん欧州中からも信徒がやってくるのだろう。

最初の訪問地はヴァチカン市国(CITTA DEL VATICANO)
ヴァチカンに近づくにつれ、渋滞でなかなか前に進まない。
到着が
1時間近く遅れるようだ。

                  10


サンタンジェロ城

サンタンジェロ城の頂上
に立つ大天使ミカエル

  サンピエトロ広場前で迷子?

 ローマ市内の地図を広げてみると、
バスが渋滞でなかなか動かなくなったのは
テヴェレ川
(Fiume Tevere)にかかるカブール(Ponte Cavour)の上で、そこからはサンタンジェロ城(Castle San’t Angelo)が見え、
手前にウンベルト
1世橋
(Ponte Umberto T)とおもわれる橋が見える。

 下車地点はヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に向かって
真っすぐに走るコンチリアツィオーネ通り
(V.d.Contiliazione)
 通りは広々として、建造物などはすばらしい。いい眺めだ。

 サンピエトロ広場(Piazza San Pietro)には、
法王の謁見式へぞくぞくと人が集まってきている。

一瞬、妻も、添乗員も見失って、謁見式に臨む人ごみに入り込み、
危なく一行を見失うところだった。少し、あわてて、どきどきし、
不安すらよぎった。広場の真正面でなんとか見つけ出すと、
添乗員の
SKTさんが年配の日本人女性のガイドさんを紹介していた。ほんの少し、写真をとったりしたが、近くのお土産店へ行き、
トイレタイム。あわただしく、ヴァチカンをあとにした。





真実の口……嘘つきは手を咬まれる

 テヴェレ川の南側河岸通りを進んで行って、
途中の橋でぐるっと回り、「真実の口」手前の公園で下車。
途中、大きな橋
(ガリバルディ橋)から川中島の建物や
ローマ時代の橋の跡などが見える。

 公園には泉があり、そこを突っ切って交差点を渡ると
「真実の口」がある
ンタ・マリア・イン・コスメディン

(Chiesa di S.Maria in Cosmedin)
教会がある。

「真実の口」の前で料金を徴収している人がいるが、
案内板には「
THANK YOU MERCI O.50
?」などと書いている。
日本語がない。
オードリー・ヘップバーングレゴリ―・ペックで有名なシーンよろしく、それぞれポーズをとりながら、順番に写真を撮る。

 6世紀に法王ハドリアヌスTが、
付近で暮らすギリシア人のために建てたものらしい。
ロマネスク様式の鐘楼が美しい
(ガイドブック)とある。
「嘘つきは手を咬まれる
(食べられる)
という言い伝えがある「真実の口」は
古代の井戸の蓋だったといわれている。

 帽子とサングラスをとって、
静寂な教会の中を見て、出口に向かった。















コロッセオが滅びるとき、ローマは滅ぶ

 『ローマの休日』で有名になり、
観光客が絶えないとういう「真実の口」。
私ら一行が入った時は数人だったが、
見終わってそこから出ていくバスからみると行列をなしていた。

バスは河岸沿いを北上し、マルチェッロ劇場前をぐるっとまわり、
世界遺産のローマ歴史地区=フォロ・ロマーノを横に見ながら、
有名なコロッセオに来た。

                           (フォロ・ロマーノ公共の広場の意)

 バスが停車したところから、
フォロ・ロマーノのチケット売り場近くに藤色に近い花が満開。
添乗員は「
ユダの木」だという。

ユダの木

 キリストを裏切ったユダがこの木で首を吊って自殺したとされるのでこう呼ばれている。正式名はセイヨウハナズオウ。

「コロッセオが滅びるとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅びる」といわれたローマ初の一大娯楽施設だったコロッセオ。
ここでの見学は
45分間。

青い空に、まずどっしりと見えたのが
「コンスタンティヌスの凱旋門」。

 どこも観光客でいっぱい。物売りも多い。
 黄色い風船を上げたり、横断幕を示して宣伝している団体は
グリーン・ピース」だった。
NO OGM
とあるので、「遺伝子組み換え作物」に反対の意味か? 

 コロッセオ
の中に入る時
間はないが、
間近に見るアーチの外観は迫力がある。

       

コロッセオ:紀元72年にウェスパシアヌス帝が手がけ、80年にティトゥス帝が完成させた。高さ57m(48.5mとも)、外周527m、排水施設や地下道などもある4階建の巨大な円形競技場。5万人の観客席があり、5世紀に入ってホノリウス帝によって闘技会が全面禁止されるまで使われていた。地下に猛獣の檻があり、奴隷の中から選ばれた剣闘士(グラディエーター)と猛獣の対決、人間対人間の戦いなどが繰り広げられた。

 1Fはドーリア式、2Fはイオニア式、3Fはコリント式(パンテオンと同じ様式)、4Fはアーチのないコリント式。

     

 トレヴィの泉:古代ローマ時代に建設されたヴィルゴ水道の改修を記念して、1732年に作られた噴水。


トレヴィの泉でコインを投げたが…

 「トレヴィの泉」(Fontana di Trevi)はさすがに有名だ。

どこをどう通ってきたのかわからないが、
道路の両側に車がびっしり駐車している一車線道から、
狭い路地に囲まれたところに「トレヴィの泉」があった。
いろんな国から、いろんな人がいっぱいでごった返していた。

早速、泉に背を向けて、コインを投げ入れる。
ユーロのコインがなかったので、
ポケットにあった
100円玉、10円玉…
とにかく、交互に投げるところをパチリ。

「楽しい旅を」とか言いながら投げ入れたが、
「コインを投げ入れるとローマへの再訪が叶う」
ということやった。

アイスクリームやジェラートの店のトイレを借りたあと、
スペイン広場へ向かう。






世界中から集まる「スペイン広場」

 「スペイン広場」(Piazza di Spagna)への途中、中央郵便局の前に広がるサン・シルヴェストロ広場(Pza.S.Silvestro)だと思うが、ヴァチカンのサンピエトロ広場から案内してくれたガイドさんが終わりとなる。

 スペイン広場は人でいっぱい。この辺は高級ブランドが立ち並ぶ
“ローマ・ショッピング”
街といっていい。

法王の謁見式が終わってから集まってきたのか、
小中学生〜高校生くらいの子どもたちがあちこちに座ったり、
はしゃいだり、そして世界中からの観光客などで、どこもいっぱい。

 スペイン広場に限らず、ローマでは遺跡付近では
アイスやジェラートの飲食食は禁止。
叫んだり、寝たりしてもだめ。
罰金は
50E

なのに食べてる!??。

スペイン広場:『ローマの休日』でオードリー演じるアン王女がジェラートをなめながら階段を降りてくるシーンはあまりにも有名。17世紀、広場の右側にスペイン大使館があったことからこの名がついた。階段上にはエジプトオベリスクと教会が立っている。階段を降り切ったところにあるのは、バルカッチャの泉で、ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂の建設にかかわったベルニーニの父ピエトロの作品だという。バルカッチャとは沈みかけた船の意。

共和国広場 (Piazza della Repubblica)ディオクレティアヌス浴場の前、ローマ・テルミニ駅のそばにある。16世紀末まで「エゼドラ広場」と呼ばれていた。広場にはローマ皇帝の浴場の翼廊を利用したサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂ミケランジェロが微温浴室を翼廊としたギリシア十字形の広い教会)が面している。

テルミニ駅ターミナルの語源。
「テルミニ」自体の語源はローマ神話の国を守る境界の神“テルミヌス”が由来という説と、古代ローマ帝王ディオクレティアヌスの“テルメ(公共浴場)”がこの近くにあって名づけられたという説がある。


浮浪者とスタイリストたち

広場の横の大通を一人のおじいさんが
両手にいろんなものを詰めたビニール袋をさげてウロウロしていた。服装からみてあきらかにホームレス風だった。

 すれちがうように、まるでモデルのような美しいスタイリストの
女性が、赤と黒をうまく使いこなしたファッションで、
さっそうと歩いていく。

 道路わきの建物は1階がお店で、
2階以上がアパートになっているようだ。
見上げると、
ベランダの花に水をやったり、
手入れをしているのが見えた。
 妻が「あんな風にベランダに花を飾った暮らしをしてみたい」
というのも、うなづける。

 昼食の前に、国鉄テルミニ駅に近い共和国広場の一角にある
「ローマ三越」へ案内された。
 ここは、午後のフリータイムが終わって、ホテルへ帰るときにバスで送ってもらうための集合場所
(午後840)になった。
1組だけ、自力でホテルへ帰るという。
国鉄とタクシーを使ったらしい。

 国鉄テルミニ駅は、
イタリアの各都市や欧州各地からの玄関口になっている。


昼食は、本場ピザ。でかい!

昼食は、テルミニ駅に近い「RISTRANTE-PIZZA」で本場のピザ。う〜ん、でかい。
特製のタバスコ風の香辛料をつけて、ワインと一緒に食べたが、
半分ほど残した女性が多かった。

晴れ上がったローマ市内をうろついていたので、のどがひどく渇いていた。妻にビールを頼んでもらい、ワインとビールでのどを潤す。

イタリアでは水道水は飲めるが、硬水のため、日本人にはあわず、コップ一杯でもおなかをこわす人がいるという。
毎日、
200〜500mlのナチュラル・ウォーターは欠かせない。




トライアーノの市場:Cに建造された穀物配給所。のちに食料や衣類などを扱う市場となる。

   
フリータイムは“無料で楽しめるアート”

 午後の自由行動は、
「無料で楽しめるローマのアート」巡りを
地図片手に行くことにした。

もともと、旅のプランにはオプションで、
ヴァチカン博物館観光とカンツォーネディナーがあった。
 観光代金はヴァチカンは
115,000円。ディナーは5,000円。

 これらは申し込んでいない。

ヴァチカン博物館は現地の入場料が14E(2,000円足らず?)だが、ガイドさんはいない。
確かに、ピオ・クレメンティーノ美術館やラファエロの間、
システィーナ礼拝堂など、イタリア美術の膨大なコレクションを誇る世界屈指の博物館というだけあって、見たいのは山々。

 ほんの少ししかない“ローマの休日”だ。

 歩いて街の雰囲気を肌で感じたかった。


 教会、古代ローマ遺跡…
 どこも街並みは美しい

 レストラン近くのサンタ・マリア・マッジョーレ教会
(S.Maria Maggiore)
があるエスクィリーノ広場Piazza de.Esquilino)から
歩き始めた。
 周りの木立はまだ若葉、陽の光が強く、まぶしい。


 「見るなら、ヴェネツィア広場がいいよ」
と添乗員が推薦してくれた。
 マッジョーレ教会からパニスペルナ通り
(Via Panisperna)を直線で
1kmほど進むと、共和国広場から走るナッツィオナーレ通りにぶつかる。
 そこに古代ローマ時代の「トライアーノの市場」などがある。

 途中、パッカー車が路上にある5種類の大きなゴミ箱からゴミを
回収する風景もあり、いろいろな街並みを見ながら歩くのは楽しい。


               失業率も高い、老人問題も深刻

 道端でアル中らしきおばさんがアパートの壁にもたれかかりながら物乞いをしていた。

スペイン広場でもホームレス風高齢者をみかけたが、欧州のユーロ圏でギリシアやスペインと同じように、国の財政赤字が深刻で、失業率も高い。
 イタリアでは家族の絆が強いとよく聞くが、日本と並んで少子高齢化が際立っているイタリア(
2010年、65歳以上が人口の19.5%)でも、一人暮らしが増えている。

 
10年前の統計だが、要介護で自立できない高齢者は10世帯に1世帯の割で、これ以外に家庭外にも要介護の高齢者がいる家庭も同じ数ほどあるという。
 築
40年を越す家屋が多く、エレベーターのない上階に住む高齢者も少なくない。

 家庭内事故でケガや命を落とす人も多い。
 高齢者を被害者とする犯罪も手を品を変え、多発している。

 日本と同じような社会問題を抱えている。



   ヴィットリオ・エマヌエーレU記念堂





古代ローマの遺跡発掘調査中

イタリア統一の立役者と記念堂、遺跡  

 「ヴェネツィア広場」
(Piazza Venezia)に着いた。

最初に目に入ったのがヴィットリオ・エマヌエーレU記念堂だ。先に進むと、古代ローマの遺跡があり、発掘調査をしているようだ。

 通称ヴィットリアーノの後方には教会、カピトリーノ美術館、市庁舎があり、そして元老院や神殿などの遺跡があり、フォロ・ロマーノへと続くが、そちらの方にはいかない。

 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
 Monumento Nazionale a Vittorio Emanuele II

 1870年のイタリア統一の立役者、初代国王の偉業を称えて建てられた記念堂。1895年着工、1911年完成。
 通称、ヴィットリアーノ。

前面は、国家に尽くした戦士に捧げられた祭壇になっている。内部は無料で解放されているが、有料の展覧会なども行われている。国立リソルジメント博物館もある。

目立つ威容のせいか、地元のローマ市民には「ウエディングケーキ」、「タイプライター」「入れ歯などと呼ばれていて、あまり評判がよくない。近年、屋上に登るエレベーターが設置され、20076月からは有料で登ることができる。屋上からはローマの市街地を一望でき新たな名所となっている。

ベニート・ムッソリーニは、ヴェネツィア宮殿に執務室を置きこの広場に面したバルコニーから演説を行った。




 ヴェネチア宮殿







  美しさと静寂のヴェネツィア宮

 ヴェネツィア広場の横には、「ヴェネツィア宮」(Palazzo di Venezia)がある。
 4〜5mもある門が開いていた。誰もいない。宮殿に関係する展示の案内はあったが入らず、美しさと静けさの中で、しばし休憩。
 天井も高いし、何よりも静寂が気持よかった。

 次に向かったのは、「無料で楽しめるローマのアート」、ミケランジェロの作品だ。

 途中、建造物の中庭に入ってみると、駐車場になっていたが、建物は改修中のようだ。そこに、泉があり、見ると金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。金魚は何と言っても日本的。古代ローマの泉ときれいな水の中を泳ぐ金魚とのコラボレーションは、不思議な気持ちだが、心が落ち着く。

 狭い路地にも、いろんなお店がある。ゲバラのTシャツも売っていた。
 イタリアは中小の商店が多いというが実感する。



 
 ミケランジェロ
Michelangelo  Buonarroti 14751564
 
イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。
 レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ
36日)イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没218日)
 フィレンツェサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。
 芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。
(
日本大百科全書
)


ミケランジェロの彫刻やベルニーニも

路地を歩いてゆくと、目当ての教会があった。
 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
(Chiesa di S.Maria Sopra Minerva)だ。
 帽子もサングラスもとって、中に入ると、それほど人も多くなく、ゆったりとした広さと静けさ、天井の様式や絵、壁画に圧倒された。

 ヴァチカンの美術館もいいと思うけど、ここもいい。

 正面の祭壇の横にある彫刻の掲げた手が、天井から差し込んだ陽に照らし出されている。

   

 反対側に、ミケランジェロの彫刻『復活のキリスト』があった。

 また、どれがベルニーニの彫刻かわからないが、どれも芸術作品はすばらしい。

 ガイドの案内もないが、ゆっくりと自由に観賞したあと、教会を出た。

 小さな広場にはオベリスクを乗せた大理石の象の彫り物があった。
 あとで調べてわかったが、これがベルニーニの手によるものだった。


ベルニーニ作の像のオベリスク
向こうに見れるのがパンテオン神殿



パンテオン神殿の裏の石垣



パンテオン神殿前の広場で演奏



 パンテオン神殿とボサノバ

 オベリスク(古代エジプトの記念石柱)越しに、パンテオン神殿(Pantheon)が見える。

 神殿の裏手まで塀に囲まれ、そこに座ることができる。
 そこで携帯をしていたおじさんがパンの入った袋を塀の上に置いていた。それを狙って、鳩がじわじわとすり寄ってきて、ついにパンをゲット。

 正面に向かうと、すごい人だ。

パンテオンとは、“すべての神々”という意味らしい
 B.C.25
年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近によって創建。その後火災に遭い、120年頃再建されたとガイドブックに書いてある。

 床か
らドームの頂上までの高さと直径
は同じ43.2m
 ドームの中心にある直径
9mの採光用のオルクス()から、差し込む陽の光は、正午になるとパンテオンの正面に来るように造られているという。

 外に出てみると、神殿の前のロトンダ広場でストリートミュージシャンたちがボサノバを演奏していた。

 その前にあるカフェはBARとちがって、値段が高い。

この界隈はローマっ子お気に入りの夜のスポットらしい洗練された店や地元のグルメたちに人気のレストランが点在しているという。

 「無料のアート」はまだ続く。


『聖マタイと天使 (San Matteo e angelo)、1602 イタリアバロック絵画の巨匠カラヴァッジョの代表作であり、コンタレッリ礼拝堂聖マタイ連作画のひとつ『聖マタイと天使』。本作は中央祭壇画として描かれたもので、主題は聖マタイが出現した天使にスコラ哲学を教授される場面を描いた聖マタイと天使で、出現した天使を目撃し驚愕する、写実的に描かれた聖マタイの表情と渦を巻くような天使の衣服の表現が暗中に浮かび上がり、深い精神性と聖性をみせている。また本作は当初、納品する予定であった第1ヴァージョンが、聖マタイの組まれた足が見る者の頭上に乗せられているようだと注文主から受け取りを拒否された為に再度、同主題を描いた第2ヴァージョンとなる(第1ヴァージョンは第二次世界大戦の戦火で焼失)。
       
alvastyle.comより。

 カラバッジョの絵

 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(Chiesa di San Luigi dei Francesi)には、カラバッジョの絵がある。
 ミネルヴァ教会よりひと回りこじんまりとしていて小さいが、天井も柱の大理石の模様も神秘的で美しい。

カラバッジョ(aravaggio1573-1610)

 徹底した写実性と劇的な明暗対比や感情表現で、後にあらゆるバロック期の画家に多大な影響を与えたと言われるイタリアバロック絵画最大の巨匠(本名はミケランジェロ・メリージ Michelangelo Merisi)。
 しかし、その強烈すぎた表現は品位に欠けるとして非難を浴びることも多々あった。

 また画家として名声を得ていたカラヴァッジョは1606年、35歳の時に喧嘩で一人の男と決闘、相手を刺し殺しローマから逃亡。
 殺人犯として追われる身となったが、逃亡先のマルタ共和国で
洗礼者聖ヨハネの斬首』を描き、これが認められ教皇より罷免される。
 しかし、一年も経たずして再度些細なことで決闘し投獄される。一度は脱走を試みるも、数日後に逮捕、同作品の目前で斬首刑を宣告される。享年38歳。











ナヴォーナ広場(上と下)



 ナヴォーナ広場でカフェ、大道芸

 教会を出ると、目当てのナヴォーナ広場まではすぐ近く。
 ヴェネツィア広場から、
1q以上はある。
 カフェが並び、似顔絵や絵画の販売、大道芸人などで盛り上がる広場だ。

 中央には、ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタを表現した「4大河の噴水」がある。ベルニーニによるもの。
 あいにく、工事中で囲いをしてある。その近くで、パンフィーリ宮が見えるカフェで、妻が野菜サラダとジュース、私がビールを注文した。食べきれないほどのピーナッツが山ほど出てきた。
 しばらく休んでから、広場に出てみると、大道芸をやっていた。

 小道具箱がひとつ。
 後ろを通り過ぎる通行人に、女性なら夫気分で、貴婦人風なら犬の恰好で、いっしょに付いていくパフォーマンスが実におもしろい。
 もちろん、箱から小道具を出しては、見ている人を誘いながら、面白いパフォーマンスをする。言葉がわからなくても、仕草が見物人をとらえて、笑いをとる。
 芸の最中に私の方をめがけて人形を投げてきた。それを受け取って投げ返すと、日本人の真似をしてお辞儀をしてくれたり…。
 
30分ほどだろうか、腹の底から笑わせてもらった。
 来てよかった。ついつい、
10Eを帽子にいれてしまった。



夕日に映えるスペイン広場











ローマ三越


アリス ガーデン ホテル
ホテル ARIS GARDEN

  地下鉄はどこだ??

 夕食はいろいろ食べたいところがあったが、観光バスとの待ち合わせ場所に近い方がいいと思い、テルミニ駅の近くにすることにした。

 添乗員の紹介で日本人女性がオーナーの
 「
リストランテ トゥディーニ ガブリエーレ&トモコ」
 (RISTORANTE TUDINI GABRIELE & TOMOKO
)だ。

 歩き疲れて、地下鉄を使う。初めてだ。
 地下鉄はA線とB線があり、A線の「スペイン広場」から、3つ目の「テルミニ駅」まで行く。
 テヴェレ川沿いに歩き、ブランド店の多いコンドッティ通りをスペイン広場に向かう。
 真昼のスペイン広場と違い、夕陽を浴びた階段上のオベリスクと教会が輝いている。

  駅の場所も、チケット購入も、ウロウロ

 近くにあるはずだが、駅の目印の「M」を探す。マクドナルドと間違わないようにといっていたので、最初に見た「M」を駅ではなく、マックと思い違いしてしまったが、そこが駅の「方向」だ。地下鉄ということなので、近くのEVに乗ってしまったら、上へ行っているのか下へいってるのかわからない。アメリカ人風のおじさんもキョロキョロ、不安そうにしていた。乗ったところが下で、しかも駅ではなく、ボルゲーゼ美術館などがあり、城壁に囲まれたかなり広い「ピンチアーノ」という小高い丘に行ってしまった。そこからはローマ市内が見渡せる。

 妻にさんざん文句言われながら、あせる気持ちを抑えて、もう一度EVで下に行き、駅に向かう。あった。自動券売機が。しかし、使い方がもう一つ不安だ。ちょうど、切符を買いに来た中年のカップルに手振り身振りで尋ね、1回券1E2枚入れてチケットを買うことが出来た。

 電車に乗るのは、簡単。テルミニ駅方面と書いてある方に行けばいい。電車は満員だった。

  迷った待ち合わせ場所は「ローマ三越

 スパゲッティはおいしかった。その後、バスの待ち合わせ場所の「ローマ三越」へ行くのに少し迷ってしまい、あせったが、何とか時間ギリギリに間に合った。妻と少し気まずい関係になったので、共和国広場を取り巻く美しい夜景どころではなかった。バスは850分に来た。

 ホテルに着いたのは夜10時前だった。明日は早い。
 モーニング・コール545分。出発は650分。それまでに、例の朝食をすませる。

パリへ行くために、ローマ・フィウミチーノ空港へ行く。


         原爆投下の広島へ、ローマ市長ら訪問

 ところで、帰国後、ローマ市長が「平和教育」のために来日し、広島を訪れた、という新聞の記事を読んで、感銘した。

 記事を紹介すると、

「ローマ市のアレマンノ市長が同市内の高校生10人とともに11日から来日し、広島市の平和記念公園を訪れる。ローマ市は原爆の悲劇を学ぶ時間を公立学校の教育カリキュラムに組み込むなど、平和学習に積極的に取り組んでいる。(中略)

 ローマ市は2003年、ファシズムといった自国の歴史だけでなく、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺など20世紀に起きた悲劇や戦争体験を学校で学ばせるプロジェクト「追憶の学習」をスタート。
 これまでも…アウシュビッツ強制収容所跡に生徒や児童を派遣してきた。

 欧州での出来事に偏りがちだった歴史教育に、新たに広島、長崎への原爆投下を加え…、昨年10月から市内の5高校、13小学校でローマ在住の被爆者から体験談を聞くなど原爆学習が本格的に始まった。…」(「朝日」201049日付)

 ローマ市長は米国とロシアが新たな核軍縮条約に署名したことにふれ、「いまはまさにターニングポイントにある」と朝日インタビューラーに答えたという。

 そして、52日からNPT(核拡散防止条約)再検討会議がニューヨークで行われる。
 これに先立って、ニューヨーク・リバーサイド教会で国際平和会議が開催され、パン・ギムン国連事務総長が「最も重要なことは権力者のメッセージではなく、民衆の側からの運動」だと閉会総会で述べた。まさに、核兵器ゼロへ向けた世界的な運動へ発展しつつある。

 ちなみに、イタリアは軍事費を昨年に続き1割減らし、フランスも年間15%減らすことを決めた。欧州各国では軍事費とともに兵員も削減する。日本はここに手をつけようとしない。

 ユーロ圏ではいま、ギリシアなど深刻な経済危機にあるが、EUの発足は間違っていないと思う。
 共通の通貨を持つことで貿易が盛んになり、経済の結びつきも強くなる。
 何よりも、2度の世界大戦を経験したことで、2度と戦争はしないという決意でもある。

 日本は日米安保条約は軍事面だけでなく、国民の生活全般に及ぶ経済面でのアメリカの従属的面にまで及ぶ。
 世界でもまれな時代遅れの2国間条約に縛られていては、日本はもとより、アジア全体が平和で豊かな経済発展は望めない。古い安保体制から抜け出し、日米間の真の友好関係へ発展させて、アジアでの共同体構想を真剣に具体化していく時期に来ている。



           イタリアの鍼灸事情

 現在、人口の4%が毎年、鍼灸治療を受けている。欧州の平均受診率は8%。日本は6%である。

 イタリアでは鍼灸が普及し始めたのは、196070年代で、80年代に拡大発展し、90年代に医療として根付いた。
 122ヶ所もの国立慢性疼痛センターで国民健康保険を適応できる療法として鍼治療が行われている。

 鍼治療が行えるのは、法律的には医師のみで、約15,000人の医師が鍼治療に携わっている。

 フランスやスペインなどラテン系の国では、「鍼灸師」とは「鍼灸の訓練を受けた医師」のことで、主要都市に13ヶ所の鍼灸学校がある。早くから鍼灸を取り入れているフランスの鍼灸学校との交流が始まりで、その後中国とイギリスの鍼灸学校との協力関係で発展する。




■イタリアの人口は、約5930万人 面積は、日本の4530万Ku。

カトリックが97%。平均寿命は男77.0歳、女83.0歳。

国旗は1796年、イタリアを統一したナポレオンがフランスの国旗の青を緑に変えて制定。




【4日目】 ローマからパリ、夜のモン・サン・ミッシェルへ  (4月8日)


      空港で救急手当て

 ローマ空港で搭乗手続きをしている時、空港会社の女性スタッフが大声で叫んでいる。

添乗員のSKTさんが「誰か、お医者さんはいませんか!」と叫ぶ。

一行のなかに、看護師2人が「医者ではないですけど…」と名乗り出た。私も、「医者ではないが、鍼灸師です」。妻も「柔道整復師です。医療関係者です」といって、看護師らといっしょに4人で添乗員の跡に付いて行った。

イタリア人らしきおばあさんの泣きわめく声が聞こえると、そこにおじいさんがあおむけで意識不明で倒れれていて、何人かで手当てをしていた。
 70歳代か?。みぞおちのあたりを押しながら心臓マッサージをしているイタリア人に代わって、看護師とともに、脈を見たりしながら、私が心臓マッサージをした。
 息を吹き返したようだが、のどに何か詰まっているようで呼吸が出来ない。脈が取れないので、続けて心臓マッサージを続けているところへ、ようやく救急車から救急隊員がやってきて、交代した。

搭乗手続きが終わりかけていた。
 みんなのところへ戻りながら、患者を運んだ救急車を見ていると、受け入れ先の病院でも探しているのだろうか、なかなか出発しない。

空港のスタッフに“グラッチェ!”といわれたが、様態を気にしながら、ゲートへと向かった。

8:25分発パリ行きAZ318便に乗る。飛行時間は2時間足らずかな? 

 残念ながら、アルプスは見えなかった。


  添乗員の機転で企画変更


 パリ シャルル・ド・ゴール国際空港(CDGPARIS CHARLES DE GAULLE INT?L AIRPORT)に着くと、路面が少し濡れていたが、雨は上がって曇り空だった。

 空港から、パリ市内へ向かい、ワールドカップの決勝を行ったサッカー場を通り過ぎ、遠くに見えるモンマルトルの丘の上に立つサクレ・クール寺院やエッフェル塔(Tour Eiffel)などを遠目にモン・サン・ミッシェル(Mont Saint-Michel)へバスは向かう。

 2日前、ナポリからローマに向かうバスの中で添乗員から、次のような提案があった。

「旅行プランでは、モン・サン・…からの帰りに寄ることになっているブヴロン・オン・オージュ村へ、一日繰り上げて立ち寄ったらどうか。400qも離れているモン・サン・…へ、ただバスで向かうだけのスケジュールではもったいない。時間的に十分可能だ。そうすれば、翌日モン・サン・…からパリに少しでも早く帰ってこれるし、1時間ほどのフリータイムが出来るかもしれない。」と。

 いい提案だ。みんなも異議なし。早速、手配のために旅行会社などとの調整に入ってくれた。




ブヴロン村

  国土の半分は農地
   仏の農場=ノルマンディ

 パリ市内から高速道路を、セーヌ川に沿って「北フランスの田園風景を楽しみながら」(knt!パンフ)ノルマンディ(Normandie)を西へすすむ。

 パンフには、こう書いている。

ノルマンディフランスの農場と称される場所だが、

10世紀に英仏海峡を渡ってきたスカンジナビアのバイキング・ノルマン人にちなんだ名前。ノルマンディ公国を創って11世紀にはウィリアム公がイングランドを征服した。」

 国土が日本の2倍で、人口は半分。国土の半分は農地という、自給率122%の国。

 なるほど、パリ市内を出ると、ベルサイユ宮殿のまわりの森林を通り過ぎて、高速道路から見える風景はほとんど広々とした農地、牧草地だった。時折、セーヌ川をのぞんだり、牛や馬が草をはみ、木立に沿って小川が流れる風景などは、まさに牧歌的だ。

 







 
最も美しい村の一つ
   ブヴロン・オン・ノージュ村

 セーヌ川は大西洋・ラマンシュ海峡(イギリス海峡)に注ぐが、パリまでの標高差がわずか50m。ゆったりとした流れになる。

途中、SAで昼食をそれぞれ買い、バスで食べる。

パリから西へ120Kmほど行くと、ジャンヌ・ダルクが「魔女」の判決で火あぶりの刑を受けて有名なルーアン(Rouen)がある。高速道路には、ときどき地方の代表的な名所案内の看板を設置している。ルーアンから120Kmほどにある中都市カーンに向かう途中、フランスで「最も美しい村の一つ

 として脚光を浴びているブヴロン・オン・ノージュ村  
 (Beuvron-en-Auge
パリから約210Km)がある。

 フランスには村が153ある。そのなかで、「最も美しい村の一つ」に認定されているという。

   
 



       Ingres coronation charles vii.jpg
ドミニク・アングルシャルル7の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク』(1854)、ウィキペディアより

ルーアン:10世紀、ノルマンディ公国の首都として繁栄。中心部には「ノートルダム大聖堂」(1250年建造)があり、「救国の聖女」であるジャンヌ・ダルク教会も建っている。ルーアン美術館には、モネ、ルノワール、ドラクロワなどの名画2000点以上が所蔵されている。

  木組の家、小川と洗濯場

 ハイ・ウェイから降りると、狭い田舎の道路を7Kmほど進むと、牧草地や農地と木立がバランスよく広がる田園風景のなかに、木組の家が目に入ってくる。

わずか100戸足らず、村民230人ほどの小さな村だ。

 村に入ると、1軒1軒、家のデザインや木組がちがう個性あるきれいな家々が寄り添いながら、ひとつにまとまったおもちゃ箱のような風景に出合う。

 ブティックの店のガラスドアには、”Welcome”と書いた文字の下に、逆さまに「ご自由に どうぞ」とひらがなのシールが貼られていた。廃墟みたいな家や修理中の家もある。桜と連翹の花が満開になった家。大阪を出たときも、桜と連翹の花が満開だった。

          

村の中を流れる小川に作られた昔ながらの洗濯場。似たような風景に、子どもの頃の田舎を思い出す。

おばあちゃんが小さなお店から買って来たフランスパンを小脇にかかえて歩く姿も、高齢者が村を支えているようだ。

20分ほどで村の家々を見てまわれる。











 リンゴ酒 シードルを試飲

一行は中庭のあるホテル&レストランで、リンゴ酒(シードル)と焼きリンゴをふるまってもらった。リンゴのビールと聞いていたシードルは、おいしいがグラス一杯がちょうどいい。

中庭で、脊髄損傷した3歳の三毛猫(ジョゼフィーヌ)後ろ脚をコントロールできずにすり寄ってきた。観光客が増えたことで、犠牲になったのか?

村おこしで、
 ミシュランのレストラン
高速道路のインターチェンジができた村から木骨造りの館を1975年に、ブヴロンの村の真ん中に運んできて、都市からドライブして来る人達を呼べるような建物として、パヴェ・ドージュ(Pave dAuge)というレストランにした。ミシュランの「赤いレストランガイドブック」にも紹介されている。
 


 



「どこでもそうだが、産業革命後の欧州も、産業化社会によって人を都市に集中させてしまった。ブヴロン・オン・オージュ村も例外なく村人たちを都市へと四散させることになった。

 1870年、鉄道駅が敷かれ、駅がブヴロンの村はずれにオープン。 豊かな牧草で飼育された牛を都市へと輸送し、一時、村は時代の波に乗ってはいた。しかし、第一次大戦後、村は鉄道廃線の憂き目に会う。多いときは千人の人口を数えたブヴロンの村はその過疎化現象を甘受し始め、1933年にはわずか人口333人となってしまった。

広場のホールは老朽化し、周りを取り囲む木骨造りの家々も屋根には穴が開き、漆喰壁は崩れ、村は瀕死の状態に陥っていた。

やがて、第2次世界大戦が勃発すると、ブヴロンの村はドイツ軍に占拠される。しかし、村はノルマンディー上陸作戦の圏外にあった。戦後、経済復興のなかで、鉄道から自動車の時代へ、そして高速道路が建設され、農村風景や村そのものが無視されるかのように壊されていった。同時に、車社会は「好きな時に、行きたい所へ」人を迅速に運べるようになった。

そこで、ブヴロンの村長(ヴェル美優原子)は、このチャンスをいかし、ヴーズヴィル(Beuzeville)の木骨造りの館を1975年、ブヴロンの村に移築。村民の為のホールではなく、都市からドライブして来る人達を呼べるような建物にした。
 現代ツーリスムをいかした、村おこしと村の保存である。
 ここに、グルメのレストランを誘致。レストラン「パヴェ・ドージュ(Pave dAuge)」の評判は高く、日本人でもいまや知らない人はいないミシュランの赤いレストランガイドブックにも紹介されている。また、村長さんは保存協会と連携しながら、村を季節の花々で飾る

 努力も始めた。こうして、ブヴロンは<フランスの最も美しい村>協会によって認定され、リーダーズ・ダイジェスト社発行の本にも紹介されるようになった。

(「エミトラベルオリジナル!
    ノルマンディー
村シリーズ生みの親・浜田達郎氏が語る」より)





ノルマンディ大作戦の激戦地

 ここから、カーンを過ぎるとノルマンディの半島の先端に、カトリーヌ・ドヌーブ演じる「シェルブールの雨傘」で有名なシェルブール(Cherbourg)があるが、どんな町だろうか。

この辺に広がる広大な農地は、第2次大戦のノルマンディ大作戦で激戦地になったという。

モン・サン・…まで、百数10Kmパリから360Km

モン・サン・ミシェルが見えてきた

 小さなとんがり帽子のようなモン・サン・ミッシェルが広大な牧草地の向こうに浮かびあがってきた。きれいな牧草地と農家が散在する村の中をバスが通り過ぎ、ホテルに寄らず、そのまままっすぐモン・サン・…のすぐ近くまで行ってくれた。

かつては海に浮かぶ孤島だったモン・サン・…は、いまは2kmの道路で結ばれている。確かに夕日を浴びた城砦のようなたたずまいは、感動的だ。

 
 





 小さくて石造りの素敵なホテル

 バスの運転手の拘束時間が迫ってきたので、写真タイムだけでモン・サン・…から2Km手前のホテルへ。島内にもホテルは2軒あるが、ホテル「サン・トベール」(Saint Aubert)は、堤防の入口に位置する7軒ほどあるホテル群のうちの20数部屋しかない2階建ての可愛い石造りのホテルだ。

ホテルにはEVがないので、若い1組と添乗員が2階で、あとは全員1階の部屋。
 窓の外には、木が生い茂っており、手入れの行き届いた庭がひろがる。あちこちから、小鳥の声が響きわたっていて、狭い小さな部屋だが、落ち着く。
 駐車場を前に、離れにホテルのレストランがある。
 7時過ぎても、まだ陽は明るい。
 まずビールとトマトジュース、そして40度のカルバトスを頼んで、パンと魚料理の夕食を済ます頃には、あたりは薄暗さが増していた。



  幻想的な世界、危険な帰り道

 少し休憩してから、夜のモン・サン・…を見に行く。
 島までの道路(堤防)は真っ暗闇。時折、車が通るので危ない。
 1年前に、日本人
観光客が車にはねられたという。昨晩も、歩いていた日本人を避けるために車が転倒したという。
 そこで、安全策として、夜光塗料付きのチョッキを着用してもらうことにしているという。

 外の温度は5℃ほどか、真冬の恰好で出かけたが、ちょうどよかった。ホテルを出たのが最後だったので、チョッキはひとつしかなく、妻が着用した。

 堤防を歩いてゆくと、土手に桜が咲いていた。ライトアップされた島が何とも幻想的だ。空には、半月と金星が輝き、満天の星のなか、北斗七星が見えた。堤防からみると島は真北になる。


 観光客がほとんどいないモン・サン・…に入ると、不気味な気もするが、幻想的な美しさが魅力的だ。妻がトイレを見つけたが、汚なかったという。


 帰りは、島の従業員たちが帰るのか、何台か車やバイクが通り過ぎていく。確かに真っ暗で怖い。轢かれそうになる時もある
 懐中電灯がないので、時折、携帯電話やカメラの光を利用して道路を照らしたりした。
 妻の足取りが速い。こんなに早く歩くところをこれまで見た事がない。ついてゆくのが大変なくらいだ。

 モン・サン・…へ泊れてよかったと思った。

 お風呂は、熱いお湯が出ず、妻は入らず、私だけがぬるいお湯を入れて入ったが寒かった。

 歩きすぎたのか、妻は子宮からの出血があった。








   【5日目】
        モン・サン・ミシェルを歩く   (4月9日)
  朝のモン・サン・ミシェル地区

 モーニングコールは7時30分。
 朝食が
810分なので、30分ほど、妻といっしょに周辺を歩いた。
 薄暗く澄んだ明け方の空に昨夜、島の方にあった半月が南の方に移動していた。

朝日が昇って来た周辺の景色も幻想的だ。         

 朝食がすんで、すべての荷物を持って9時、ロビーに集合し、
バスでモン・サン・ミッシェルへ向かう。

 晴れ渡った朝の光を浴びるモン・サン・ミシェル。

門を入ると、フランス人のガイドと合流。先生に連れられた小学生ぐらいの子どもたちの集団が説明を聞いていたり、観光客はどんどん増えてくる。
      

 


ホテル周辺の幻想的な朝焼けの光景






  “天空のラピュタ”?

一段一段、修道院を上がっていくたびに内部も、そこからみる外の展望も、実にロケーションがすばらしい。

 まるで『天空のラピュタ』のシーンをみているようだ。

まわりが見渡せる途中の広場(西のテラス)から頂上を見上げると マロニエ(セイヨウトチノキ)の若葉が目に映える。

 

 

           弧島に戻すプロジェクト

写真の右に駐車場があり、キャンピングカーなどで、観光客や参拝者が寝泊りしていた。

  河口堰(右端)とホテル群(↓)

■モン・サン・ミシュエルは、もともと英仏海峡に流れ込むクエノン川の河口沖、遠浅の海に浮かんでいた。干満の差が大きく、引き潮のときだけ砂地があらわれて本土とつながる。1870年代に常時渡れるように建設された堤防が潮流をせき止め、川から流れ込む土砂が堆積。

 いまでは、島が海に囲まれることはなくなり、陸地化したところには駐車場もできた

 仏政府などが主導し、昔のような「孤島」に戻すプロジェクトがすすみ土砂が流れ込む川に昨年5月に整備された河口堰が威力を発揮、堆積物が少しずつ減り始めた。最終的には堤防を取り壊して代わりに橋を架け駐車場も席の近くに移す計画。   2015年頃には昔通りの島に戻るという

 

■列柱廊(回廊)別の棟へ行くための分岐点の役を果たしていたギャラリーは、かつては祈りと瞑想の場だった。13世紀初頭に建設された「メルヴェイユの棟」の最上階に位置する。

■この列柱廊から食堂、厨房、教会、寝室、古文書保管室、そしてさまざまな階段へとつながっている。西方には海に面した大きな窓がある。列柱には重量を軽くするため骨組みには木材が使われている。わずかにずれながら2列に組まれた小円柱が常に変化する視覚効果を生む。




剣と秤(はかり)を持って、竜を踏みつけ、見下ろす目が鋭い。

ミカエルの像:新約聖書ではミカエルはヨハネの黙示録に登場し、悪魔の象徴である竜と戦いそれを打ち倒す。来世への不安を抱えながら生きていた中世の人々にとってミカエルは、死者を導き、最後の審判を迎えた日の魂を癒すとされていた。

鐘塔の上に突き出るようにして立つミカエル像と同じもの。

 伝統と一般信仰がミカエルを騎士団長とみなす一方、兵器や秤に関連した職業を生みだし発展させてきた。この像は1897年、32mにおよぶ新しい尖塔を飾るため建築家エマニュエル・フレミエが制作したもので、1987年修復されている。
(モン・サン・ミシュエル修道院」発行の日本語版ガイドブック)


名物のオムレツを食べて

 たっぷりと修道院の内部や石畳の街並み、周りに広がる風景を堪能し、バスに乗り込んで、レストランへ向かった。名物のオムレツだが、ふわふわした中味を白味の泡がつつむ。これを前菜に、チキン料理をいただいた。




   

   

 モン・サン・ミッシェルは「聖ミカエルの山」の意。708年、大天使ミカエルがこの地の聖オベール司教に夢の中で啓示したことで建てられた唯一無二の修道院。

●修道院付属の教会:10001010年に建設された。標高80mを誇る岩山の頂上、長さ80mにおよぶ土台にある。身廊ではアーケード、階廊席、高窓の3段階にわたる建築様式。

  
      修道院付属教会のミカエル像

建造物:主要部はゴシック様式で、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。
 教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式1112世紀)、百年戦争後の1421に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば〜16世紀初頭)として再建された。

これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と1315世紀の軍事施設が取り囲んでいる。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897に完成。その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺構も残る。

   11世紀から500年かけて増改築された修道院
         
      

       
    


                  木目が美しいホテル


モン・サン・ミシェルを離れてパリへ向か

モン・サン・ミシェルの歴史

 百年戦争の期間は島全体が要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。

18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され、1863まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3を動かし、1865に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。

19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。

1979年にはユネスコ世界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。

近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつあり、国家事業として、かつての「島」に戻すプロジェクトが進んでいる。

参道(グランド・リュ)。参道から左の狭い階段を登って、自由の塔の方へ行く途中に見えたテラス。院内を一通りまわった後、参道でお土産(40度の酒、カルバドス等)を買う。

パリ手前の高速道路でバイクの追突事故

 バスはパリへと向かう。運転手はきまりで、1時間30分ごとに、15分以上の休憩を取らなければならないという労働規則がある。その時間は、SAでコーヒータイムとなる。

 パリに近いところで、ハイ・ウェイが混みだした。

 しばらく、のろのろ走行していくと、反対車線からの車が全く来なくなった。事故があったもようだ。その現場を通り過ぎると、こちら側の車線で車に追突したバイクが中央分離帯を越えて、対向車線でひっくり返り、そのそばで人が横たわっていた。車の後部はペシャンコになっていた。

 わき見運転による渋滞のようだ。そこを通り過ぎると、スムーズに流れ、ほどなくパリ市内へと入って行った。

エッフェル塔、凱旋門、オペラ座…

  

 昨日通ってきたセーヌ川沿いをバスが逆に走ってゆく。

アメリカは、ニューヨークへ贈呈した本拠本元の「自由の女神」像が見え、すぐエッフェル塔も見える。さらに進んで凱旋門へ行く。ちょうど衛兵の交替式の時間帯になっていた。
 凱旋門を一周してから、オープンカフェやショップの集まる並木道の華やかなシャンゼリーゼ大通りを通り、コンコルド広場から、オペラ座の方に向かう。


  オペラ座界隈を散策
   

 スケジュールの変更で、パリ市内での夕食前、ほんの少しだけ、ぶらりとする時間があった。

 オペラ座の方へ行くと、その前はすごい人だかりになっていた。軍服みたいな制服を着た若者とドレスアップした女性たちが互いに写真を撮ったりしていた。卒業式かな?

 周辺のガラス越しに、ウィンドー・ショッピングをしたあと、夕食の中華料理の店へ行った。

中華料理がアクセント!!

 旅行前に、なんでヨーロッパまで来て、中華料理なんやと思っていたが、ずーっとパン食だったので、決して美味しいといえないがスープやごはんがあって、アクセントとして必要だった。

 米はタイ米だ。


←中華飯店OPERA MANDARIN RESTAURANT

 4つ星のホテルに2連泊

 一行は途中で二手に分かれる。「自由の女神」像やエッフェル塔、モンパルナスに比較的近いSグレード(4つ星)のホテル組と、パリの北はずれの方のスタンダードのホテル組だ。4つ星の「プルマン・リブ・ゴーシュ」(PULLMAN  RIVE  GAUCHE)は、新婚組と私らが2連泊する。

 モンパルナスの高層ビルが望める16(ホテルは23階建て)からの夜景がきれいだった。広々としたバスルームやトイレのある部屋で久し振りにゆっくりできた。

 水は、フランスも水道水が硬水。ナチュラル・ウォーターが
「ガス入り」
(GAZEUSE)と「ガス無し」(NON GAZEUSE) 2本がサービスで冷蔵庫に入っている。











自由の女神像
Statue of Libertyは、アメリカ合衆国ニューヨーク港内リバティ島にある像である。
正式名称は
Liberty Enlightening the World
(世界を照らす自由)である。

 自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して独立運動を支援した
フランス人民の募金によって贈呈され、1886年に完成した。

  自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人民の募金によって贈呈され、1886に完成した。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなっている。1984にはユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

本来のモデルはフランスの象徴マリアンヌである。性別女性で銅製だが、緑青の為に緑色になっている。像の頭の部分までの高さは33.86m、台座からトーチまでの高さが46.05m、台座の高さは47m、台座部分も含めると93m、総重量は225tである。

右手では純金で形作られた炎を擁するたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ合衆国の独立記念日である「17767月4日」とローマ数字で刻印されている銘板を持っている。足元には引きちぎられたと足かせがあり、これを女神が踏みつけている。全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている王冠には7つの突起がある。これは、7つの大陸7つの海に自由が広がるという意味である。

女神は元々灯台であったためニューヨーク港を向いている。

なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。



  凱旋門でちょうど衛兵の交代式の途中だった。

エトワール凱旋門Arc de triomphe de l'Etoile)は、パリシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある。

この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のように見えるので、「エトワール広場la place de l'Etoile」と呼ばれていた。現在、「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。

エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806ナポレオン・ボナパルト(ナポレオンT世)の命で着工。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836に完成した。
 設計はシャングランで、高さ約50m、幅45m。ナポレオンは完成後の1840年にセント・ヘレナ島から遺骸となってパリに帰還し、その葬列が凱旋門をくぐっている。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。

エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦無名戦士の墓がある。

第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられヒトラーが戦車で凱旋した。


シャンゼリゼ通りL'Avenue des Champs-Elysees)は、「世界で最も美しい通り(la plus belle avenue du monde)」と言う表現が使われている。

パリ市内北西部の第8区を横切る約3km、幅70mの大通りである。マロニエ(マロンの木)の並木道となっていて、東はオベリスクのあるコンコルド広場から、西は凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧エトワール広場)まで全長約3km続く。

シャンゼリゼ通りは東に行くにつれ微妙に下り坂になっており、下って行った先にはマリニー広場の緑地とマリニー劇場グラン・パレプチ・パレ等の建物がある。西の方では、両側には有名ブランド店、映画館、キャバレー「リド」、カフェレストラン(そのうち最も有名なものは「フーケ (Fouquet's)」)などが立ち並ぶ。

 なお、"Les Champs-Elysees"とは、ギリシャ神話において有徳の人が死後に住む極楽浄土を意味するエリュシオン(: the Elysium, the Elysian Fields)のこと。そのため、シャンゼリゼ通りは、日本風に言うと「極楽浄土通り」または「極楽通り」ということになる。また、シャンゼリゼ通りに面して、フランス大統領官邸であるエリゼ宮殿(le palais de l'Elysee)があるが、これも日本風に言うと「極楽浄土宮殿」ということになる。

【6日目】
      ルーブル美術館とベルサイユ宮殿   (4月9日)

 ゆっくりのパリの朝

 モーニングコールは7時45分。2連泊ということもあって、枕銭は2?置く。

朝食をゆっくりとって、集合時間の920分にロビーに行くと、手違いでもうひとつのホテルへ先に迎えに行くはずのバスがこちらに来ていて、急いで迎えに行ったために、さらに2030分バスの迎えが遅れるということだった。そこで、ホテルの前を通る高速郊外鉄道(RER)の乗り場など少しぶらぶら。

 シャイヨ 宮からみるエッフェル塔

 10時前にホテルを出発して、エッフェル塔が目の前に見えるシャイヨ
(Palais de Chillot)へ向かう。パリ市内を見下ろせるシャイヨ宮の
広場には、大勢の観光客がいる。黒人たちがサングラスやエッフェル塔
の模型などを販売するために、ウロウロしている。

 晴れ上がった青空にそびえたつエッフェル塔の眺めは壮観だった。
 エッフェル塔の方から吹き上げてくる風がとても気持ちがよかった。

     

 わずか15分程度の写真タイムだった。


    ホテルの部屋から見たパリの朝日

シャイヨ宮:フランスパリ16にある宮殿。エッフェル塔とはセーヌ川をはさんで反対側に建っている。

1937パリ万国博覧会にあわせ、旧トロカデロ宮が取り壊されて建てられた。旧トロカデロ宮と同じ、湾曲した双翼の形をしている。
 現在は、博物館になっている。

1940ヒトラーが、征服したパリを短期訪問した際、この宮殿の前でエッフェル塔を背景に写真撮影し、その写真は、第二次大戦の象徴的なイメージとなった。

1948年12月10日世界人権宣言を採択した国際連合総会が行われたのもここシャイヨ宮であった。現在はそれを記念する記念碑があり、この前の大通りを「人権大道り
esplanade des droits de l'homme
と呼んでいる。








世界を代表する美術館、ルーブル

 いよいよルーブル美術館だ。
ルイ14世がヴェルサイユに拠点を移すまで歴代の宮殿だっただけに、見事な建造物だ。

 庭の中央にあるガラス張りピラミッドは、1982年にミッテラン大統領の「大ルーブル整備」で造られた。
 その脇を通って、リシュリュウ翼から中へ入ってゆく。
 エスカレーターでガラス張りピラミッドの下、半地階へ下りてゆく。真下は逆ピラミッドになっていて、映画『ダ・ビンチ・コード』のラストシーンに使われたところだ。

 館内は全長20Kmにもおよび、展示品も2万6千点(所蔵は30万展)というから、まさに世界を代表する美術館だ。
 1546年〜1678年のフランス王家の美術品が集められている。

 順路は、シュリー翼から方形中庭へ行き「中世のルーブル」から、ミロのビーナスがある1階の「古代ギリシア美術」。「サモトラケのニケ」を階段の途中に見ながら、2階のイタリアとフランスの絵画を観る。
 イタリアの13世紀〜17世紀の絵画、モナリザの絵から「ナポレオンの戴冠式」(ルイ・ダヴィット)、「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ)などのフランス絵画の大作などを観て、ドゥノン翼からピラミッドの下へ行く。
 これでわずか1時間余ほどの観賞だった。

 「すべてをじっくり見るには数カ月はかかる」とは、もっともだ。







『サモトラケのニケ』

BC190年頃)古代ギリシア、エトルリア文明の傑作で、密着した衣紋などヘレニズム美術を最も見事に物語っている。






『ミロのビーナス』BC130〜100年頃。横から見ると、今にも歩きだそうとしている姿が印象的だった。
1821年ルーブルに収まって以来、賞賛され、模写され、引用され、曲解され、大衆を魅了してやまない。しかし、その真価がまだ理解されていない。」




『老人と少年』


ドメニコ作(1490年頃)

:ガイドさんは「レオナルドはこの絵とドメニコを参考にした?あおいだ?」などと説明していたようだが、師といえば、若きレオナルドが仕えたのは、ヴェロッキオである。師が描いた『キリストの洗礼』の一部をレオナルドが描いたが、その描写力を見て、以後絵筆を持たなかったというエピソードがある。

『皇帝ナポレオンT世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠』
 
ジャック=ルイ・ダヴィット作
 1804年、パリのノートルダム寺院でローマ法王ピウス7世が(批判的に)祝福を授けるなかで行われた戴冠式。
 いつからかは不明だが、『モナリザ』だけは、すぐ傍で見ることができなくなった。

 聞くところによると、中国人観光客が触ったりするので、ガラスで囲み、その周囲半円形に立ち入り禁止区域を設定してしまった。

『グランド・オダリスク』
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作(1814年)

「形と線で調和させるように、背中、腕、指は引き伸ばされ、乳房の位置がずれ、肉付けが軽減されている。」と「ルーブル傑作選集」に記載されている。ガイドの話では、正面から見ると胴長に見えるが、横から見るとちょうどよく見えるように描いているという。実際、横から見ると…。

『民衆を導く自由の女神(1830728日)

 ドラクロワ作

 1830年の「栄光の三日間」、パリの人々がシャルル10世の独裁体制に反乱し、首都全体にバリケードを張り巡らせた。ドラクワは三色旗を振る自由の女神を描いた。




ノートルダム寺院近くで昼食

 昼食は、ノートルダム寺院の近くにある
 LE CHALET SAINT-MICHEL(シャレット・サン・ミシェル?)というレストラン。

 「ムール貝の白ワイン蒸し」と肉料理。ムール貝が皿いっぱいに山盛りでできたのには驚いたが、レモン汁をかけて、ビールを飲みながら食べると実においしい。チョコレートいっぱいかかったシュークリームもでかい。


 店は木をふんだんに使った造りで、エルクの剥製もすばらしい。

      
結婚式に遭遇

 昼食後は、近くにあるノートルダム寺院が見える公園まで少し歩いて行った。ちょうど、公園にある教会で結婚式が終わった後で、新郎新婦を取り囲んでいた。

 そこへ、独身の看護師2人が記念撮影。一方、新婚さんたちの何組かは、近くに置いてあった新婚用のクラシックカーの前で記念撮影、“ラッキー!”などとはしゃいでいた。








ノートルダム寺院
シテ島の南東にあり、1345年に200年をかけて完成した。ノートルダムとは「聖母マリア」の意で、1804年、35歳のナポレオンが戴冠式をした場所でもある。

ヴィクトル・ユーゴの小説『ノートルダム・ド・パリ』で有名になった。ゴシック建築の最高峰と称される。
シテ島の西側には牢獄としても使われたラ・コンシェルジェリーがある。

ダイアナ妃の事故現場を通って
     
ヴェルサイユ宮殿へ


 パリで最も壮麗な橋といわれているセーヌ川にかかる「アレクサンドル3世橋」、ダイアナ妃が自動車で事故死したトンネル(3回ほど通った)、など見ながら、パリ最後の訪問地、ヴェルサイユ宮殿へ向かう。パリ市内から20Kmほどのところにヴェルサイユ市がある。


 
            セーヌ
川にかかるアレクサンドル3世橋

途中、パリの高級住宅街がある16区の半分を占めるブーローニュの森を通り過ぎてゆく。

「パリの肺」とまでいわれる広大な森で、武豊がディープインパクトで挑戦したロンシャン競馬場、テニスの全仏オープンが行われるローラン・ギャロス、広々としたバラ園など、できればゆっくりサイクリングでもして回ってみたいところだ。

ヴェルサイユ市に入ると、立ち並ぶアパートの前の道路を犬の散歩やベンチでくつろぐ老夫婦の姿が見える。


ダイアナ妃が「交通事故死」した場所。
激突した柱は向こうから13番目。

トンネルの上のアル広場にダイアナ記念日「自由の炎」がある().







ラ・コンシェルジェリー:フランス革命時には4千人を超える人が投獄された牢獄。多数の貴族も収容され、マリー・アントワネットや恐怖政治で知られるロベスピエールもここの独房から処刑場へ向かった。
 

 王宮の大きさ、広さ、豪華さに圧倒

 ヴェルサイユ宮殿は、その大きさ、広さ、豪華さ、見るものすべてに圧倒される。
 宮殿と庭園はバロック建築を代表し、ブルボン朝の絶対王政時代の栄華をつたえるヨーロッパ最大級のもの。

 入口付近では、やはり黒人の物売りがうろうろ。

ヴェルサイユ宮殿Chateau de Versailles) は、1682、フランス王ルイ14世1638 - 1715 在位1643 - 1715)が建てた。その豪華さと完成度で世界中の宮殿に模倣された。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール・エチケット・マナーが生まれた。

たとえば、の毎朝の着替えも儀式化され、最初に王の息子が肌着を着せ、その後宮殿内の序列に従い序列が下がるごとに徐々に上着の方へ担当が移っていったと伝えられている。

また、現在につながる洋食における席次・テーブルマナーも、毎晩のようにヴェルサイユ宮殿で開かれていた王と貴族が出席する晩餐会に由来し、フランス料理と共に世界中に広まったものである。

ここには、国王の居館のみならず、パリにあった政府機関をすべてここに移し直した。宮廷関係の人間は約2万人、そのうち貴族、執政者が1000人、その家臣4000人、計5000人前後が宮殿内に起居。
 さらに14000人にものぼる従者や兵士たちが付属の建物や町の中に住んでいたという。

噴水庭園…宮殿よりも噴水庭園のほうが建設にかかった労力は上で、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

@「水なき地に水を引く」

…ヴェルサイユには近くに水を引く高地がない。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸に巨大な機械を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水なき地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。

A「貴族を従わせる」

…ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。この体験を一生忘れず、貴族をヴェルサイユに強制移住させた。

「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナが村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を模倣した噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。

「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模倣した噴水。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせることを示している。

B「民衆の心をつかむ」

…ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」 というガイドブックを発行した。それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻 をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイド ブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。
 夏
ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。

 現在、この庭園に入るには、7ユーロの入場料がいる。


贅の限りを尽くした豪華絢爛さ

 中に入ると、
マリー・アントワネットとルイ16世の結婚式が行われた王室礼拝堂
王と王妃が公式な食事会をした
「大膳式の間」
『ヴェルサイユのばら』のオスカルのモデルになったレリーフ
                       
(コワズヴォー作)
長さ73m、幅10.5m、高さ12.3mの鏡の回廊

 
    
鏡の間(ボヘミアン・グラスのシャンデリアの回廊)

 そこからみる庭園

 

 王と王妃の寝室

 

などなど、贅の限りを尽くした豪華絢爛さに、
ただ驚きとあきれるばかり。


フランス革命1789714日、フランス革命が勃発、パリの民衆の手でバスティーユの要塞が陥落した。

 バスティーユを奪った国民議会は826日、「人権宣言」を発令する。「人は生まれながらにして自由であり、権利について平等である。」。

アメリカの独立宣言の精神を受け継ぎ、人権の尊重と国民の主権を主張した。

 同年105日、パリの主婦たちが手に手に棍棒や包丁を持って20kmの道のりをヴェルサイユ目指して押しかけた(左の写真)。翌朝、ルイ16世に対してパンも買えない窮状を訴えてパリに戻るように懇願した。

178910月、国王がパリに移った時、まだ市民の国王への愛着心はあった。民衆の中には「国王万歳」という言葉さえ聞こえたという。しかし、王の威信を決定的に落としたのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」だった。1791620日夜、召使いをロシア貴族に変装させ、王と王妃はその従者になりすまし、馬車でパリを抜け出た。逃亡の手引きをしたのは王妃マリー・アントワネットの愛人といわれた、スウェーデンのフェルゼン伯爵だ。しかし、連絡の不手際からヴァレンヌという田舎町で捕まってしまう。なんともお粗末な逃亡劇だった。

 1792810日の民衆蜂起によって王権は停止させられた。王妃、2人の子供、妹と共に旧タンプル修道院に幽閉されていた国王は、17931月、国民公会で有罪の判決を受け、革命政権の手で革命広場(現在のコンコルド広場)に引き出され、断頭台(ギロチン)で処刑された。また同じ年の1016日、マリー・アントワネットも同様に処刑された。王族としての扱いを一切受けることなく、粗末な身なりで後ろ手にくくられた彼女を見て、誰も王妃と気づく人はいなかったという。

フランス革命後の宮殿

 フランス革命後、1793年以降、宮殿の調度品の大半は競売に掛けられ四散してしまう。1883年、フランス最後の国王ルイ・フィリップが「フランスの全ての栄光に捧げる」美術館として整備することを決める。以後、復元と売却された調度品を買い戻すなどの努力が続けられている。

最後の夕食はエスカルゴ

 夕食は、パリ東駅の近くで「エスカルゴを前菜に、ブッフ・ブルギニヨン(牛肉の煮込み)」。添乗員が案内用トランシーバどがの発信機をなくしたお詫びに、ビールなど一杯の飲料水を出してくれた。エスカルゴを食べれない人が何人かいた。

それぞれの夜

最後の夕食は全員揃っていない。3組の新婚は、モンパルナス・タワーの最上階のレストランで、メモリアル・ディナーへ行った。別のカップルは食後、事前にチケットを購入して、サッカーの試合観戦に行った。翌日、空港で見た新聞一面に「PARIS-SG VS BORDEAUX」の試合が1面に掲載。応援席に座ったのがPARIS-SGで、3:1で勝っていた。

 夕食後は、一行のほとんどがセーヌ川クルーズへ行った。私らはいったんホテルへ帰って、地下鉄でモンパルナスにでも行こうかと考えていた。帰りのバスは2人のための貸し切りだった。

ホテルについて、歩き疲れた妻はそのままで休んでしまった。

セルトン駅周辺をぶらり

 私一人でホテルの近所にある病院など付近を散策。ホテルのすぐ近くに、廃墟となった古い民家があり、周辺ではここだけで、あとはすべてアパートなどビルディングになっている。

 メトロ12号線のコランタン・セルトン(Corantin Celton)駅の手前にコランタン・セルトン病院(Hopital)がある。9時頃なので、ほとんど人がいない。精神科などがあるらしいが、どんな病院かまったく分からない。病院から職員が何人か帰っていった。ジョギングする人、土曜の夜ということもあってか、アパートの一室で若者がパーティらしき大きな笑い声なども聞こえる。

NEW 東洋 TOYOYAKI(SUSHIYAKITORISASHIMI)という看板のある日本食専門店もあった。店内の壁には「日本串?」と書いている。「?」はあぶるの意。

             




ルイ14世の肖像画


マリーアントワネットと子どもたち










































 ■フランスの人口は、約6450 万人。そのうち、パリ(214万 人)を中心に半径約100kmに広 がる7県の田園地帯を「イル・ド・フランス」と呼び、緑したたる環 境と首都圏から1時間以内で別 荘地帯になっており、総人口の1 4%にあたる880万人が居住す る。
  65歳以上の高齢者の割合は  15(1995年現在)で、2020 年には20%に達するという。
 平均寿命は男77.7歳、女84.2 歳。

                      フランスの鍼灸事情

 フランス用のガイドブックには、「イザという時の医療機関」として8か所紹介されている。いづれも「日本語が通じる病院や医師について」とあり、そのなかで「内科・鍼灸治療医」と紹介されているのが2か所あり、日本人医師の名前が書かれている。

 実はフランスでは、けっこう鍼灸関連の歴史は古い。

 フランス人医師(皮膚科)のアラン・ブリオ(Alain Briot)氏によれば、鍼灸医学の知識がフランスに初めてもたらされたのは1671年、フランス人イエズス会士が執筆したことに始まるという。そこでは、鍼は英語でAcupunctureと訳されているが、17世紀にイエズス会の人たちが出版物で最初に作りだしたものだ。灸はMoxa(「もぐさ」。現在、Moxibution)という日本語を起源にしているが、オランダを通じて生み出された。(2005年「全日本鍼灸学会雑誌551号」)

 フランスで鍼灸が実際に医療として行われるようになったのは20世紀になってからで、北京にフランス領事などとして18年ほど滞在していたスリエ・ド・モランによる。中国滞在中、赤痢とマラリアにかかり、日本で療養のために滞在している。彼は1957年、明の時代の『鍼灸大成』などからまとめた彼の不朽の名作『中国鍼灸学』を出版。現代、フランスだけでなく、ヨーロッパでも、いまだロングセラーになっている。また、1950年代の耳針法を作り上げたポル・ノジエなども有名である。

          「医師に限定」の鍼灸だが…

 フランス針医師科学協会のDr.Patrick Sautreuil氏によれば、現在のフランスでは、鍼灸施術は法律上で医師に限定されている。10年前の資料では、約6000人の医師が鍼灸治療を行っており、鍼教育を修了した鍼医師は毎年約30人が誕生する程度だという。1990年以来、医師が針師として開業するには、9か所の大学における共通免状が必要だ。ガイドブックにあるように、鍼治療を行う医師の大半は個人営業の中で行っており、都会の病院では少ないという。前述のアラン氏によれば、医師の資格なしに針術を施す人(マッサージ師)が多く働いており、中国出身の移住民の中にも非公認の針師が少ないという。

治療内容は、運動器官の痛みが多く(80)、ほかに消化器系、呼吸器系、婦人科系疾患、ストレスや睡眠障害などである(2001年「全日本鍼灸学会雑誌515号」)。


                 フランスの医療・介護事情

 イタリアに関する医療と介護については、関空からローマへのフライトタイムで目を通していたが、
フランスに関連する医療や介護に関しては、パリに向かう飛行機の中で、目を通すことにしていた。

 以下、いくつかまとめてみると、

(1)フランスの医療は、国民皆保険制度で、国の保険セキュリテ・ソシアルに入っていれば、がんなど指  定された疾患での入院費は原則、無料。ところが、入院しても、自宅で治療を受けたければ、病院と同  じ治療が受けられる「在宅入院(HAD)」制度がある。

   HADの試みは40年ほど前の1950年代に始まる。当初は一部の医師らの自主的な取り組みだった  が、最近の5年間で利用者数は1万人になるという。国内約240か所あるといわれるHADの多くは病  院やNPOが設立している。政府の入院日数短縮という医療財政改善策として積極的にすすめられ、
  1日当たりの経費は入院に比べて、3分の1程度で済むとされる。認知度はまだ低いようだが、HAD  パリの調査では、利用した人98%がサービス内容に「満足」と答えている。

(2)医師はもちろん、地域で独立開業している開業看護師やソーシャルワーカーらと力を合わせて、在宅  での治療をHADの「チーム医療」が支えている。日本でのチーム医療は「病院内」だけであるが、
  「病院外」でチーム医療を考えていくことは今後、日本でも求められる。実際に、愛媛県では無医村地  帯が多くなり、県立病院が音頭を取って、医師の代わりに鍼灸師も活用しながら、在宅医療の在り方を  模索している。

(3)HADの取り組みが始まる40年前、介護事情も同じような取り組みがされている。
   高齢者が長く在宅でサービスを受けて暮らせるように、と介護制度も見直されてきた。
   フランスは「個人主義」が強い国といわれているからか、都会でも、田舎でも親世帯と子世帯の同居  は少ない。ただし、介護が必要な場合、毎日会社の帰りに親の家庭に立ち寄るケースも珍しくないとい  う。しかも、女性があそのことで仕事を辞めるなどの犠牲になるようなことはない。

(4)介護制度は、ホームヘルプと在宅看護サービスが中心に行われている。
   ヘルパーは県から、看護師は国から、それぞれ給料をもらい、必要な時に自宅に直接訪問する。
   とくに、在宅看護サービスは、医師の処方箋に基づいて、コーディネーター、看護師、医療介護士な  どがチームを組んで看護・介護活動を行っている。

(「朝日」2010.1.28付などを参考に編集)


【最終:7〜8日目】   パリからローマ経由で帰国の途へ      (411)


 フランスでは日曜日の早朝だが、帰国の日がやってきた。モーニング・コールは5時45分。

朝食後、710分ロビー集合で、他の一行のホテルへ立ち寄って、ドゴール空港へ向かう。

空港はすでに大勢の人でいっぱい。
 添乗員が「お土産の包みにしたりすると、喜ばれるし、思い出にもなる」というので、現地の新聞や雑誌をいくつか集めて、バックに詰め込んだ。

 ローマに向かう空から、アルプスの山々が見えた。
 すばらしい景色だ。

ローマでの乗り継ぎには2時間ほどあり、軽食を取った。
 サラダ・ボールとサンドイッチ、それにビールを買おうとしたがユーロが足りない。ここで、2,000円以上から両替可能というので、パスポートを見せて、両替をしてもらった。

帰りの機内は、混み具合に余裕があり、3席を2人で座ることができて、エコノミーでも、けっこうゆったりして、帰国することが出来た。
 機内食と関空着陸1時間前の軽食をとって、関空に着いたのは、ほぼ予定時間の411()の朝10時頃だった。

 初めてのヨーロッパで、ほぼ快晴の日が7日間も続いていたが、
日本では朝から1日中雨だった。























済州島(チェジュド) 3日間の旅
2010年1月2〜4日

娘2人と夫婦の4人で、火山の島で世界遺産の済州島(チェジュド)へ2泊3日、
うち丸一日フリータイムの旅をした。

島の守り神=トルハルバン(石のおじいさん)と
左下は島を創った神が誕生したという三姓穴
上は、柱状節理帯。下は、天帝瀑布。
山房山とハルラ山 韓国で一番高い山、ハルラ山。
松岳山と日本軍が造った魚雷艇「回天」などを隠していた洞窟。チャングムの最後シーンに使われた。
旧日本軍の戦闘機の格納庫群=「掩体壕」と平和博物館

城邑民俗村(上)と城山日出峰(下) 済州市の東門市場(上)と
ハルラ山をバックにした白菜畑(下)

オールインワンのロケ地、ソプチコジの海岸














広州・開平・香港・マカオ4日間の旅
2008年05月03日 (土)

2008年4月26日〜29日4日間、香港・マカオ・広州・開平を旅した

【目次】
  ・旅の動機
1.広州から世界遺産登録の開平(1日目)
  ・「日本より30年遅れている」
  ・「公為下天」“世界はみんなのために”…中山紀念堂
  ・広州博物館の鎮海楼と売り子
  ・伝統中国医療で最古・最高の大学、広州中医薬大学
  ・高速道路と田園風景、開平へ
  ・5つ★ホテルと郷土料理?

2.世界遺産登録の開平からマカオへ(2日目)
  欧陸風情の「赤坎(Chikan)古鎮」へ
  ・
華僑の豪邸「立園」
  ・昭和の農村風景に似た自力村
  ・要塞風の建築物、たい楼
  ・経済特区=珠海市を経て澳門(マカオ)へ
  ・珠海市の「拱北口岸」でイミグレ
  ・マカオの世界遺産めぐり
  ・マカオの全市民に8万香港ドル
  ・ポルトガル風のコロニアル建築様式とセドナ広場
  ・338mのマカオタワーとバンジージャンプ
  ・カジノでギャンブルに挑戦!

3.高速船で香港へ(3日目)
  ・霧ぬむせぶ香港
  ・サンパン船から水上生活を見る
  ・映画「慕情」の舞台、パルス・ベイ
  ・香港島から九龍へ、庶民の信仰のメッカ「黄大仙」
  ・大阪のおばちゃん風の商品案内に拍手喝采
  ・百万jの夜景、オープントップバスで夜の繁華街

4.高速鉄道で、九龍〜広州。そして帰国(4日目)
  ・最後の旅、九広鉄道の直行列車に乗る
  ・列車内で、妻が「旅のメモ」
  ・
2008年の中国事情
  ・
日本と同じようなバブルの崩壊を経験した香港

■旅の動機

「香港・マカオは行ってみたいな」

「そうやな。行ってみたいね」で、今回はほぼ決まった。

 選んだ理由は、強いて言えば、
特異な発展を遂げてきた歴史やエキゾチックな街のイメージに魅かれ、
一回は見ておかないとね、ということで夫婦の意見が一致。

 それに、めざましい経済発展をとげている「南の窓」である広東省の省都、広州。

そして、いまやラスベガスをも抜く勢いのあるマカオ。

一国二制度の香港。

バスやら船やら鉄道やら、なんとなく旅の気分があり、楽しそうだった。

 当然、“日程・価格”との折り合いがなければ、無理。
 そこへ、2月頃,旅行雑誌(阪急交通社の「トラピックス倶楽部」)が送られて来た。

【1日目】広州から世界遺産登録の開平へ  
        
 関西空港、10時10分発、JAL605便。広州へは3時間45分のフライトだった。昼は機内食。



 関空は晴天だが、春がすみ。広州は、ややうす曇りだが、かすみ具合がちがう。
広州の空を覆うどんよりとした大気は、大阪が大気汚染でかすんでいた頃を思い出す。

 ツアーの一行12人といっしょに、空港で迎えのバスを待っている間、暑い!蒸し暑い!。

 中国東北地方のハルピン出身のガイド、金さん。

「朝は19℃だったけど、いまは28℃ですね。でも湿度が高いんです。65%ほどありますね。」

と流暢な日本語で教えてくれた。確かに、体感温度は30℃は超えているようだ。

■「中国は日本より確実に30年は遅れている」

 広州は、中山紀念堂(約30分)と鎮海楼(同)の2か所。

 

 空港からのバスで聞いた話を紹介すると、

 ●「広州は中国で3番目の大都市で、人口1,800万人。
北京より2,400`のところにある(中国は南北5,500`、東西5,000`)。」
  ネットで調べると、人口720万人とあった。
これはいつの時点なのか、とにかく急激に人口が増えている。

 ●「(香港に隣接する経済の大発展都市である)深せんは人口1,300万。
数年のうちに広州を追い抜くだろう。
  広州には日本企業が800社、深せんは600社、広東省全体で3千社が進出している。」

 ●「広州の経済発展は、車のcvレート登録が1日800〜1,000台といわれ、
車社会の勢いはすごく、
高速道路の建設などはあちこちでみられる。」

 ●「3年前から、広州市内でのバイクが禁止された」という。

 台北に行ったとき、街中にバイクがあふれ、ひどい排ガスに辟易したことがあるが、
なるほどバイクはほとんどみかけない。

 しかし、広州は車の量が多い。
市内や郊外で吐き出される大気汚染も加わってか、
空気の汚れや新旧いりまじったごちゃごちゃした街並みが印象的だ。

 ただ、北緯23度に位置する広州は亜熱帯で、北回帰線が横切っている。
1年中温暖で多雨。高い草木が生い茂り、大気の汚れを洗い流してくれているようだ。

 あとで200`ほど離れた開平市に向かうことになるが、
開平では逆にバイクだらけで、しかも3人、4人乗りはざら。なかには6人乗りも。

 広州は近隣の農村などから人口が集中してきており、
住居は5〜10階建のアパートが多い。
 高いのは16階のものもあるが、アパートにはすべてエレベーターがない!!。

 東京で暮らしていたという金さんによれば、

「中国は日本より確実に30年は遅れている」。

■「公為下天」“世界はみんなのために”…中山紀念堂

 最初の観光先、中山記念堂は、周囲をモダンなビル街に囲まれながら、
大きなガジュマルなどの木々や花の多い、
 ゆったりとした空間のある威厳あるたたずまいだった。

 バスの駐車場の上に覆いかぶさるような木は、
 金さんいわく、「マンゴーの木で小さな実がなってる」と指さしてくれた。
 ここのガジュマル(細葉榕)は広州の名木に登録されている。

 中国革命(辛亥革命)の父、孫文(字が中山)を讃え、
広州市民と華僑によって1931年に建てられ、1998年に大改修された。

紀念堂の正面にある「公為下天」という孫文の直筆による額は、印象的だ。

  

「世界はみんなのためにある」

この額の意味を、今の中国にあてはめると複雑な思いがする。

 中は、広々とした天井の高い演劇場になっている。
ちょうどコンサートがあるらしく、音響調整をしていたが、
実にいい音がかもし出されている。

正門を出たところに広州市の「愛国主義教育基地」という碑があったり、
そのほかいろいろな装飾なども垣間見られたが、
30分のスケジュールでは、まったく未消化状態だ。
 
■広州博物館の鎮海楼と売り子

 2000年を超える悠久たる歴史のある広州のシンボルだが、創建は明の時代の1380年。
 海賊の侵略に備えて建てられた5層の木造建築で、博物館は1929年に創設されている。

 1階は漢〜元、2階は明〜清、3階は清末〜民国初、
4階は広州の風俗、5階は茶室と土産物店、テラスとなっていたようだが、
ここもやはり駆け足で説明を聞きながらまわったので、鑑賞したり、歴史を考えたりする余裕はない。

 中庭には、アヘン戦争時代の大砲があるのだが、これも見る時間はなかった。

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 隣にある建物へ移動すると、いろいろな民芸品が展示されており、
それが、商品なのか展示物なのか、とにかく例の如く職員らしい服装の“売り子”がおり、
商魂たくましい誘いの説明をなんとなく無視するそぶりに懸命だった。
 ただ、試飲で飲んだお茶はおいしかった。

 日本人相手の売り子さんたちは、「このお茶はメタボにいいですよ。」

 「メタボ!よう知ってるね。」

 みんなで顔を見合わせながら、日本の情報をしっかり生かす商魂に関心することしきり。
 そして、「お土産にどうぞ!」と上手な日本語でしっかり勧める。

■伝統中国医療で最古・最高の大学のひとつ、広州中医薬大学

 たまたま、車は広州中医薬大学前を通った。
 設立は1956年だが、中国伝統医療機関と広東省政府の両者で運営され、
上海や北京などの中医薬大学とともに、最も古く設立され、敷地40万u、蔵書77万冊。
 第一・第二・基礎医療学部、薬学部、針灸学部、看護学部のほか、
経営・社会・教育などの学部もあり、6つの病院、13の研究機関などがある。
学生は8千人を超える。

■高速道路と田園風景、開平へ

 広州市をあとにして、
乗り心地が決して良くない小型バスで12人と金さんを乗せて一路、開平市へ。

 高速道路だが、アスファルトではなく、コンクリートだろうか? 舗装の状態はよくない。

 窓からは、バナナ畑や野菜畑、田んぼ、点々と広がる池が目に入ってくるが、
ガタガタ揺れる小型バスは居眠りのリズムを作ってくれているようだ。

 途中、GSでトイレ休憩中に、金さんがバナナや水を仕入れてきて、サービスの配給。

 「楽しんでください。皆さんの喜ぶ顔を見るのが好きです」と気配りに余念がない。

 農薬混入のギョーザ事件や中国産への安全性の問題が国際的に問題なっているだけに、
高速道路から見えた、畑で農薬散布している姿に、食事への一抹の不安もある。



 金さんは、飲みきれないほどの蒸留水をくれたが、
荷物になるとはいえ、大事な水として、持ち歩いた。

■珠江の“半島”に立つ5つ★ホテルと“郷土料理”? !

 地平線まで広がるような広い大地をぼんやり眺めているうちに、
時差1時間遅れの現地時間夕方6時過ぎ、
最初のホテル「潭江半島酒店」(EVER JOINT HOTEL)に着いた。

 34階建ての真新しい五つ★のデラックスクラスのホテルだ。

 部屋からは、潭江(Tanjiang)の流れと対岸の落ち着いた街並みが見える。



 夕食は、ツアー一行12人で円卓テーブルを囲んでの開平郷土料理。
 スポーツ関係の中国人たちや家族が遠慮のない会話をしながら、
少々うるさいほど楽しく食事をしていた。

 最初に出てきたのは、アヒルの足とハチの巣、豚煮だ。
 1本600ml=38元(約500円)の地元のビール(珠江?酒)によく合う。

 “純生”のラベルに「釣魚台国賓館宴会用酒」とあった。
「釣魚台」は北京にある、迎賓館。国家のお墨付きということか?

 最初の皿を一切れづつ、取っていくと最後の3人までハチの巣がまわらなかった。

 金さんに言うと、しばらくして、一皿追加された。金さんが、支配人に言ってくれたらしい。

 アヒルの足、味はまぁまぁだが、あまり食べれるところがなく、実は、歯を痛めてしまった。

 これが旅の間、ずっと続くはめになった。

 次に運ばれてきたのは、トウモロコシを主にしたスープ。いい味している。
そして、にんにくの芽とチンゲンサイ、里芋の炒め物。
川魚や、水かきとわかるものまで入ったアヒル一羽全部使った料理、
ビーフンの炒め物などが、そんなに濃くなく味付けし、
それなりにおいしい。
ご飯はタイ米でハスの葉でふかしたもので、香ばしい。
最後に麺とデザート。

 確かに、郷土料理的だが、本場の広東料理なのか、わからない。

 食後、部屋へ向かう2階のショーケースを見ていたら、
ホテルウーマンが電気をつけてくれた。
乾しアワビや乾しキノコ(大花茹、ドライ・マッシュルーム)、乾しナマコ、
狭心痛によいとされる田七(人参三七の根)、
それにフカヒレ、高麗人参、鹿茸など高価な漢方薬が置かれていた。

 昨年、世界遺産に登録された開平市だけに、
高級ホテルとしては外観もよく、ロビーや食堂、
その他の施設は高級感?にあふれていて、ベッドの寝心地もいい。

しかし、よくみると、建具の作りは雑さが目立つ。

【2日目】世界遺産登録の開平、そしてマカオへ 
      
 朝6:30起床(現地時間)。
7時から、朝食の広東風バイキング。やはりフルーツ類が多い。
8時には、朝もやのかかるホテルを後にして、開平の世界遺産へ向かう。

 ●“古鎮悠悠”の「赤坎(Chikan)古鎮」へ。

 開平市内を車で数10分ほど乗ると、「商店街」(写真)と説明してくれたが、
日曜日の早朝ということもあり、人通りはほとんどない。
ときたま、食堂らしきところで、朝食を食べている風景に出くわす。

着いた先は、開平市赤坎(ツーカン)。

  

 この辺は、赤坎鎮一帯を流れる潭江にかかる“下埠橋”を境に、
堤東(東側)が「関」さん一族、
堤西(西側)が「司徒」さん一族、
と住み分けをしているという。

バスは堤西路側に止め、影視城から堤東路を望む。

写真左から2枚目の左の方に木の陰になっている塔は
「司徒氏図書館」で(赤坎鎮下埠堤東路)、
塔の上部に“時計塔”があるというが見えない。

1925年、アメリカとカナダ、マカオなどで成功した華僑の司徒一族が建てた。

地下1階地上3階建て。1926年に時計塔を増築した。
現在の蔵書は約37,000冊。

(赤坎鎮上埠堤西路には「關族図書館」があり、
1931年、やはり海外で成功した華僑の関一族が建てた。
蔵書は約22,000冊あるらしいが、現在は光裕中学校の一部になっている。)

 写真右から2枚目の左側にあるのが「居楼」で、
3方を騎楼(民家)に囲まれてしまっているため、全容は見えない。
橋から川に沿って欧陸風情街が異国情緒をかもし出している。

 ■華僑の豪邸「立園」

 立園(Li Yuan Garden)はアメリカ華僑・謝維立という個人が1920年代に造った庭園だ。

立園 

入場門をくぐると広々として、手入れが行き届いている。
謝維立さんのセカンドハウスというが、
中に入ってみると、開平市の世界遺産の写真などが展示され、
5階建ての邸宅は、バスタブや洋式トイレ、釜戸、応接間、バルコニーや屋上など、
贅沢な限りを尽くし、調度品もそのまま。

 バラが好きだったらしく、庭にはバラがいっぱい。
銅像を囲むハートの造園は、寵愛した第2夫人からのプレゼントだという。
邸宅の資材を運びこみ、交通の手段にもしていた運河もあり、
華僑が海外での事業に大成功した。

祖国でその贅沢ぶりを誇示した大邸宅・大庭園は、
今の中国の異常な貧富の差、格差社会を象徴しているようでもある。

 

 昨年、訪れた厦門(アモイ)には、
シンガポールのゴム園で大成功した「マラヤのゴム王」こと=陳嘉庚がいる。

彼は、毛沢東時代に資材を投じて、小学校から大学まで、
また華僑博物院はじめ公共施設をつくった。
同じ華僑でも祖国の発展のために尽くした人もいる。

 ■「開平たい楼と村落」

 のどかな田園風景を、ガタガタの未舗装の道を大きく揺られながら、
車はゆっくりゆっくりすすむ。

ようやく着いたのが潭江支流の丘陵平原沿いにある自力村(開平市塘口鎮)。



駐車場からは田園に囲まれた道を通っていくことになる。
入場券売り場もあり、粗末なゲートをくぐると、
すぐに数え切れないほどのガチョウやアヒルが飼育されていた。

 田園風景を目にしながら、数100bほど歩いていくと、望楼が浮かび上がってきた。
2007年6月「開平の望楼と集落」として世界遺産に登録されただけのことはある。
いい眺めだ。

いまは人は住んでいないが、周辺には農家の人たちがのんびりと暮している。
ニワトリを飼い、なかには烏骨鶏もおり、
40〜50年前の日本の農村風景を見ているようだ。

 ●たい楼〔diao lou〕とは?



 広東省開平市に1833棟が現存するという要塞風の建築物。

 多くは華僑によって清朝末期から民国時代にかけて建設された。
防犯や洪水に備えた4〜5階建て。
西洋と中国の両方の様式が入り交ざった豪奢な建物が
緑豊かな農村に無数にたたずむ。

 人口67.8万人に対し、開平出身の華僑が75万人、
代表的な華僑の故郷でもある。
海外で一旗揚げた華僑によって立派な?楼が次々と建設されていった。

 開平たい楼の主な分布は「塘口」「赤坎」「百合」「蜆岡」の4つの鎮となる。

たい楼は主のいない廃墟となっているものも多い。
現在、開平市の「旅游資源開発中心」等で観光客向けに管理。
整備されているところは
「自力村」、「立園」、「赤坎」、「馬降龍」等となっている。

 ●たい楼は何のために作られた?

 たい楼の主な役割は、当時横行していた盗賊から財産を守ること、
頻繁に起こる洪水対策、もちろん住居としての機能、
さらには頻発する学生、教員の誘拐に対応するため、
学校としても利用されていた。
また、当時誘拐の対象は殆どが男性であったため、
男性のみ宿泊できる施設としても存在した。

 ●たい楼の構造

 殆どのたい楼は低いものでも3階建て、主流は4〜5階建てで、
最も高いもので9階建てとなっている。
コンクリートの分厚い壁(厚み1メートルに達するものもある)に、
窓には銃弾を弾く鉄の扉が取り付けられている。
それと同時に、入口部分やバルコニー部分には銃口を差し込む射撃口があり、
ここから敵を迎え撃った。
襲撃や洪水に備えて、各階に台所があり、
1ヶ月ほどであれば立てこもることも可能だという。
最上階には祭壇が設けられ、先祖が祭られている。

 開平たい楼の材料であるコンクリートや鉄は、
華僑がその財力のままに外国から輸入したものが殆どで、
国内の材料を使用するにしても良質なものを使用していた。

 たい楼の主は、その財力を誇示するために、
内部はもとより外壁にも豪華な装飾を用いた。
これでは逆に盗賊に狙われやすいのではないかという矛盾が発生するが、
何よりも
 まず虚栄心を優先させているところはさすがである。
上部の外壁は主の好みによって、
中国伝統様式、バロック式、ローマ式、ギリシャ式など、
宮殿を模したような贅沢な装飾が施された。

 外壁の装飾に限らず、窓の数も財力を示す指標となる。
窓が多いとなると、それを補う為の相当な軍備や余裕がある。
すなわち、財力があるということを示すからである。(ガイドブックより) 
     
■100`離れた経済特区=珠海市を経て澳門(マカオ)へ

 未舗装のガタガタ道を再び通って、高速道路に入り、一路マカオへ。

 「世界遺産になって、急に道路整備が進められ、
計画では昨年末に出来上がると言っていたのに、全く進んでいない。
いつ完成するのか、さっぱりわからない。」
とぼやく金さん。

 日曜日なのに、男女入り混じって
あちこちで、日雇い人夫風に道路工事をしていた。
  
 田園風景が続く高速道路を走っていく間、
また金さんがぼやく。

 「いま、中国では軽油が不足していて、
ガソリンスタンドでも給油できるかどうかわからない。」

 現に最初のGSでは、給油できず、
2回目にようやく、量的に制限されて給油することができた。
 日本でもこの4月にガソリンが値下げになったが、
道路への特定財源の確保のための税率などの期限切れによるもので、
基本的には原油価格の高騰の影響が気になる。

そして再び5月には一挙に1?×20〜30円ほど再び値上げされる。

これに加え、化石燃料に代わるバイオ燃料の導入による穀物価格の高騰や
世界的マネーゲームによって、
世界中の、特に開発途上国などでの生活物資の高騰、物価の高騰は深刻だ。

 そんなことを考えながら、車が100`ほど走った後、
マカオに接する経済特区の珠海市に着いた。
ここで、昼食。

 敷地の広いレストラン(鴻軒「大宅門」)で、また円卓を囲む。
ボラ風の魚の煮物、ガイドブックによれば、
どうも“ハタの蒸し物(清蒸東星斑) ”みたいだ。
それに“干扁四季荳”(インゲン豆の炒め物)とエビチリ、青菜の炒め物、
またまたアヒルの足を12人で取り合って食べた。

そういえば、高速道路から見える田園風景には、
たくさんの池があり、アヒルが飼われていた。
アヒルに関しては需要と供給のバランスが取れているようだ。



それにしても、このアヒルの料理にはビールが似合う。
珠江?酒 “純生”を頼んだのは、私だけだった。蒸し暑いので、のどごしもいい。

■経済特区、珠海市の「拱北口岸」でイミグレ、マカオ入り

 マカオに入るには、「拱北口岸」(GONGBEI PORT) でイミグレ(通関手続き)が必要だ。
日曜ということもあったのか、混雑していた。



ガイドさんは、金さんから、マカオへのイミグレだけを担当する人に代わり、
その後マカオ側で待っていた女性のガイド“東・リリーさん”に代わる。
日本人と結婚しているというリリーさんは、マカオ人だ。

リリーさんによると、
ギャンブルや買い物などで中国本土からの往来が年々、多くなっている。
 一行のなかでただ一人、65歳超の人がいて、
中国でのイミグレでは、老人は優遇され、
ガイドさんが別の通路へ案内していった。

誰かがいった。

「日本とはえらい違いやな!
後期高齢者制度とかで、お年寄りを冷たく別扱いしているけど、
これが当たり前やわな」

「そうや、そうや」。

この4月から実施された、日本でのお年寄りを隔離する差別的な後期高齢医療制度への怒りは、大きい。

■マカオの世界遺産めぐり

 息つく間もなく、2日目の最後の行程、マカオの世界遺産めぐりへ。
 最初は、マカオのシンボルといわれる聖ポール天主堂跡。
ものすごい観光客だ。



「17世紀初頭、イエズス会宣教師によって建てられ、
聖母教会と呼ばれる東洋一の壮大な建築美を誇っていた。

建設には日本からも幕府の弾圧を逃れたキリシタンが加わった。
1835年に火災で今の正面の壁(ファサード)と階段だけが残っている。」

とガイドブックに載っている。

壁面の様々な像の説明やエピソードを語るガイドさんの話はうまい。
中に入ると、当時の絵画や銀食器などの調度品が展示され、
ここで亡くなった日本人も日本語で銘板に記されていた。

 ●【カジノあれこれ…収益UPでマカオ市民全員に8万香港ドルのプレゼント】

 博物館風の天主堂から外へ出ると、次に人気が少ない天主堂の脇に案内された。
そこには、当時の古い壁が残され、
それも世界遺産となっていて、横には道教の祭壇がある。
宗教が混在し、いまも生かされているのは、平和の象徴か?

 ここからはファサードを後ろから見ることになる。
その先にどうしても目に入る建物、
マカオ中に権威を誇示しているような変わった建物がある。
「ニュー・リスボア・ホテル」だ。

所有者はスタンフォード氏。
100年前からマカオのカジノを一人で独占していた人物だ。
1999年の返還後の2002年、6人にカジノのライセンスが与えられ、
スタンフォードのカジノ独占に終止符を打たれた。
今日ではラスベガス・スタイルのカジノ方式が採用され、大繁盛するようになった。

 ●マカオ市民は無税のうえに…

 マカオは、人口52万人で、95%が中国系。
カジノは24時間営業で3交代制。
ディーラーはすべてマカオ人だけ。
繁盛し続けるカジノでのディーラーの需要が増え、他の職業は人で不足だという。
その穴埋めに、中国本土やフィリピン、タイなどから8万人が就業。

ちなみに、カジノのディーラーの給料は、日本円で25万〜30万円という。

 カジノでの収益が1日10億香港ドルもあり、“People’s Daily Online”によると、

経済成長率は今年、13%に達する見込みだ。
アジア太平洋地域におけるコンベンション産業の成長が最も著しい都市となっている。
それが関連業界の収益を9倍に引き伸ばし、
ホテル業、飲食業、商業、娯楽業などを発展させ、経済成長を促すという。

 こうした観光・レジャー産業などで潤ってきたマカオ市民は、もともと無税であるが、
このうえ、最近の渦巻くカジノ景気により、
7月から、特別行政区政府はマカオ市民1人当たり8万香港ドルをプレゼントする。
4日前に発表されたそうだ。
マカオ市民のリリーさんは「何に使おうかな」と贅沢な悩みをかかえている。

 ●ポルトガル風のコロニアル建築様式のセドナ広場


 天主堂をあとにして、次へ行ったのは、
商店街(覃草地街Rua da Palha)を抜けて、
「聖ドミニク教会」(?瑰堂St Dominic Church)、そしてセナド広場へ。

 「聖ドミニク教会」のなかへ入ると、
正面に聖母マリア像がまつられている荘厳な教会らしい雰囲気に少し圧倒された。
そこを出ると、教会の前の小さな広場で、
反政府運動の展示をしていたが、内容からすると右翼っぽい。
マカオも、香港も反体制批判は比較的自由に行われている。
一方、街中に北京オリンピックの垂れ幕やら、看板やらが目立つ。



 セナド広場へ出ると、噴水のまわりをコロニアル風の建物が取り囲む。
「民政總署」と書かれた建物は、最高行政機関。
つまり市役所みたいなところで、
ポルトガル風のコロニアル様式の建築として名高いそうだ。

●338mのマカオタワーとバンジージャンプ

 このあと、高さ338mのマカオ・タワーへ移動。
マカオ市内や中国本土の街並みまではっきり見えるという展望台まで高速エレベーターで行った。
どんよりした雲に覆われた天気なので、視界は悪い。こういう天気は多いという。

展望台からは、バンジージャンプや空中を歩くアトラクション(スカイウォーク)があり、
窓の外を命綱をつけて女性含む数人が恐るおそる歩いている。
ちょうど日本人がバンジーに挑戦するところだった。
足元はガラス張りで300m下が見えるが、勇気あるジャンプに拍手喝采。

一方、300m下が見えるガラス張りの床は、そこに立っても安全だとはいえ、
じっと立って下を見るのに、勇気がいる。
妻は下を見ずに、「ほら、渡れるよ」といって、ガラスの上を渡ってきた。

 そのあと、ぺンニャ教会へ行き、マカオタワーや夕暮れ時の東シナ海(珠江河口)と
マカオ市内などを眺めたあと、
夕食場所のRIO HOTELへと向かった。



■“一攫千金?”を夢見て、はじめて、カジノでギャンブルの挑戦!

 Rio Hotel & Casinoでの夕食は、ポルトガル料理。
12人の一行ははじめて、円卓から各人の料理となった。

メインディッシュは「鶏肉」or「魚」を選ぶ。妻は「鶏肉」で、私は「魚」。
料理はサラダ、スープ、メインディッシュ、デザートのコース。
メインディッシュは大皿にスパゲッティが添えてあり、少し辛味のスパイスが効いていて、おいしい。
「魚」はどうも舌ヒラメらしい。

そんなに変った料理でもないが、
ボトルで注文したポルトガルワインはコクと酸味がおいしさをかもしだしていた。
半分ほど残したものをテイクアウト。あとで、部屋でもういちど堪能した。

 一行は、申込時にマカオ・香港でのホテルのランクアップ(1人4,000円up×2日)を
選択することになっている。
ここを選んだのは私たちを含め2組だけだった。
マカオでは、ランクアップ組は、Rio Hotelとなる。

 マカオで最も評判の良いホテルの1つだといわれ、
イタリアの宮殿を模した造りは外観、内装ともにゴージャス。
ホテル内の本格的な日本料理「飯田」は地元でも人気が高い。
       
 夕食後のOPで、ベネチアンホテルのカジノ&ショッピングモール観光があったが、
Rio Hotelでそのまま残り、しばし休憩し、ここでカジノへ挑戦することにした。

 

その前に、周辺を散策。昼とは違って、雰囲気は一挙に歓楽街的に様相が変わる。
“押”という看板がいたるところにあり、日本でいえば“質屋”になる。
店には、ブランドもんの時計などが並ぶ。
通りには、海産物や南国のフルーツなどの店、宝石店も多くあり、
ところどころに客引きの女性が見え隠れする。

 ホテルに帰ったあと、ボディガード付きの金属探知器のゲート=セキュリティをくぐると、
カジノの中を自由に歩ける。

 中国本土から来ているらしい何人かのグループが、
“バカラ”とかいうゲームに興じていた。

チップの張り方などディーラーとの微妙な駆け引きややり方などを、しばし観戦。
ルールはわからないわ、言葉も通じないんでは、ただ観戦するだけ。
フロアーをもうひとつ上がるとホテルに泊まっているような客層になる。

 思い切ってルーレットに挑戦してみた。

 香港ドルで100HK$(約1,500円?)をチップに換えて、ひとゲームだけやってみた。
一回もあたりもせず、3回張っただけですぐに終わってしまった。

スロットマシンもやってみたが、やり方がわからず、
HK$100がHK$2のコイン2〜3枚だけになった。
やはりずぶの素人ではだめだ。

 一攫千金の夢は、たちまちのうちに噛み砕かれてしまった。
わずか、100や200HK$で夢を見れるわけがない。

【3日目】高速船で、香港へ  
             
 朝のバイキングは、豪華なレストランで豊富な野菜やフルーツを堪能。
 7:30頃、ホテルから香港行きのジェットフォイル(高速船)に乗るため、マカオ埠頭へ。
リリーさんは、ここで終わる。
珠海からマカオへ、マカオから香港へ入るのに、
すべて出入国カードとパスポートが必要だ。
出入国カードや乗船の手配は、リリーさんが用意してくれている。

●霧にむせぶ香港

ジェットフォイルは香港島まで、所要時間55分。片道HK$138(平日)。
香港―マカオ間には、ジェットフォイル以外に、
世界唯一のヘリコプターの国際的便がある。
満員のジェットフォイルが出発するや否や、
ヘリコプターの定期便がすでに一機やってきた。



 海は濁っているが、実はここは珠江口という河口になるという。
マカオの周辺には、珠江から流れてくる泥がどんどん堆積する。
それをサルベージして埋め立てに使い、マカオのかなりの部分がこうしてできている
とリリーさんは言っていた。

香港に近づくにつれ、確かに海の色が変わってきて、少し澄んできているようだ。
 実は昨夜、土砂降りの雨が降った。
ホテルの窓を滝のように流れていたのだが、一行のほとんどは気がつかなったらしい。
香港までは、雨上がりで全体的にどんよりしていた。

 香港島に近づくと標高554mあるビクトリア・ピークの山頂と林立する 
高層ビルのてっぺんも雲に隠れて見えない。



 霧にむせぶはじめての香港に少しわくわくする。

 香港島の上環(Sheung Wan)のマカオ・フェリーターミナルから上陸。
「信徳中心」のイミグレ通過後、香港でのガイド、許さんが待っていた。

■サンパン船から水上生活を見る

 最初に連れていってくれたのは、
「昔ながらの面影を残す香港有数のベッドタウン、香港仔(アバディーンAberdeen)」
で、海上に浮かぶ水上生活者をサンパンという船で見学(15分)。



サンパンを操るのは、地元のおばちゃん。
操船しながら、一生けん命しゃべっているが、
案内しているのだろうか、全く言葉がわからない。

ちょうど12人でいっぱいのサンパンをたくみに操船し、
停泊しているクルーザーの間を抜けると
目に入ったのは、
豪華けんらんの水上レストラン“JUNBO FLOATING RESTAURANT(ジャンボ・キングダム)”。

その近くに、現在、数は減ったというが、
海上で生活の場とする船が連なって浮かんでいる。
洗濯物や台所まで見え、犬がねそべったり、のんびり釣りをしている人もいる。
 台風などが来たときは、どうするのだろうか?

■映画「慕情」のロケ地へ


 車は、映画「慕情」の舞台となったレパルス・ベイ(淺水灣)へ。
 豪華な別荘や高級マンションが並ぶ海岸線を走って行くが、



「これが人気の別荘で、だいたい日本円で15億円。安いところでも、5〜7億円。
ジャッキー・チェンとか、亡くなったテレサ・テンの別荘もこの辺にある。」

 許さんは、車中で香港事情を説明してくれた。

「香港は、人口690万人。観光客は年間2,300万人。
うち中国から800万人、日本からは100万人ほど。
車は80%が日本製で、電気製品となると90%占める。
ただし、Made in China。」

「労働者の給料はだいたい1万4千円。住宅
費が高く、収入の4割が家賃。6畳で5〜6万円。」

「別荘を持ち、メイドが5〜6人いる人もおり、
香港での貧富の差は激しい。」などなど。

 レパルス・ベイの三日月のビーチなどで撮影された慕情は、
バディ・アドラー監督の作品(1955)だ。
ウィリアム・ホールディンとジェニファー・ジョーンズが演じている。

ビーチを素通りして、行った先は、漁師の守り神の天后廟はじめ、
よろずの神たちが居並ぶ空間は、
欧風リゾートのなかで、どちらが主なのかわからない。

■香港島から九龍へ、庶民の信仰のメッカ「黄大仙」へ

 3か所目は、ビクトリア・ピーク(太平山頂)だ。曲
がりくねった道をバスが進むが、頂上付近は霧につつまれていて、
香港のすばらしい眺めを目にすることはできなかった。

 車は、香港島から九龍へ。
九龍へは地下専用道を通って行き、
四川料理 “錦川樓(KAM CHUEN LAU RESTAURANT)”へ直行。
そして、貴金属店へと案内されたあと、
「香港庶民の信仰のメッカ、黄大仙」へ。



 線香をもってお供えし、手を合わせる人、人、人。
信心深い人が実に多く、願い事や占い事などでたくさんの人で、
境内はごった返ししていた。

 ●黄大仙廟は、もともとは1915年に広州で創建され、1921年現在の場所に移転。
香港最大の寺院で、病気に効くとされる本尊には参拝者が絶えない。
また、占いのメッカといわれ、境内で竹筒のおみくじを引いて、解説してもらう。
手相、人相、風水などを占う。

 反政府宣伝活動やら、蚊の警告やらこの黄大仙廟の駐車場では、
「反中共!」の看板と新聞配布などマイクを持って数人が宣伝していた。

許さんは車のなかで
「新聞を受け取っていないですね?」
と切り出した。

 以前、中国の国内からの観光客が何も知らずに受けとってしまい、バッグの中に入れたらしい。
それが、イミグレでみつかり、
「反政府行動」の理由で逮捕、2週間の拘禁、投獄されたという。
北京五輪を控え、本土では「国家政権転覆扇動容疑」なる理由で、
チベット問題にかかわる市民活動家らが逮捕されているらしい。

 香港が返還される際に、
中国が約束した香港の行政長官などの直接選挙は、
いまだ実施されていない。
一方、香港経済は中国の企業や観光客がもたらすマネーで好景気になり、
以前の失業率8%がいまでは4%を切っている。
こうした経済事情が市民運動を鈍らせている面もあるのではないか。

 写真は、「駐車料金の告示」と「蚊の撲滅のよびかけ」

 

■関西のおばちゃんによる漫談風商品案内に拍手喝采

 黄大仙の次は、シルク民芸品店でのショッピング。
ここの店員さんで日本人の、しかも関西出身のおばちゃんが
漫談風の絶妙な商品紹介に、一行は拍手喝采。
肌がよくなるシルクのタオルやテーブルかけを購入してしまった。

 さらに、別の免税店、GALLERIAへ案内される。
実は高級ブランド品とほとんど見分けがつかないバッグや時計などを販売している
“ヤミ免税店”を別に紹介してくれた。

 GALLERIAから歩いて5分ほどのビルに案内された。
ここで、娘にLOUIS VUITTONのカバン2個4万2千円(実勢価格は数10万円)、
私の時計CALTIER×1万3千円(同28〜34万円)、
LOUIS VUITTONの定期入れを購入(1$=1.37円)。

 また、車中でガイドさんによる商品販売があり、
疲労、胃痛、きず、やけど、花粉症などに効くという
「百合油」(リリーオイル)というメンタムみたいなものを
12個入り1ケース(HK$200)を買った。
あとでホテルに帰った後、肩こりがひどいので、
塗ってみると、意外と効果がありそうだ。

帰国後、水虫にも効果を発揮し、
肩こりやきりきず、神経痛、関節炎、歯痛、乗り物酔い、カゼなど、
いろいろ効能が並べられている。
実際、治療所でも使い、けっこう重宝がっている。
香港人は普段からかばんなどに入れてフル活用しているらしい。

 いったん、ホテルへ行き、しばし休憩後、
北京ダック付き北京料理“漢京樓(HON KING RESTAURANT)”へ。
ここで、紹興酒を注文。

 ●百万jの夜景


 最後に、AVENUE OF STARSからSINPHONY OF LIGHTS(香港島の夜景)を彩る
レーザー光線で光の饗宴に見とれ、海風に当たりながら、
どこか心が和むような時間を過ごした。
ただ、レーザー光線なので、花火が上がったりするイメージとかけ離れていて、
少し物足りなさが残ってしまった。



 AVENUE OF STARSは海沿いのプロムナードで、
ブルース・リーの像や、足元にはスターの手形がある。
SINPHONY OF LIGHTSは、
毎晩8時より13分間繰り広げられる光と音のマルチメディアショー。
ビルのネオンには、日本の大手企業がズラリ並んでいる。

 ●オープントップバスでの夜の繁華街見学



 そのまま、オープントップバス(OP)と女人街散策のコース。
2階建てバスの屋根を取っ払って風を受けて走るオープンバスによる眺めは実に爽快だ。

 女人街は、子どもだましの夜店みたいなもので、バッタもん商品のオンパレード。
場末には、地元の人のための市場があったが、すでに店じまいになっていた。  

 夜10時頃、
L'HOTEL NINA ET KONVENTION CENTER(如心海景酒店、チェンワンTSUEN WAN)
に到着。

ホテルは、さすがランクアップしただけのことはあり、
内装も、景色も高級感あふれ、最高の気分を満喫した。



チェンワンは、九龍と香港国際空港の中間にあり、ホテルの窓から見えるのは、近水湾・釣魚湾。

【4日目】高速鉄道で、九龍〜広州。そして帰国 
     
 朝食は、高速鉄道の始発駅「紅?火車站(HUNG HOM Stn.)」の近くにある
リーガル・カオルーン・ホテルで、お粥と点心。

●九広鉄道直行列車

 いよいよ、最後の旅である「九広鉄道直行列車」の「ホンハム駅」へ。

 ここで、少し時間があったのと、香港ドルを使い切ってしまおうと、構内の店で買い物。
ちょうど、漢方薬店があったので、
「五花茶」13$、「八珍湯」23$、「健胃霊芝湯」29$、「壮腰培元湯」29$、「降膽固醇湯」38$、
日本製だが「求心油」35$、計167$分購入した(1$=17.5円ぐらいで3,000円足らず)。
 
 列車は、4人掛けゆったりした旅になった。
香港から、深せんに入ると大気汚染がひどくなるのがわかる。
深せんは、経済成長の著しい都市で、人口の平均年齢がなんと29歳。
うち女性が8割を占めるという。
農村部からの出稼ぎなのか、労働者の給料は、1万4千円。
日本の“女工哀史”を思い出す。

 しばらくすると、
女性の鉄道職員が2人、ボトルに入った蒸留水を運んできて、配ってくれた。
列車には、車内販売のシステムはないらしい。



●列車内では、妻がはじめて「旅のメモ」をとる。

「3泊4日の旅も終りを迎えている。
いまは、香港―広州、特急列車の中だ。
昨夜は香港のイルミネーション夜景は
確かにきれいで、ビーム光線あり、ビルのライトアップあり…。
でも、もっときらびやかなものを想像していたが、少々物足りずといった感じ。

 チッチと二人、いやツアーの旅友達と話しながらの旅もなかなかいいもの!
 ところが、実は、ツアーからはずれて別行動をチッチが企んでおったのです。
いつもの知らない街での電車のツアー?? 
 私はみんなと同じコースに行きたかったのだ。
まぁー、それにはいろいろ事情もあり、不安もありで。

(企みは、未遂に終わってしまった)

 オープントップバスはジェットコースター的で、とても風が気持ち良かった。
香港というところは、どう表現したらいいのか、
もちろん観光の街だが、裏も秘められた商売の街。
偽物ブランドの買い物も、おもしろかったし、
娘2人にカバンを買ったが喜ぶかな?
 いま、この列車では、2人のおじさんと同席し、楽しい旅となる。」

 「2人のおじさん」は実は、私より1つ年上と同い年の2人であった。
お酒も、煙草も吸わない。優等生だ。

 列車は途中、「新界駅」といわれるところで、乗客の8割ほどが下車。
広州までの道のりで、停車したのはここだけ。
広州までは香港から1時間30分ほどで到着。

 空港までのガイドの包さんが迎えてくれた。

 ●空港までの車中、包さんは、中国事情を説明。

 「いま、中国は、貧富の差が激しく、雲南省では年収5,000円が普通。
広州では、だいたい給料は10〜15万ほど。
 今年、広州には、日本からの観光客が、チベット問題なども影響して2〜3割減っている。
 背景には、国民のなかに、不平等や貧しさへの不満がつのっていて、
党の幹部、役人などのなかには、金持からわいろも受け取ったり、
それがチベット問題に端を発して、爆発しつつある。
 北京オリンピックもあり、政府は必死に抑えにかかっているが…。」

 空港のレストランで、飲茶の昼食をとり、広州空港をあとにした。

 ●老三届(ラオサンチェ)

 帰国後、「朝日新聞」(5月3日付)に中国のジャーナリスト(莫邦富氏)のコラムが載っていた。

 「文化大革命時代初期の3年間に中学、高校を卒業した人たちは
“老三届(ラオサンチェ) ”
と呼ばれた。
それに対して、80年代生まれの若者を “80後”」と呼ぶ。

「若々しい、おしゃれ、高学歴、スマートといったイメージ」の
「一人っ子で比較的裕福な環境にあり、
欧米に心酔し、自由を謳歌する彼らは、
共産党支配や伝統社会に不信の目を向け、
政治よりも英語や金もうけに関心を持つ」。

しかし、
「意外なことに欧米などで起きた聖火リレーに対する一連の妨害に対し、
海外留学中の80後たちが、インターネットやユーチューブを通して、
西側メディアの報道が偏見だと批判。
聖火ランナーが通過する国や町に殺到」し、聖火の通過の護衛にあたった。

莫氏は、いう。
「(80後の)彼らこそが中国の政治改革に必要な土壌だ。
やがて彼らは中国を変えるだろう。」

 市場経済と社会主義経済を並行してすすむ新たな国家づくりには、
まだまだ未知の世界がある。
 ただ、貧富の差を激しくしてしまった著しい経済成長と荒れ狂う環境破壊には、
 オリンピックが終わってからこそ、全力で手をつけなければ、
取り返しのつかない結果を生み出すのではないか。

 <完>


 ●香港は、日本と同じようなバブルの崩壊を経験した。

香港政府・広報部長(林瑞麟)によれば、

「数年にわたって高率のインフレが続いた。
90年代の5〜6年、2ケタのインフレを経験した。
アジアの経済・金融危機の後、きわめて困難な調整の時期に入った。
不動産の価格は50%下落。株式市場も半分以下。
とくに1998年に厳しかった。
株式市場の取引に政府としてはじめて介入(150億米ドル規模)。
その後も、国際的投機集団とのたたかいは続いている。」という。

また、「97年の香港返還以来、北京政府は“一国二制度”を尊重。
外交と軍事は北京が握っているが、
香港の選挙、香港ドル・外為管理、WTOやAPECへの参加を認めている。

“一国二制度”は順調に機能」している。デモと集会の自由がある。

 対談した不破哲三委員長は、次のようにコメントした。

「“一国二制度”は、互いに刺激しあい、学びあい、これが将来、新しい発展につながっていく。
吸収しあう有機的な関係で、新しいものを生み出す可能性を秘めている。」

(『日本共産党の東南アジア訪問』より)








韓国・ソール 韓方病院体験記(お礼のメール)

2005年03月27日 (日)

※ これは、韓国に行って、韓方病院の体験的な診察を引き受けていただいたキムさんへのお礼のメールです。


 慶煕大学附属韓方病院・外国人診療室 キム・ミファ 様


  3月21日に、貴病院に、体験をかねた診察をしていただきました佐藤啓二・妙子と申します。
 
  忙しいなか、貴重な時間をさいて、診察をしていただき、ありがとうございます。

  こちらの勝手な都合で、お約束の時間に大幅に遅れてしまい、大変申し訳なく思っています。
 ほんの少しの時間でしたが、貴重な体験をさせていただき、心から感謝しています。
 また、キムさんには、お支払いなどでのご親切な対応に、心からお礼を申し上げます。
 ありがとうございました。先生にも、ぜひお伝えください。


(注):病院に着いたのは、午前10時20分頃でした。
 受付で、外国人診療室に連絡してもらい、数分後にキムさんがあらわれ、診療室へ連れて行ってくれました。
早速、問診にあたる「アンケート」に記入。
終わったら、キムさんがすばやくコンピューターに打ち込み、データ化する。
それが終わるころ女医さんがあらわれ、
キムさんの通訳でデータと照合しながら問診、脈診などを行ってもらいました。
時間があれば、ベッドサイドで触診など全身をチェックし、細かく診察していくところだが、
飛行機の時間に間に合いそうもない、ということで、簡単な診断をしてもらった。
 そのあと、支払いの窓口へ行ったら、日本円が使えないということで、
急遽、キムさんが病院内の銀行へ案内してくれて、何とかウォン交換の段取りまでしていただいた。

 韓国への旅は今回が2回目です。

 1回目は、今年の2月10〜12日でした。

 実は、11日が私たちの結婚25周年で、それを記念した銀婚記念ツアーでした。

 はじめての韓国旅行だったのですが、行く前に、事前のインターネットで偶然、貴病院のことを知り、
旅行の目的のひとつに、薬令市場の探索とあわせて、体験&診察をさせてもらおうと計画していました。

 ところが、ホテルから貴病院の外国人診療室の直通電話に何度か電話を差し上げたのですが、通じなくて、
ガイドさんに貴病院の代表電話へかけてもらったら、
旧正月で日本語を話せる先生(ドクター)が日本へ行っていて、対応できないということで、断念しました。
また、薬令市場も結局時間がなく、行くことができませんでした。
 
 実は、妻がおそらくストレスからくる不整脈などに悩まされていたのですが、この3日間で、
お粥や韓国の家庭料理、
コリアハウスでの宮廷料理、
サラリーマンたちが食べている食堂での食事、
寛勲洞の薬膳料理(知味房)、
それにパック旅行ではなく、ちょっとぜいたくなソールプラザホテルでのゆっくりと過ごせたこと、
また心臓によいといわれる「蓮茶」(仁寺洞の茶生園)を購入し、
日本へ帰ってから、それを飲んでからか、実際に効いたのかどうかわかりませんが、
それ以降、不整脈が出なくなりました。

 そこで、ぜひ、もう一度韓国へ行って、まだまだ食べたいものがあり、
薬令市場の探索、そして貴病院の見学と診察をしたいと話し合ったのです。

 仕事の関係で、長い滞在は無理ですので、連休を使っての旅行になります。
日本では、振替休日などで月曜日が休みになる連休が3月、7月、9月…、それぞれ1回づつあり、
一番早い3月に行くことになり、国際電話で貴病院へ予約の電話をさせていただいたわけです。

仁寺洞のクラウンホテルから、はじめて地下鉄とバスに乗り、なんとか病院にたどりつくことができました。

 ソールでは繁華街を抜けると、ハングル語の世界になり、話す言葉も字もわからず、大変でした。
 回基駅からのバスは学生さんがいっぱいで、病院に着くと患者さんも多く、びっくりしました。
地域に定着しているんだなぁー、と感じました。

 西洋医学も併せ持つ韓国の伝統的な医療、韓方内科とか鍼灸科とかがあり、
どのような診察と治療を行なうのか、貴病院に興味と関心をもちました。
 日本では残念ながら、西洋医学と東洋医学が統合して、
あるいは併用してきちんと位置付けられている病院はありません。

 日本ではようやく、昨年から医学部に漢方薬が正科として位置付けられたばかりで、
東洋医学を医学生が学ぶことになります。
 もともと日本の伝統医学である漢方医学全体(漢方薬と鍼灸、指圧マッサージなど)を学ぶことは、
それぞれの医師の自由に任されています。

 鍼灸は、法的には「医事類似行為」として位置付けられ、
「鍼灸医」や「鍼灸医学」という言葉を看板に掲げたりすることは法律で禁じられています。
しかし、「医師類似行為」として、
鍼灸師・指圧マッサージ師・日本独自の柔道整復師(整形外科的な治療)は
国家資格を持つことで、合法的に診察・治療が行なわれるようになっています。

 鍼灸医学は、漢方医学とともに、中国から、あるいは、朝鮮半島から持ち込まれ、
それが日本的な発展をとげ、予防やさまざまな病気の治療に使われ、
草の根の治療家によって脈々と引き継がれてきました。

 しかし、歴史的には、百数十年前、徳川幕府が崩壊し、封建制の江戸時代から、
天皇を中心とした近代国家としての明治時代に移行する過程で、
すでに持ち込まれていたオランダ医学やドイツ医学などが、
相次ぐ国内での戦争に大いに役立ったということもあり、
そして富国強兵の近代化政策のもとで、
漢方医学と並存する道ではなく、それを民間療法へと追いやって、
かわりにとってかわっったのが西洋医学という、
きわめて政治的、歴史的事情があります。

 その後、朝鮮半島はじめ東アジアへの間違った侵略戦争が拡大するなかで、
生体実験など西洋医学が戦争のために動員されたいう苦い経験も生まれました。
また、第2次大戦後、アメリカ軍(GHQ)が鍼灸を野蛮な行為であるとして、禁止令を出したりしたときもありました。

 最近では、鍼灸でいえば、専門の大学が4〜5校、
専門学校としては60余絞も存在し、毎年数千人の資格者が誕生しています。
しかし、開業したり、鍼灸を専門に従事したりする人は、資格者の割りにはそれほど多いとはいえません。

 2回目の韓国旅行中、竹島の帰属をめぐる領土問題や
日本政府のとる侵略政治へのあいまいな態度や姿勢に対する盧武鉉大統領の演説などの記事を見ましたが、
日韓の関係が早くいい方向で解決できたらいいなと願っています。
また、医学の面でも日中韓の関係が今後ますます交流・発展しなければならないと痛感しています。

 中国との関係では、中医薬大学や漢方医との交流をよく耳にしますが、
韓国との関係では医学部の教授レベルや韓方薬界などでの関係はあると思いますが、
日本で急増する鍼灸師レベルでの交流は、
実際はどうか知りませんが、私の感覚ではそれほどすすんでいるようには感じません。

 「冬のソナタ」ツアーばかりではなく、
医療面も含めた文化的交流がもっともっとすすめば、いいなと感じました。
朝鮮半島はじめ東アジアへの侵略を、命がけで反対した日本人が存在し、
その流れをくむ人たちは今日に引き継がれ、アメリカばかりに目を向けているような国ではなく、
日中韓など東アジアでの民間レベルでの交流がもっともっとすすみ、
引いては政府レベルでの真の交流へと発展すること、
そのためにも朝鮮半島の統一の実現と、
私自身、医療面での交流の発展に微力ながら貢献できるよう願って、
長々とした拙文ですが、お礼のメールとさせていただきます。